〈吉岡実〉を語る(小林一郎 編)

最終更新日2010年2月28日

吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕
吉岡実の手蹟 〔詩篇〈永遠の昼寝〉の清書原稿〕


目次

吉岡実と瀧口修造(1)(小林一郎、2010年2月28日)

吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(小林一郎、2010年1月31日)

吉岡実の未刊行詩篇を発見(小林一郎、2009年12月31日)

吉岡実詩集《静かな家》本文校異(小林一郎、2009年11月30日)

吉岡実と《現代詩手帖》(小林一郎、2009年10月31日)

吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(小林一郎、2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(小林一郎、2009年8月31日)

ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(小林一郎、2009年7月31日)

吉岡実歌集《魚藍》本文校異(小林一郎、2009年6月30日)

詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(小林一郎、2009年5月31日)

大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(小林一郎、2009年4月30日)

吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(小林一郎、2009年3月31日)

吉岡実と片山健(小林一郎、2009年2月28日)

吉岡実とリルケ(小林一郎、2009年1月31日)

〈わたしの作詩法?〉校異(小林一郎、2008年12月31日)

吉岡実詩集《僧侶》本文校異(小林一郎、2008年11月30日)

青山政吉のこと(小林一郎、2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕)

吉岡実の書(小林一郎、2008年9月30日)

現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(小林一郎、2008年8月31日)

吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(小林一郎、2008年7月31日)

吉岡実とつげ義春(小林一郎、2008年6月30日)

吉岡実と土方巽(小林一郎、2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

吉岡実編集の谷内六郎漫画(小林一郎、2008年4月30日)

吉田健男の装丁作品(小林一郎、2008年3月31日)

吉岡実とエズラ・パウンド(小林一郎、2008年2月29日)

吉岡実と三好豊一郎(小林一郎、2008年1月31日)

吉岡実と映画(1)(小林一郎、2007年12月31日)

吉岡実と西脇順三郎(小林一郎、2007年11月30日)

随想〈学舎喪失〉のこと(小林一郎、2007年10月31日)

吉岡実の愛唱歌(小林一郎、2007年9月30日)

吉岡実と《アラビアンナイト》(小林一郎、2007年8月31日)

リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(小林一郎、2007年7月31日)

《「死児」という絵〔増補版〕》の本文校訂(小林一郎、2007年6月30日)

吉岡実と澁澤龍彦(小林一郎、2007年5月31日)

吉岡実と吉田健男(小林一郎、2007年4月30日)

詩篇〈斑猫〉の手入れ稿(小林一郎、2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(2)(小林一郎、2007年3月31日)

吉岡実のスクラップブック(1)(小林一郎、2007年2月28日)

《柾它希家の人々》のこと(小林一郎、2007年1月31日)

高見順賞受賞挨拶(小林一郎、2006年12月31日)

吉岡実の書簡(4)――《吉岡実詩集》のこと(小林一郎、2006年11月30日)

初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか(小林一郎、2006年10月31日)

吉岡実とサミュエル・ベケット(小林一郎、2006年9月30日)

吉岡実詩の鳥の名前(小林一郎、2006年8月31日)

鳥の名前(小林一郎、2006年7月31日)

吉岡実の短歌(小林一郎、2006年6月30日)

吉岡実と左川ちか(小林一郎、2006年5月31日)

吉岡実と富澤赤黄男(小林一郎、2006年4月30日)

吉岡実の「講演」と俳句選評(小林一郎、2006年3月31日)

吉岡実の〈小伝〉(小林一郎、2006年2月28日)

吉岡実散文の骨法(小林一郎、2006年1月31日)

吉岡実と音楽(小林一郎、2005年12月31日〔2006年3月31日追記〕)

吉岡実の書簡(3)(小林一郎、2005年11月30日)

吉岡実の書簡(2)(小林一郎、2005年10月31日)

吉岡実〈突堤にて〉校異(小林一郎、2005年9月30日〔2006年4月30日追記〕)

吉岡実の書簡(1)(小林一郎、2005年8月31日)

吉岡実とジェイムズ・ジョイス(小林一郎、2005年7月31日)

詩篇〈死児〉の制作日(小林一郎、2005年6月30日)

吉岡実との談話(2)(小林一郎、2005年5月31日)

吉岡実との談話(1)(小林一郎、2005年4月30日)

吉岡実とオクタビオ・パス(小林一郎、2005年3月31日)

吉岡実の詩稿〈裸婦〉(小林一郎、2005年2月28日〔2005年5月31日追記〕)

《土方巽頌》と荷風の〈杏花余香〉(小林一郎、2005年1月31日)

厩橋を歩く(1)(小林一郎、2004年12月31日)

小森俊明氏作曲の吉岡実の歌曲(小林一郎、2004年11月30日)

吉岡実詩の中国語訳(小林一郎、2004年10月31日)

吉岡実とナボコフ(小林一郎、2004年9月30日)

吉岡実の視聴覚資料(1)(小林一郎、2004年8月31日〔2007年4月30日追記〕)

ポルノ小説《アリスの人生学校》(小林一郎、2004年7月31日)

吉岡実の未刊行詩三篇を発見(小林一郎、2004年6月30日〔2004年9月30日追記〕)

吉岡実愛蔵の稀覯書(小林一郎、2004年5月31日)

「吉岡實」から「吉岡実」へ(小林一郎、2004年4月30日〔2008年1月31日追記〕)

吉岡実の俳号(小林一郎、2004年4月30日〔2005年2月28日追記〕)

吉岡実と村野四郎(小林一郎、2004年3月31日)

吉岡実宛書簡〔1989年11月5日付〕(小林一郎、2004年2月29日)

もろだけんじ句集《樹霊半束》のこと(小林一郎、2004年1月31日)

村松嘉津《プロヷ〔ワに濁点〕ンス隨筆》(小林一郎、2003年12月31日〔2004年7月31日追記〕)

北原白秋自選歌集《花樫》(小林一郎、2003年11月30日)

《ちくま》編集者・吉岡実(小林一郎、2003年10月31日)

インターネット上の「吉岡実」(小林一郎、2003年9月30日〔2003年10月31日追記〕)

吉岡実と《金枝篇》(小林一郎、2003年8月31日)

吉岡実詩集《静物》稿本(小林一郎、2003年7月31日)

2003年版〈吉岡実〉を探す方法(小林一郎、2003年6月30日)

〈詩人の白き肖像〉(小林一郎、2003年5月31日)

H氏賞選考委員・吉岡実(小林一郎、2003年5月31日)

〈父の戦友、吉岡実〉(平井英一さん、2003年4月22日)

〈首長族の病気〉のスルス(小林一郎、2003年4月15日)

〈波よ永遠に止れ〉本文のこと(小林一郎、2003年3月31日)

吉岡実の話し方(小林一郎、2003年2月28日)

吉岡実の拳玉(小林一郎、2003年2月28日〔2006年9月30日追記〕)

吉岡実本の帯文の変遷(小林一郎、2003年1月31日〔2004年9月30日追記〕)

画家クートと詩〈模写〉の初出(小林一郎、2002年12月31日)

吉岡実の年譜(小林一郎、2002年11月12日)


吉岡実と瀧口修造(1)(小林一郎、2010年2月28日)

吉岡実にとって瀧口修造とは誰だったのか。これは大いなる謎である。瀧口と同世代の北園克衛(1902-78)は《昏睡季節》や《液体》といった吉岡の詩的出発を用意したし、瀧口の師でもあった西脇順三郎(1894-1982)は《静物》に始まる吉岡の戦後のキャリア全域を覆う存在だった。瀧口修造(1903-79)は詩人・美術評論家・造形作家とされるが、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》を筆頭とする詩作品はごくわずかであり、後年、美術評論の筆を執らなくなる一方、ドローイングなどの造形作品を残した。しかし私が問いたいのは瀧口のこうした多面的な活動のどれを吉岡が重視したかということとも違う。吉岡実年譜を摘してみよう。

一九三七年(昭和十二年) 十八歳
知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で「みづゑ」に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。

一九六七年(昭和四十二年) 四十八歳
十月、〔……〕瀧口修造の誕生日と『詩的実験』の刊行を祝う会の後、西脇順三郎に誘われて飯島耕一、大岡信と西脇家を訪問。

一九七四年(昭和四十九年) 五十五歳
秋、西落合の瀧口修造宅を訪ね『手造り諺詩集』を纏めるよう依頼する。

一九七八年(昭和五十三年) 五十九歳
在職二十七年半、十一月十五日依願退社。南天子画廊の瀧口修造とジョアン・ミロの詩画集〈ミロの星と共に〉展示会へ行く。

一九七九年(昭和五十四年) 六十歳
七月一日、瀧口修造死去。瀧口家を弔問、柩にオリーブの枝を供える。〔……〕十月、詩集『夏の宴』青土社より刊行。瀧口家を訪れ遺骨に薔薇とチョコレート『夏の宴』を供え、綾子夫人からオリーブの実を戴く。十二月、瀧口修造に捧げる作品集『雷鳴の頸飾り』に追悼詩「青と発音する」を発表。

一九八〇年(昭和五十五年) 六十一歳
六月、〔……〕草月会館で瀧口修造を偲ぶ会。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)の年譜(吉岡陽子編)に登場する瀧口修造を見るかぎり、そこから西脇や北園よりも強烈な存在をうかがうことはできない。だが、ほんとうにそうだろうか。吉岡の詩的転回を準備した瀧口訳のピカソ詩については〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉で触れたが、吉岡の詩的終焉にも瀧口(の章句)が立ちあっているのだ。亡くなる半年ほどまえに発表された、最後から二番めの詩篇〈雲井〉(未刊詩篇・19、《鷹》1989年10月号)がそれだ。同詩末尾の註記には「*瀧口修造そのほかの章句を引用している。」とあるが、そこに登場する( )や〔 〕で括られた引用句・引用文を、吉岡が最も多く参照したであろう瀧口の《余白に書く 2》(みすず書房、1982年7月1日)のテクストと照合したのが以下である(項目は、●吉岡実の詩句……瀧口修造のテクスト、【 】内は同文の《余白に書く 2》における標題、掲載ページノンブル〔漢数字〕・同行数〔アラビア数字〕)。なお地の詩句「波に洗われる/海鳥の足跡」も引用文と同列に扱った。

○(とろとろと眠りこむ/〔牧神〕ではなく)……出典未詳
○(捕虫網をかざしてゆく/長い髪の寛衣の少女)……出典未詳
○〔雨後の茸[くさびら]〕……出典未詳
○(明暗の境いを越え)……出典未詳
●(樹木の霊や/鳥獣の魂)……樹木の霊や、鳥獣の魂もいまや必死であろう。【暗中手記、二一九・13】
◎〔イデアの世界〕……本篇より先に、澁澤龍彦追悼詩篇の〈休息〉(未刊詩篇・17)に「どんなものの上にも/止まることは許されない」/〔イデアの世界〕」とある。
○(書かれた/〔言葉〕は/〔骨〕のように残るだろうか?)……出典未詳
●〔月輪〕……胎蔵界曼荼羅が大日如来を中心に、朱くはなやぐ官能の世界をすら展ろげているのに対して、金剛界曼荼羅は暗緑の基調のなかに月輪[ガナリン]と呼ばれる白色円をモチフとして、諸仏をすら微視世界に圧縮している、冷厳でいて比類を見ぬ幽雅とでもいう世界がともすれば、本来の均衡から外れて私を惹きつける。【時空への投華を、二九三・5-8】
○〔かたつむり〕……出典未詳
◎(支那人は猫の眼で/時間を読む)……出典未詳(後述)
●波に洗われる/海鳥の足跡……打ち寄せる波に洗われる寸前の、海鳥の足跡。【雲の収斂 彷徨観想者の手稿、一七一・3】
○〔泥履[どろぐつ]〕……出典未詳
○〔空〕……出典未詳
◎〔透視図法〕……本篇より先に、前掲〈休息〉に「〔透視図法〕」とある。
○〔雲井〕……出典未詳
●(虹もまた炭化する)……虹もまた炭化する刻印の運命をもつものか。【雲の収斂 彷徨観想者の手稿、一七五・7】
○(しずこころなく散る)……出典未詳
○〔黄葉〕……出典未詳
○〔籾殻〕……出典未詳
○〔記号〕……出典未詳
○〔沙庭[さにわ]〕……出典未詳
○(燃えたり 凍ったり)……出典未詳
○〔星辰〕……出典未詳
○〔煮果物[コンポート]〕……出典未詳
●(蓮のつぼみ/壺のすぼみ)……壺のすぼみと花のつぼみの悲しくもおどけた出会いがある。【クロマトポイエマ讃、一二〇・5-6】/そのとき私はふと「蓮のつぼみと壺のすぼみ」という日本語の語呂合せを思いついたのだが、そこには英詩〔“a sad and droll meeting of the curve of a vase and its prolonged-into-bud of loto[ママ]s”、A divagation upon invisible monuments: /Tribute to CHROMATOPOIEMA: The work of Junzaburo Nishiwaki & Yoshikuni Iida、(巻末横組)四一・2-3〕にあった動勢はない。【狂花思案抄、三一九・7-8】
○(その〔少女〕はまだ/完全に〔地上〕に/降り立っていない)……出典未詳

出典未詳の詩句のうちどれが「瀧口修造の章句」かはっきりしない。あるいは《余白に書く 2》以外の瀧口の書物からの引用があるかもしれないが、出典の探索はここまでにしよう。( )や〔 〕で括られた章句を発したのが瀧口だろうがボードレール(「(支那人は猫の眼で/時間を読む)」は散文詩《パリの憂愁》の一節で、吉岡はこれを澁澤龍彦のエッセイから引用したと思しい)だろうが、原典が散文だろうが散文詩だろうが問わない、というのが晩年の吉岡が到った境地だから、出典未詳の詩句の典拠を博捜することはいささか私の手に余る。さてここで、瀧口修造と吉岡実の作品発表の歴史をふりかえって、両者の関係を調べる手掛かりとしたい。

  1. 1937年3月の瀧口の〈詩を書くピカソ――Guitare de Picasso〉(《みづゑ》385号)を読んだ吉岡は1940年10月、詩歌集《昏睡季節》を刊行。
  2. 1966年5月、瀧口は《余白に書く》を刊行。
  3. 1967年11月、《瀧口修造の詩的実験 1927〜1937》(思潮社、12月)の刊行をまえに、吉岡はその内容見本に推薦文〈〔滝口修造詩集は……〕〉を寄せる。
  4. 1973年9月、瀧口は《ユリイカ》吉岡実特集号に韻文〈独り言の形式で――吉岡実に〉を寄せる。
  5. 1974年10月、吉岡は《現代詩手帖》臨時増刊号に〈舵手の書――瀧口修造氏に〉(G・22)を寄せる。
  6. 1974年秋、吉岡は筑摩書房編集部の依頼で瀧口に全集出版を打診するも、承認を得ず。
  7. 1976年9月ころ、瀧口は吉岡に〈〔時よ、アラン!〕〉の短章を贈る(1)
  8. 1979年7月1日、瀧口修造病歿(75)。
  9. 1979年8月、吉岡は追悼文〈日記風走り書き〉(〈舵手の書〉を再録)を《ユリイカ》に寄せる。
  10. 1979年12月、吉岡は追悼詩〈「青と発音する」〉(H・27)を《雷鳴の頸飾り》に寄せる。
  11. 1982年7月、〈独り言の形式で――吉岡実に〉を収めた瀧口の《余白に書く 2》刊行。
  12. 1987年9月、吉岡は〈瀧口修造死去〉〈瀧口修造の三回忌〉〈六本木の朝明け〉〈バルチュスの絵を観にゆく、夏――〈日記〉1984年より〉ほかを収めた《土方巽頌》を刊行。
  13. 1989年10月、吉岡は〈雲井〉(未刊詩篇・19)を《鷹》に寄せる。
  14. 1990年5月31日、吉岡実病歿(71)。

晩年の吉岡をめぐって、山田耕一氏から興味深い話を聴いた。瀧口修造の歿後――瀧口の章句をそのまま標題に引いた〈「青と発音する」〉(2)のあとか――、吉岡に瀧口の吸取紙を託して詩篇を執筆してもらおうと依頼したが、いつまで経っても完成せず、吸取紙は瀧口綾子夫人のもとに返されたというのである。この吸取紙は、巖谷國士《封印された星――瀧口修造と日本のアーティストたち》(平凡社、2004年12月5日)の〈瀧口修造小事典〉の「吸取紙」の項に

 水彩もしばしばこころみたが、吸取紙に描いたものがとくに意味ぶかい。紙の吸いこむ絵具やインクのにじみから、特有のオートマティックな効果が生まれる。「陰陽の片割れのほかに、行為の証拠物件か、それとも余剰行為か、罪やおそるべし。捨てるに忍びず、私はそれで三冊の本をつくった」(「手が先き、先きが手」)という。(同書、八三〜八四ページ)

とあるそれだろう。詩篇がもし完成していれば、瀧口修造の水彩と併せた吉岡実初の詩画集が誕生したかもしれない。しかし、吉岡が誰の絵画であれ抽象的な作風を好んだとは思えない。吉岡がいかに具象画を愛したかは〈画家・片山健のこと〉の一節、「期日がだいぶ過ぎた頃、片山健は一枚の絵を持って現われた。それは地の泥に埋った、木の切株や胎児らしきものの形態である。私はこの自我を押通す画家を前に、当惑した。この絵を見返しに使い、私の所持するあの夏の林の絵をカバーにするという提案をし、諒解して貰った」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六四ページ)を読めば充分だろう。瀧口修造の吸取紙をまえに、詩篇の執筆に難渋した(あるいは、当惑した)ことは想像にかたくない。私はここで瀧口の吸取紙の図版を引く替わりに、件の〈手が先き、先きが手〉を(巖谷文の前後を含む形で)引用したい。それというのも、おしまいの段落の「記号」が〈雲井〉の「〔記号〕」のスルスに思えてならないからだ。

 ブルーのインクが一種の色彩に代り、水を使いはじめる。毛筆は無用、スポンジ使用。万年筆は折れ、Gペンから手近な割箸まで。インクもペリカンなどのドローイング・インクを併用する。
 乾くのを待ってページをめくるのがもどかしく、吸取紙を使う。一気に吸着することも目前の行為に連続性をあたえる。
 しかし瞬間の定着が、紙の色面に一種の抑えた効果を生む。ふと、絵画の小窓のひとつを叩いているのか、裏口の敷居をまたいでいるのか…と思うことがある。だが引返す。動機がそこにはなかったから。
 紙面からインクと水の大部分を吸った吸取紙がつぎつぎと推〔ママ〕積し、存在[、、]しはじめる。陰陽の片割れのほかに、行為の証拠物件か。それとも余剰行為か、罪やおそるべし。
 捨てるに忍びず、私はそれで三冊の本をつくった。皮肉にも、無数の線たちに一度もあたえなかった名前を戯れてつける。「マティアス・グリューネウァルトの失われた日記、または画家のハンドブック」“BLOTTING PAPER IS SOMETHING. ET CETERA”他の題は失念(当時Y・O・の手に渡った。)
 手そのものが、人間の共有行為の記号。そこに人は運命までも読む。(《余白に書く 2》、二〇八〜二〇九ページ。初出は《季刊トランソニック》2号〔春〕、1974年4月)

吉岡実がなんら掣肘を受けずに書いた詩に瀧口修造の水彩画を併せることは可能でも、「瀧口画に触発された吉岡詩」は原理的に不発に終わらざるをえないのではないかという気がする。しかしこの不首尾は吉岡に負い目として残り、それがほぼ10年の歳月を経て〈雲井〉を書かせたと考えられる。俳句雑誌から詩篇を依頼された吉岡は、なにかのきっかけ(3)で〈独り言の形式で――吉岡実に〉(末尾に「ミ 実よ弾け/ノ 野末は/ル 瑠璃の夜の深み」というアクロスティックの句がある)を収めた《余白に書く 2》を手に取ってぱらぱらと見ているうちに、昔日の瀧口に対する負債を返済するかのように詩句を綴りはじめる、とその詩篇のそこここに瀧口の章句が埋めこまれてゆく。〔沙庭〕には吸取紙が敷きつめられ、「虹もまた炭化する」という戦慄的な章句を含む〈雲の収斂 彷徨観想者の手稿――加納光於〈葡萄彈―遍在方位について〉とともに〉から、標題は自ずと〈雲井〉に落ち着く……。ピカソの詩(4)から啓示を受けた吉岡の詩的生涯のすえに、こうした〈瀧口修造〉のいる光景を想像したくなる。その後の吉岡はわずかに〈沙庭〉(未刊詩篇・20)を得ただけで、《昏睡季節》以来半世紀にわたる詩作の筆を擱いたのである。

――――――――――

(1) 瀧口の次の短章は、おそらく新刊の《サフラン摘み》(青土社、1976)の礼状として書かれたものだろう。

    吉岡実に

時よ、アラン!
朽ちるべくして
蘇らせるこの手品
鬼気爽やかに
サフラン摘みのひるさがり

(《コレクション瀧口修造 5 余白に書く K》(みすず書房、1994年5月25日、二〇六ページ)

「アラン」は〈異霊祭〉(G・19)に見える人名で、金井美恵子との吉岡の対談に依れば、エドガー・アラン・ポーも含まれる。同詩篇の「人は生活費のために/他人のいやがる仕事をする/われわれの考え及ばぬ奸智さをもって/アラン/『貝類学の手引』をでっちあげる」は、西川正身編〈ポオ年譜〉の「一八三九年 三十歳/年の初め、教科書用に『貝類学の手引き』(The Conchologist's First Book)を出版」(佐伯彰一・福永武彦・吉田健一編《ポオ全集 第3巻〔新装版〕》、東京創元社、1970年1月20日、八五三ページ。初刊は東京創元新社、1963年12月20日)にでも依ったものだろう。付言すれば、同巻には吉田健一訳〈覚書(マルジナリア)〉が収められている。〈独り言の形式で――吉岡実に〉は“MARGINALIA”と欧文の標題を付した《余白に書く》の続編に収められており、その「何処かそこらの喫煙室で/私はやけにエコーの灰を叩きながら/あなたと欄外[、、]という話を交していた」という行を想えば、ポーと瀧口と吉岡という新たな主題が浮かびあがってくる。

(2) 〈「青と発音する」〉の標題は〈サム・フランシスとともに〉(初出:サム・フランシス展〈Blue balls〉、南画廊、1961年5月)の「青、青、私にはもうそれを青と発音する以外に手がないのだ。」(《余白に書く》、みすず書房、1966年5月30日、三七ページ)、同じく題辞の「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ」は〈はじめに〉(初出:山田美年子銅版画展、南天子画廊、1961年7月)の「青ずんだ鏡のなかに飛びこむのは今だ。」(同前、四一ページ)から採られている。

(3) 論者(小林一郎)はもろだけんじの筆名で、引用と典拠の研究から構想し〈王殺しのテーマ〉を主題に書きおろした句集《樹霊半束〔TREE-SPIRIT: SEMI-LATTICE〕》(文藝空間、1989年9月15日)を刊行(再刊)しているが、同書の初刊本(本革製のバインダー仕様)は同年4月15日の吉岡実の誕生日に生誕70年を祝して献じられた。「樹霊半束」と「(樹木の霊や/鳥獣の魂)」という詩句に関わりがあるのかは、訊きそびれた。

(4) 〈初期吉岡実詩と北園克衛・左川ちか〉で挙げていない瀧口訳のピカソの詩章のひとつに

 隅で菫色の剣時計紙の皺金属の肉片生命が頁[ペエジ]に一発見舞ふ紙は唱ふほとんど薔薇色な白い影の中のカナリヤリラ色の淡青色の影の中の空ろな白の中のひとすぢの流れ一つの手が影のぐるりで手に影をつくる一匹の非常に薔薇色の蝗一つの根が頭をあげる一本の釘何もない樹々の黒一つの魚一つの巣はだかの光の暑さは日傘を凝視める光の中の指たち紙の白さ白さの中のひかり太陽は火花散る狼を切る太陽そのひかりとても白い太陽強烈に白い太陽(《みづゑ》385号、1937年3月、〔本文の漢字は新字に改めた〕)

がある。これらの詩章と戦前の吉岡実詩(《昏睡季節》《液体》)との詳細な比較検討は、今後の課題としたい。


吉岡実詩集《サフラン摘み》本文校異(小林一郎、2010年1月31日)

吉岡実の詩集《サフラン摘み》は1976年9月30日に青土社から刊行された。詩作品31篇を収め、〈葉〉(1972年4月)から〈少年〉(1976年5月)までの全篇が本詩集以前に雑誌・新聞に、あるいは書籍の形で発表されている。本稿では、 雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞・書籍掲載形、 《サフラン摘み》(青土社、1976)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《サフラン摘み》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「禱」や「瀆」や「蠟」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「祷」や「涜」や「蝋」を使用している点をご諒解いただきたい。なお、漢字が新字の本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《サフラン摘み》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞・書籍掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに2010年1月の時点で未見だが、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる。

初出雑誌・新聞・書籍:各詩篇の本文前に記載した。本文の表示は〈少年〉以外、基本的に新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用なので、特記なき場合はこれを表わす。

《サフラン摘み》(青土社、初版は1976年9月30日〔校異の底本には最終増刷本である1979年10月30日発行の「六版」を使用した〕):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型では23字詰と25字詰〕14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ〔散文詩型では23字詰と25字詰〕19行1段組。

ひらがな・カタカナの拗促音の表記は、最終形を収めた《吉岡実全詩集》に合わせて小字に統一した。詩篇の節番号のアラビア数字・ローマ数字およびアステリスクの位置(字下げ)は《吉岡実全詩集》に倣って三字下げに統一し、字下げは校異の対象としなかった(詞書きや註記の字下げも《吉岡実全詩集》に合わせた)。本詩集の標題「サフラン摘み」は《吉岡実全詩集》では〔サフラン摘み 1972-76〕となっていて、続く前付には献辞〔23K・M・Yに献ず〕があり、単行詩集ではその対向ページに〔1972〜1976〕と独立して制作期間の表示がある。

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《サフラン摘み》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌紙名》〔発行所名〕掲載年月日(号)〔(巻)号〕)

サフラン摘み(G・1、42行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1973年7月号〔16巻7号〕)
タコ(G・2、*印が3節を従える34行、《ユリイカ》〔青土社〕1972年10月臨時増刊号〔4巻12号〕)
ヒヤシンス或は水柱(G・3、40行、《風景》〔悠々会〕1972年6月号〔13巻6号〕)
(G・4、125行、《ユリイカ》〔青土社〕1972年4月号〔4巻4号〕)
マダム・レインの子供(G・5、42行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年1月〔5巻1号〕)
悪趣味な冬の旅(G・6、85行、《中央公論》〔中央公論社〕1972年7月号〔87巻7号〕)
ピクニック(G・7、33行、《芸術生活》〔芸術生活社〕1973年7月号〔26巻7号〕)
聖あんま語彙篇(G・8、4節87行、《美術手帖》〔美術出版社〕1973年2月号〔364号〕)
わが家の記念写真(G・9、23行、《文學界》〔文藝春秋〕1973年11月号〔27巻11号〕)
生誕(G・10、19行、《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1974年3月24日〔35051号〕)
ルイス・キャロルを探す方法(G・11、〔わがアリスへの接近=43行〕〔少女伝説=*印で14節に分かつJおよびKの66行分〕109行、《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〔思潮社〕1972年6月〔1巻2号〕)
『アリス』狩り(G・12、76行、《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》〔牧神社刊〕1973年5月1日)
草上の晩餐(G・13、34行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年4月号〔17巻4号〕)
田園(G・14、12節134行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕)
自転車の上の猫(G・15、18行〈松井喜三男展〉パンフレット〔青木画廊〕1974年4月13日)
不滅の形態(G・16、20行、《別冊小説新潮》〔新潮社〕1974年7月〔夏季・26巻3号〕)
フォーサイド家の猫(G・17、*印で5節に分かつ85行、《ユリイカ》〔青土社〕1973年11月〔5巻13号〕)
絵画(G・18、30行、《風景》〔悠々会〕1974年5月号〔15巻5号〕)
異霊祭(G・19、8節161行、《異霊祭》〔書肆山田刊〈書下ろしによる叢書 草子3〉〕1974年4月25日)
動物(G・20、29行、《季刊俳句》〔中央書院〕1973年10月〔1号〕)
メデアム・夢見る家族(G・21、75行、《文芸展望》〔筑摩書房〕1974年7月〔夏・6号〕)
舵手の書(G・22、6節76行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年10月臨時増刊号〔17巻11号〕)
白夜(G・23、28行、《鷹》〔鷹俳句会〕1974年10月号〔11巻10号〕)
ゾンネンシュターンの船(G・24、5節89行、《ユリイカ》〔青土社〕1974年12月臨時増刊号〔6巻15号〕)
サイレント・あるいは鮭(G・25、41行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年1月号〔18巻1号〕)
悪趣味な夏の旅(G・26、6節72行、《新劇》〔白水社〕1975年7月号〔22巻7号〕)
示影針(グノーモン)(G・27、5節79行、《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕)
カカシ(G・28、15行、《旅》〔日本交通公社〕1975年9月号〔49巻10号〕)
少年(G・29、6節52行、《饗宴》〔書肆林檎屋〕1976年5月〔春・1号〕)
あまがつ頌(G・30、N節90行、《ユリイカ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕)
悪趣味な内面の秋の旅(G・31、7節145行、《文藝》〔河出書房新社〕1975年11月号〔14巻11号〕)

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サフラン摘み(G・1)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1973年7月号〔16巻7号〕二六〜二七ページ、本文9ポ25行1段組、42行、目次の作者名は「吉岡實」。

クレタの或る王宮の壁に
「サフラン摘み」と
呼ばれる華麗な壁画があるそうだ
そこでは 少年が四つんばいになって
サフランを摘んでいる
岩の間には碧い波がうずまき模様をくりかえす日々
だがわれわれにはうしろ姿しか見えない
少年の額に もしも太陽が差したら
星形の塩が浮んでくる
割れた少年の尻が夕暮れの岬で
突き出されるとき
われわれは 一茎のサフランの花の香液のしたたりを認める
波が来る 白い三角波
次に斬首された
美しい猿の首が飾られるであろう
目をとじた少年の闇深く入りこんだ
石英のような顔の上に
春の果実と魚で構成された
アルチンボルドの肖像画のように
腐敗してゆく すべては
表面から
処女の肌もあ〔がら→23らが〕いがたき夜の
エーゲ海の下の信仰と呪咀に
なめされた猿のトルソ
そよぐ死せる青い毛
ぬれた少年の肩が支えるものは
乳母の太股であるのか
猿のかくされた陰茎であるのか
大鏡のなかにそれはうつる
表意文字のように
夕焼は遠い円柱から染めてくる
消える波
褐色の巻貝の内部をめぐりめぐり
『歌』はうまれる
サフランの花の淡い紫
招く者があるとしたら
少年は岩棚をかけおりて
数ある仮死のなかから溺死の姿を藉りる
われわれは今しばらく 語らず
語るべからず
泳ぐ猿の迷信を――
天蓋を波が越える日までは

タコ(G・2)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1972年10月臨時増刊号〔4巻12号〕一二〜一四ページ、本文10ポ25字詰1段組、*印が3節を従える34行。

   *

火をへだてて呼びかける
やさしいタコの母親は藻をまさぐり
サンゴの棚にたれさがって
下を向く
フジツボの信仰深い孔へ
青びかりした累卵を送りこまんとする
そのそばに船長の屍体が
官能的に横たわっているときは
八点鐘を打つ
それからはじめて
タコの母親はとりみだした恋人のように
動く岩を抱く

   *

タコの生殖はとても呪われたフォームを見せる それは濡れて裂かれた傘のような肉の散乱にちかい タコのオスの七つの足は水を抱きこむ そして残されたごく先細りの一つの足がくだの器官の役目をする ちょっと見ると 靴の紐のようにみすぼらしく タコのメスの小さな孔を探し求めて入りこむ これが交接といえるだろうか 水は起伏してながれる 透明な世界では悦びもなく射精は終る すぐそばにタコのメスのみひらかれた眼がある それには汎神論的な悪意が感じられる 受胎せるタコのメスは海の底の石の巣へゆっくり帰って行く 二十万粒の透明な卵を生むために それから絶食状態のまま ブドウの房のようにたれさがった袋の卵群へ 必死に泡を吹きつづける それは呼吸に必要な酸素を送るためだ ゆらぐ海草のかげで タコの母親はただ一度の排卵で腐る肉質へと替る

   *

ひとりの女が悪い想像からうまれるように
塩と水からタコは出現したのだ
漆黒の抽象絵画
砂は砂によって埋まり
貝は内部で生きる
それは過去のことかも知れない
夏の沖から泳ぐ女がくる

ヒヤシンス或は水柱(G・3)

初出は《風景》〔悠々会〕1972年6月号〔13巻6号〕五二〜五五ページ、本文9ポ12行1段組、43行。

ミルクをのむときわれら男はいつも考える
ラジエーターのなかに
見え隠れする
ヒヤシンスのムラサキのむらがる花
恋せる女をとりかこんでは
飛上る〔(改行)→23(追い込み)〕
夜間飛行機
だから下を向く輸卵管が見え
われら男は容積のある〔(改行)→23(追い込み)〕
物体をもとめて行く
何方へ
未完の地獄絵図〔(ナシ)→23の在るところ〕
礼拝して
丸焼けの窓から
来襲する雷獣を久しいあいだ夢みて
数ある用のなかの→23馬丁は死馬を繋ぐ〕
一つの用をたす→23(トル)〕
冷たいゼリーのながれる
幹のまわり〔(ナシ)→23に〕
ギリシア悲劇の父が訪れる
バイキンのついた
夜具→23ヤマモモ〕・ヤギの乳房のふくらむ初夏〔が再びくる→23には〕
すぐに役立つものがほしい
乱軍・ラプソディー→23たとえば人には死の褥〕
ゆるやかにとける雪の山
やがて抜歯デー〔(ナシ)→23がくる〕
ユズの実をしぼる母の背後は暗い〔か?→23(トル)〕
交わる〔蠅→蝿→蠅〕のパイの皿
そこでフィルムにかぶさるナレーション聞け!
きみらにとって戦争体験とは何か?
みるかげもないミカゲ石
それは今でなく
末世の松へ戻る物の影
そのミステリー小説がすき
死せる裸体美人
藻の下をくぐりぬける
まっくろいもの
管理人はそれをつまびらかにはしない
円天井から上は豆の蔓〔(ナシ)→23がのび〕
鱒がはねる
ミリュウ
ここでみずから見ることを
水柱!

(G・4)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1972年4月号〔4巻4号〕一二〜一七ページ、本文9ポ24行1段組、135行、目次に「連祷詩」とある。

モップの棒の立てかけてある
その起源のなんと遠いこと
デパートの洗面所の
衛生的な木蔭の抒情詩
ぴかぴかした床がすきだ
だから
われわれの恥しい〔(改行)→23(追い込み)〕
擬似排便を見よ!
かたちなき灰玉
掃除婦こそこの黄金時代の
過去の器官のメカニズムを衝く
聖女勢
かくして〔(改行)→23(追い込み)〕
緋色の衣はなびき
乳兄妹がうまる
ときにはバケツ抱き父を抱き
土離れ
手法の変則を試みては散文的に
舟で〔(改行)→23(追い込み)〕
層の下の層を求めて
湖へ帰る
カンテンの半透明な世界へ
作品自体は血の気の乏しい夢をはらむ
それだから人類をシンカンさせる
浮袋の黒人の唄〔(ナシ)→23が聞え〕
思考は移る
旧き大陸のコスチーム劇は終り
デンポー→23洗われた布はなびく〕
(ナシ)→23いま〕鋲打銃で撃たれる
すべての硬質の物とまたは全汚物
肉 言葉
それについて語るのはむずかしい
回路があるとしたら
潜在的〔(ナシ)→23な空洞〕に
洗われた布→23(トル)〕
ここで見失ってはいけない
沐浴せる姙婦と火食鳥の〔声を→23すがた〕
その外的な衝突〔の→23と〕消〔(ナシ)→23去〕法の関係を
問うことができるか?
われわれは肥大する菱形をもち
マンホールのフタをひと廻りする
非人称性の都市
それは一つを用意し
二つを用意しないことによって
戦いはおわり
やがて苔むす消火器〔(改行)→23(追い込んで全角アキ)〕
臼砲
ちらちら覗く〔(改行)→23(追い込み)〕
反橋の下〔(ナシ)→23には〕
どれもこれも水虫頭の赤ん坊
流せ水
心あらば
ゴム手袋をはめてつかみだす
再生できない魂
言語
その甘皮かぶり
咲けよアネモネ→23(トル)〕
構造上から固有名詞の乱用を避け
影また影
放電アースで
ググ具象的
絞められたデズデモーナ
中世以来の絵馬の処女出産図
(ナシ)→23咲けよアネモネ〕
開きっぱなしのカメラ・ワーク
大尻を出して
カーテンのかげの
あらゆる読者を驚かせる
でも批評家は火山と家畜の運命を語る
作者を探しに谷へ
意味とリアリティとは別のものか
省察せよ
単純なタイル 多角なスタイル
バラの羊水のながれ出る
われわれの暁には
さかさまの〔(改行)→23(追い込み)〕
袋にたまるものがある
ひとつの歴史・ひとつの比喩・ひとつの栗
質素な物質
老婆のしずかな食べ方を
表現論としてまなぶ
作者の主題の外れたところで 改めて窓から眺めようか
菜の花畑〔(改行)→23(追い込み)の〕
なまなましい夫婦群〔(ナシ)→23を〕
修辞学的に考えても最良でない
アンモニアの匂い
すべからく中心の孔を開示せよ
清掃聖父は再び
火掻棒で多くのものを突く
作品営為とはそのようなものの彼方〔(ナシ)→23の〕
籾の山
幼児が向う側へまわり
そして造物母を犯す
書くこと〔(改行)→23(追い込んで全角アキ)〕
書かれること
近似性のみずみずしさ
変化ではなく
ハサミムシは消失する
あでやかな春〔(ナシ)→23の川まで〕
われわれは遊行する
芹つむ乙女の籠のなかになにか
「問題」は〔(改行)→23(追い込み)〕
在るか?
決定的なもののない世界像
ここはどこのこと
汚染されることの法悦
走る扁平タイヤの内在する
抽象死
まぎらわしい日々

発泡スチロールの函〔(ナシ)→23は積まれる〕
そのへだたりが必要だ
なまものは腐る
ハタンキョウのように
地上から消えて行く映画
青い水のプール
一字の愛
作品の終章は多くの場合パターン化の傾向〔(ナシ)→23がある〕
意識のあるうちに注意せよ
それにかかわる
人工的霊感
高まる波の夏
ものの具
装飾性をすなわち消せ
岩が出る
ニガリが宿る平面
歩むことができない作者の姿をはじめて見つけた!
下水溝への入口
書物の帝国
それがあるいは出口の金門
もしかしたら作品の終りの冬がくる
スズメガの太い胴まわり
われわれはこれを読むことが可能だろうか?
ハアハアする肺魚
――

                  〔(連祷詩《粘土説》の一部)→23(トル)〕

マダム・レインの子供(G・5)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年1月〔5巻1号〕一六〜一七ページ、本文9ポ24行1段組、42行。

マダム・レインの子供を
他人は見ない
恐しい子供の体操するところを
見たら
そのたびぼくらは死にたくなる
だからマダム・レインはいつも一人で
買物に来る
歯ブラシやネズミ捕りを
たまには卵やバンソウコウを手にとる
今日は朝から晴れているため
マダム・レインは子供に体操の練習をさせる
裸のマダム・レインは美しい
でもとても見られない細部を持っている
夏ならいいのだが
雪のふる夜をマダム・レインは分娩していたんだ
うしろからうしろからそれは出てくる
形而上的に表現すれば
「しばしば
(五下)→23(天ツキ)〕肉体は死の器で〔(追い込み)→23(改行)〕受け留められる!」
球形の集結でなりたち
成長する部分がそのまま全体といえばいえる
縦に血の線がつらなって
その末端が泛んでいるように見えるんだ
比喩として
或る魚には毛がはえていないが
或る人には毛がはえている
それは明瞭な生物の特性ゆえに
かつ死滅しやすい欠点がある
しかしマダム・レインの所有せんとする
むしろ創造しようと希っている被生命とは
ムーヴマンのない
子供と頭脳が理想美なのだ
花粉のなかを蜂のうずまく春たけなわ
縛られた一個の箱が
ぼくらの流している水の上を去って行く
マダム・レインはそれを見送る
その内情を他人は問わないでほしい
それは過ぎた「父親」かも知れないし
体操のできない未来の「子供」かも知れない
マダム・レインは秋が好きだから
紅葉をくぐりぬける

悪趣味な冬の旅(G・6)

初出は《中央公論》〔中央公論社〕1972年7月号〔87巻7号〕三二八〜三三一ページ、本文9ポ23行1段組、85行。

酢の過ぎ〔し→23る〕悪しき想い出のために
なます〔のすのもの→23(トル)〕を食べて
一人称のわたしの旅立ち
火田・水田帯をながれ出る
ミズカキをつけた子孫よさらば
ここはすでに透視画のように
つねならず 月の出を見た
ザクロ・イチジクの実のすずなりの彼方とは
何処のことであるのか
可塑的な聖性の乳房を求めて
(一下)→23(天ツキ)〕「ストッキング・スリッパ・コルセットが
(二下)→23(天ツキ)〕堆まれている」
ナフタリン臭いバラ色の
〈共食信仰〉の地をさまよい行く
まだ見えてこない
音楽の内部をうずめる肉柱のような生暖いものは
そこに空想はなく危険な生活がある
もろもろの洗濯物は燃え
夏の水はながれた

伏せられた柄杓千里の下の道を行けば
通ずる 通ずる
有機的に行き暮れる
有罪の首府へ――と
古人の云う包茎・テンソクの愉悦する日々
おお――オンドル装置を破壊せよ
「料理がつくられる」
それは抽象観念である
人民たちによって四肢へ鉄棒を突きこまれて
いる黒毛の野豚のボデーに触れ
その大いなる死の影の重いことを恐れる
過度の虚構は
或は現実そのものではないか
問いはじめよ
ドラが鳴らされる以前に
ドドッとたちのぼる蒸気と
沈む軍艦のスカートがまる見え
物質合成の歴史と長いツララは先細り
二人称のわたし・すなわち兵士きみらは逝く
カササギのかすめとぶ
雪の塹壕のすてきな敵を囲周して
だれでもがもつ心臓の奥に潜在する
正面の格子のなかに
飾られている馬蹄形の星々がある
胡麻よりも軽やかな護符をもつ死人
さながらに

蛇と桶の間で
藁をきざむ淋しい行為そのもののつづく
それからの歳月の円をふちどる血糊の道のり
いつも斜めの水瓜やコウリャン畑を越え
三人称のわたし・彼らは悪しき足をひきずり
丈高かりし麻の葉の母を追想する
むかし〔‥‥→23……〕ムカデに驚きし乙女を夢孕む
ドロの木のみどり芽ぶく日は
美しきメイストームの丘から
濡れ壁を通りぬけて
〈詩〉の〈語〉いわさず嗤うべき
一人称のわたしはなぜ
生皮の上を渡って行くのだろう
数多くある観念のうちから
不要の物をえらんでは
生木を裂く
肌着の汚れた女の側に
たしかに枝の細いところで
ナナフシのいんさんな移動を見た
二人称のわたし・君らの七変化の運命だそれは
生きている空間のピンク色より鮮やかに
その昆虫は負の形態の固定観念を示し
輝く徐々に

これこそ悪趣味な一人称のわたしの生き方に近い
白波立てる海辺で
貴婦人の蝶マスクせる尻の上で
廃墟灰掻き歩きの旅も終った
三人称のわたし・彼らが見るのは退屈な編物映画
今ここには
保存すべき物がない
水槽の氷片のように
消えるあまりに多くのもの
地理と枕と書物
つらなる雲は不運の兆しかもしれず
朝のコーヒーをのむとき
ズッズッ
ずれる芸術の土台のすべて
すばらしい梨の木の群れ咲く花々
すばらしい巣ごもりの
父娘のやさしく野蛮な生命を認める

ピクニック(G・7)

初出は《芸術生活》〔芸術生活社〕1973年7月号〔26巻7号〕〔一四〇〜一四一ページ〕、本文12ポ20行1段組、32行。

まるで〔地すべりの→23(トル)〕音楽のように
(ナシ)→23アジサイの花の色は変る〕
過去のカテドラルのように
われわれの「偉大な悪と愛」〔を→23の時代は終るだろう〕
夕焼〔を認知せよ→23の林のなかで〕
ウラジーミル・ナボコフは記述する
水浴せる少女の手から脚へ さらに届かないところへ
口は淋しく記号のような
パンセを求める
兎の毛の内部には
洋服を縫う針や形をととのえる
コテやハサミが
秩序よく収納されている
この家では女中がしゃべったり
しゃべらなかったり
長い靴下を干しに〔池→23チシャ畑〕へゆく
草の上に置かれる一個の籠には
うまく焼き上った鶏冠の肉と
それをとりまく野菜の数々がある
これがピクニックのたのしみ
すすむ少女
ずるずる沈む中年男の夢枕
ゆるむ脱腸帯〔(ナシ)→23のまま〕
番人が柄杓を持って
青い水を汲みにきたりこなかったり
考えを替える川はながれ
「理性の時代」は終るかもしれない→23石はとどまる〕
死垂る紫の葡萄〔(ナシ)→23棚〕の下で
シャワーを浴びる母娘を
遠巻きに〔する→23して〕
われわれは「暗喩」に近い存在である
へアーピンの山を〔(ナシ)→23はるか〕
兎→23夜鷹〕がとび越える

聖あんま語彙篇(G・8)

初出は《美術手帖》〔美術出版社〕1973年2月号〔364号〕一五一〜一五二ページ、本文8ポ24行3段組、4節87行。

    〈馬を鋸で挽きたくなる〉土方 巽

   1

わたしは見たんだぞッ!
薄明のたつみの方角をめざして
一人の老婆のそろえた両手のさきの指の
高さまで
水面はもちあがって来る
それがやがて水平になったとき
みせものの
なつかしい風情だ
うさん臭さうしろ暗さ
具体性はすでになく
金粉は撒かれる
優雅な命のこと切れるような日没の
観念の枠から外れる
関節の平野へ
言語から舞踏へと景色を替え
「赤子の頬にふれる
(一下)→23(天ツキ)〕網の目から
(一下)→23(天ツキ)〕わたしは何を覗けばよいのか
(一下)→23(天ツキ)〕カモイの塵
(一下)→23(天ツキ)〕くびれた茄子の尻
(一下)→23(天ツキ)〕蛸の吸出しが吸い出したもの
(一下)→23(天ツキ)〕それとも抽象された線
(一下)→23(天ツキ)〕愛」
器物へのなかま入り
を了えるために
「わたしは寝床にまんじゅうを引き入れる」

   2

往古より
大鋸ありき
棒に巻かれて
いる布や紅い糸ありき
火のついた母の半白髪が好き
真綿でフクフクくるまれた姉の足をたどって
「上に行けば精霊 下にあるもの
(一下)→23(天ツキ)〕が人形」
そしてのっぴきならない
「中間にあるものが肉体」
やがて明け方
「ゴハンを食べて裏から出て行くようなのが『家』あるいは『東北本線』」
だからそば屋の十一番目の末子は
飴でなく
「キンカクシに歯を立てる」
つまり
夜は単調ゆえに耽美的だ
生姜をすりおろすように
木舞[コマイ]編み職人の唄が聞える

   3

「歯槽膿漏の親父がおふくろのおしめを
(一下)→23(天ツキ)〕川で洗っている道端で兄が石を起し
(一下)→23(天ツキ)〕たりすると
(一下)→23(天ツキ)〕クルッとまるくなる虫がいる」
身丈を小さくすること
「物囲いの中でからだの寸法を計る」
これがいわゆる仮埋葬
割箸を裂きつつ
煉獄舞踏図を考える
わたしは水虫の人
川流れの西瓜を
死人と一緒に喰う
疱瘡だらけの真夜中の人物はだれ?
湯気が出る
戸板にのせられて
鮭の頭をかじる男が見える
炎天の下で
イボイボの胡瓜がなっている
宗教画のように

   4

長靴をはいたまま
花嫁は戻る
碍子と雪の世界から
ポタポタわたしを産むために
押入の中へ入る
「動かないものと動いている
(一下)→23(天ツキ)〕ものの半分半分」
わたしは首尾よく生れ出るだろうか?
「聖なる角度を手探る者」
となるべく
なぜか恐しい
堕し薬の煮える音響だ
麻袋をかぶった馬が立ちあがり立ちあがり
招魂せんとする
祭壇と灰の床
これはごく常識的な形式ではないか
「魚の浮袋をパチンとつぶす」
ほど自然自体だ
わたしの夢みる軟骨に必要なのは
物の発情とコールタールの悪臭である
蘇生のユーモアもともに
「スギナを噛む老人の顎を外せば
(一下)→23(天ツキ)〕火が吹き出る」

      〔(正月・七草)→23(トル)〕

わが家の記念写真(G・9)

初出は《文學界》〔文藝春秋〕1973年11月号〔27巻11号〕九ページ、本文9ポ23行1段組、23行、目次に「扉の詩」とある。

おかあさんは腰巻きする人
首つりのタモの木にそってゆき
朝日はのぼる
島の墓原で
百羽のツグミを食う猛き人
それが義理あるおとうさんの暗き心
いやになるなあ
公園からとんでくる
ラグビーボールをスカートのなかへ
おねえさんは隠したままだ
なので寄宿の猫は
沼面を走る雨にぬれる
幽鬼のように
いもうとは善意の旅をしている
星ビカリする夜々を
みなさん揃いましたか
では記念写真をとりますよ
青空へむかって
にっこり笑って下さい
でもうまく映るだろうか
時すでにぼくは
地中海沿岸地方の奥地で
コルクの木と〔共と→23とも〕に成長している

生誕(G・10)

初出は《讀賣新聞》〔読売新聞社〕1974年3月24日〔35051号〕二三面、本文8ポ1段組、20行、「エッチング・出岡実」。

横板の上に支那服の上半身をのぞかせ
一人の男が祈っている
手を組み合せて
半数の爪は黄色い木片のようだ
かたわらの毛布の下に〔(改行)→23(追い込み)〕
横たわっているものが
その妻かも知れない
大きな口のなかで鋸歯を挽く
膿の花をところどころに染めて
包帯がその琺瑯質の太股を
遠くから巻いてくる
傷つく母なる声
支那服の男の裾は〔12遙→遥〕かなる闇へ拡っているようだ
竜や香華の紋章をつけた
朱〔(ナシ)→23塗り〕の太い柱の方へ
そこだけが明るく
男と女のまわりは停止しているのに
回転している壺やナツメの実
よく見れば
一人の男が生れつつある

ルイス・キャロルを探す方法(G・11)

初出は《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〔思潮社〕1972年6月〔1巻2号〕一五七〜一六四ページ、本文9ポ25行1段組、〔わがアリスへの接近=43行〕〔少女伝説=*印で14節に分かつJおよびKの66行分〕109行、扉に「Photo by Lewis Carroll / Poem & Montage by Minoru Yoshioka」とある(〈吉岡実のレイアウト(2)〉参照)。目次の標題は単に「キャロルを探す方法」。

わがアリスへの接近

三人の少女
アリス・マードック
アリス・ジェーン・ドンキン
アリス・コンスタン〔・ス→23ス・〕ウェストマコット
彼女らの眼は何を見ているのか?
彼方にかかる縄梯子
のびたりち〔じ→23ぢ〕んだりするカタツムリ
刈りとられるマーガレットの黄と〔色→23白〕の花の庭で
彼女らの脚は囲まれている
どこから〔(全角アキ)→23(ベタ)〕それは筒のようにのぞくことができるか?
(一下)→23(天ツキ)〕「ただ〔、→23(トルアキ)〕この子の花弁がもうちょっと
(一下)→23(天ツキ)〕まくれ上がっていたら〔、→23(トルアキ)〕いうところはないんだがね[*]」
彼女らの心はものみなの上を
自転車で通る
チーズのチェシャ州の森
氷塊をギザギザの鋸の〔刄→23刃〕で挽く大男が好き
鞄のなかは鏡でなく
肉化された下着
歴史家の父の死体にニスをかけて
床の下の世界から
旅する谿のみどりの水をくぐる
一人の少女を捕えよ
なやましく長い髪
眠っている時は永遠の花嫁の歯のように
ときどきひらかれる
言語格子
鉛筆をなめながら
わが少女アリス・リ〔ッ→23(トル)〕デル
きみはたしかに四番目に浅瀬をわたってくる
それは仮称にすぎない
〈数〉の外にいて
あらゆる少女のなかのただひとりの召女!
きみはものの上を通らずに
灰と焔の最後にきた
それでいてきみは濡れている
雨そのもの
ニラ畑へ行隠れの
鳩の羽の血
形があるようでなく
ただ見つけ出さなければならない浄福の犯罪
大理石の内面を截れ
アイリス・紅い縞・秋・アリス
リ〔ッ→23(トル)〕デル!

         *ルイス・キャロル〔《→23〈〕鏡の国のアリス〔》→23〉〕岡田忠軒訳より

少女伝説

   J

ド〔ッグ→23ジ〕ソン家の姉妹ルイザ マーガレット 〔ア→23ヘ〕ンリエッタ〔(全角アキ)→23(ベタ)〕緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝巻のなかは巻貝三個

   *

父ジョージ・マクドナルドはひげをのばし 長女リリーの唇は イチジクの汁でよごれる 婦人帽の下からツタの葉を茂らせる継母 父に抱れて 鳥の巣を採る弟

   *

アグネス・フロレンス・プライスは今日も一つの大きな人形を抱く 中世のかつらをつけた裁判官の姿をした人形を わたしの罪を罰して! 縞の下着をつけていることを

   *

エリザベス・〔ヒュースィ→23ハッセ〕ー よい名それとも変な名 ロバー・〔ヒュースィ→23ハッセ〕ー教授の娘 絹のソファーへ横たわって 午後は母を待つ 母は医者を待つ 夜は父を待つ 母を待つ父を わたしは待つ 絹を傷つける虎を待つ

   *

ああアイリーン・ウィルソン・トッドよ 風に吹かれたあの長い髪が庭の木を巻く 恐ろしいことに木の幹がつるつるしている 死んでいる木 生きている木 叩くなら木の股を 大梯子へあがって兄の首を吊すこと

   *

窓から見えるエフイー・ミレエ〔ス→23ー〕 父と母と〔妹→23娘〕がこの窓から飛びおりるのを〔(ベタ)→23(全角アキ)〕上からのぞいたような気がする

   *

フフフ笑うフランクリン夫人の娘時代に似ている うつむくバラのなかのローズ 子守唄は自分で唄うのよ バラよ眠るなかれ!

   *

マリ〔(ナシ)→23リ〕ア・ホワイトの白いマリがころがってゆく 止るところがあるだろうか ランベス・パレスの荘重な門で止る 恐しい顔をして叔父が門を閉めたから

   *

マ〔ドリーヌ→23デライン〕・キャサリン・パーネル 水兵服が好き 水浴びが好き 横顔が好き

   *

C・バーカー牧師の娘メイは椅子の上へ立っている 靴のまま この狼藉の恍惚 十二〔才→23歳〕になったら飛びおりる

   *

メリークリスマス 病める雪 病める七面鳥の声 わたしはメ〔(ナシ)→23ア〕リー・マクドナルド ジョージ・マクドナルドの娘 うずくまる母と姉 鮭の燻製がきらい

   *

エラ・モニア〔ー→23・〕ウイリアムズ 廊下をほうきで掃く どこまでもどこまでも暗い家 教授は今朝は「寒い」とひとこと云った

   *

主任判事→23首席裁判官〕デンマン卿の娘グレイス・デンマン 石の階段の一番下が彼女の憩いの世界 重い大きな鎚で赤いカニを一撃したら 恋する女の心にちかづく

   *

父は芸術家アーサー・ヒューズ つくられたものアグネス ウサギのように毛のある服を着て おしっこしたくなる 春から夏まで キヅタの棚の下の召使たちの恋

   K

テニ〔ス→23ソ〕ン夫人の姪アグネス・グレイス・ウェルドは赤い乗馬頭巾とマントを着け 馬のうしろに幼い友だちを呼ぶ 〔コートゥス教区司祭→23クロフト牧師〕館の使用人の娘〔クロフト・レクトリー→23(全角アキ)仇名は「コーツ」〕 教授の娘エリザベス・〔ヒュセイ→23ハッセー〕 芸術家の娘〔ア→23エ〕ミイ・ヒューズ T・B〔(ナシ)→23・〕ストロング博士の姪ゾーイ ジョージ・マクドナルドの娘 髪がうまくとかせない〔イレ→23アイリ〕ー〔ネ→23ン〕 その姉メアリー 〔ピュー→23パ〕トニ〔ィ→23(トル)〕ーの教区〔(ナシ)→23牧〕師の娘ベアトリス・へン〔レイ→23リー〕 エレン・テリイの妹たちマリオンとフロレンス リポン僧正の娘フローレンス・ビッカーステス ピュ〔ッシ→23ージ〕ー博士の孫娘〔カ→23ケイ〕ティー・ブライ〔ヌ→23ン〕 ジョ〔ー→23(トル)〕ン・ミレ〔エス→23ー〕の娘メアリ クランボ〔ヌ→23ーン〕教区〔司祭→23牧師〕の娘〔ダイ→23ディ〕ンフナ・エリス
          遅れてきたのは誰? あら支那の娘の〔紛→23扮〕装したアレクサンドラ・キッチンだわ いとしのクシイー けさ水汲みに行って 最初に見たのはなんなの? 串の魚それとも〔(全角アキ)→23(ベタ)〕舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空の下の網 聞かせてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方をするか? ペルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるクシイーよ 川のほとりで〔(全角アキ)→23(ベタ)〕最後に見たものはなんなの?〔(全角アキ)→23(二倍アキ)〕あなた自身の肉体 その影に心があるようで ないように見える なまめかしくも幼い聖痕?
                   みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ それは包帯で巻かれた幽霊群のなかで 副葬花束を持った人だわ!

『アリス』狩り(G・12)

初出は《アリスの絵本――アリスの不思議な世界》〔牧神社刊〕1973年5月1日、二一〜二四ページ、本文五号28字詰28行1段組、76行、目次にある「アリス狩りのためのアリス工房 Alice workshop for the hunting of Alice」中の一篇。

それはたくさんの病人の夢を研究しなけりゃならん
〈退却してゆく臓器や血の出る肛門〉
わしも医者だから抒情詩の一篇や二篇は暗誦できる
今宵 生き損じの一人の老婆も無事に死んだし
 
かれこれテニス試合の時刻がくる
カメラと持てるだけの物を持って森まで行く
まっ白い弾むボールを追究する 悪寒するわしが見えるか
むきあった男女の間に生える カリフラワー 粉
 
この世に痛むものがはたしてあるか
わしが診察するのは鏡の中の患者の患部だけ
手も汚れず 悪臭もなく
でも疲れるんだ 鏡の表面にとどまるオレンジのように
 
父母の写真 コダックの五匹の猫の写真 船腹の写真 赤ん坊
の写真 墜落した飛行機の写真 結婚式の写真 騎手の写真 
女優のヌード写真 チャールズ・ラトウィジ・ドジソン教授が
撮ったアリスの写真
 
〈静止せる剃刀や魚 潜在せる雷や桃〉
〈森や山の動物よりも檻の中の動物〉
〈ただ一人の少女が走り回っている〉
〈沼のほとりの燈心草と雨〉〔(全角アキ)→23(ベタ)〕それらをわしは嗜好する
 
血豆と乳房「それはただちに切開する」
それが終ったら力のかぎりあらゆる岩地を掘りかえせよ
何かが出る 何かに成るものが出る
そのときは看護婦を呼んで包帯をぐるぐる巻かせる
 
ではこのように
ではこのように鵞鳥
とはいうものの
とはいうものの月光
 
「髪をしなやかにしたいわ」といった一人の少女
そののびやかな腿を内包する 鏡のなかで
立体的な物は越えられる しかし平面は走れない
オリーブをしぼる母の背後は暗い 夜具と山羊
 
馬をすすましめ 河をすすましめ 受胎をすすましめ 軍艦を
すすましめ 飲食をすすましめ ゲームをすすましめ 時計を
すすましめ 矢印をすすましめ 物語をすすましめ 死をすす
ましめ
 
むかし外国の漫画でよんだことのある場面を想起せよ
長い石の塀が立つ
それは草むらの一隅のように見える法廷で
声女・アリスは答える
 
『塀』には死体が塗りこめられていましたか
わかりません(三匹の猫)
『塀』には高さがありましたか
わかりません(ひまわりの花)
 
『塀』は何で出来ていましたか
わかりません(心臓のようなもの)
『塀』は何を囲んでいましたか
わかりません(先祖の家系)
 
『塀』は今も立ってそこに在りますか
わかりません(時と鳥)
『塀』はではどこに存在するのですか
わかりません(永遠に保護色)
 
しかるべく手術をせん
しかるべく病巣なきときは
しかるべく印をつけ
しかるべく肉体を罰せん
 
わしの知っとる
(一下)→23(天ツキ)〕「もう一人のアリスは十八歳になっても 継母の伯母に尻を
(一下)→23(天ツキ)〕鞭打たれ あるときはズックの袋に詰められて 天井に吊る
(一下)→23(天ツキ)〕される 美しき受難のアリス・ミューレイ……」
 
それにしてもわしは覗きたい 袋とペチコートの内側を
なまめかしい少女群の羽離れする 甘美な季節の終り
かくも深く彼女らの皮膚を穿ち 水と塩を吸い
夜は火と煙を吹き上げる 謎の言語少女よいずこ
 
上向き下向き横向き
緋色の衣をまとった大僧正の形をして
焼死せんとする恋しき人を求める
わしは消火器をもつ老たる男 暗緑の壁紙の家にいる
 
死ねば都 ここがギリシア悲劇の見せどころ
西の方からとどく キン〔バ→23パ〕ラ鳥の声
あらゆる少女の胴から下は紅くれない
下品なハンカチを所有することを認識し 洗濯せよ 言葉!
 
夏の空の色あせる時
わしも詩人だからたまには形而上的な怪我をするんだ
今宵 書き損じの一人の少女の『非像』を追想する
落涙する屋根の上の人 それは汝かも知れず?

草上の晩餐(G・13)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年4月号〔17巻4号〕八〜九ページ、本文9ポ1段組、35行。

ヒンズー教寺院の庭を巡り歩く
多くの夜は
小さいものから大きくなる
大きいものから小さくなる
現実世界へ照応する
肉体を考察し
ビスケットを噛り
わたしは長椅子にながながと寝る
モーヴ色の部屋
たちまち謎の植物が成長し
ここはまさしく
「生き埋めの王国」だ
パラソルをさした
古代レディーの妖しい笑に誘われる
慈悲の詩〔(ナシ)→23人〕
「雨期には
ヒルが人の足を噛む」
繊細な構造の〔世界→23迷宮〕から来る
わたしは想像上の旅人〔(ナシ)→23のひとり〕
いま両手にあるものは
固い物と柔かい物
それぞれを持ち
あまつさえ腐る物を口に咥える
恐らく死ぬときまで――
その暁に大切な心は
永遠にぬれざる〔(改行)→23(追い込み)〕
死の内なる亀
恩寵があれば
紐の張りわたされた
聖なる水蓮の咲くほとりへ〔(改行)→23(追い込み)〕
着くだろう
髯をはやした二人の友と
半裸の若い女のたわむれている
草の上でささやかに
食べ〔る→23れば〕
(ナシ)→23「空には満天の星」〕

田園(G・14)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年9月号〔5巻10号〕六〇〜六七ページ、本文9ポ24行1段組、12節134行。

   1

洗濯女のエプロンのかげで
わたしは生まれた
ということ
「空間概念とは何か」
となりの人が問う
それはたしかに
「星は暗闇で光るものだ」
水面にうかんだ微生物よりも
キノコ類に近似している
父の肝臓で石は育ち
わたしは草の上へ置かれた
長方形の〈言葉〉の管を吸っているのは
青いポールを持つわたしでなく
バッタの一種だった

   2

「すぐに据え付けられますよ おかみさん
(一下)→23(天ツキ)〕土は腐っているから」
エナメル塗りの牛の頭蓋はまつられる
石臼の上に
夜の明けるころは
老人たちは帰って行く
揺籃へ
「わが子よ わが犬よ
(一下)→23(天ツキ)〕たのしく暮そうよ!」
釘の山で母は唄っている

   3

父は猛獣狩スタイルの女が好き
いつもパンを焼くフライパンの尻を叩きながら
赤袋角をあらわに突き出していた
それは滞り それは窓の外で
濡れている ぜんまいや蛇のように
新しい石鹸のようにそれは滑り
朝まで用がある

   4

白とピンクに染められた寺院の門をくぐり
わたしは遊んでいた
梨の木の群と
ざらざらした梨の実を食べては
「純粋な固体」を求めて
不安な谿を降る
坐る人 歩く罪人
子守のひざのうえで
わたしは探しているのだ
狩られた毛のなかの野兎を
深い傷口の奥に
もしかしたら甘い蜜がかもされている
「花嫁」
わたしの一番好きな〈観念〉!

   5

馬具屋が舟にのってやってくる
反詩的社会から
彼のために歌を唄う一人の少女が憎らしい
歴史家なら検討する
スフィンクスに「兄弟」がいたかどうか
もしやそれは「姉妹」ではなかったか
その奇妙な像が馬みたいに水を飲む姿を
馬具屋の粗い前掛のかげで
テニス靴の少女は夢見る

   6

氷売りが絹のテントのまわりを歩く正午は
死者への礼節が大切だ
汚れた鳩とシャツにかこまれて
肉屋の親方がみまかる
ヤギ ウサギ キジ ウシ ブタ ウマ
「すべての血はすててはいけないぞ
(一下)→23(天ツキ)〕血は煮つめれば
(一下)→23(天ツキ)〕煮つめるほどうまくなる」

   7

それがわれらの肉体をつくり
大砲の砲身をあたためる
煙や煤が出るよりさきに筒口から
眼球や兵士の手首が出る
それから味の濃いスープが溢れる
人類よ肥えよ!
資本系の羊歯が茂って
岸からハートの丘を埋めてゆく
まな板の上に在る
開かれた卵

   8

沼の霧がたちこめる彼方から
日はのぼり
ウォーターヒヤシンスは咲く
だれにも幼年時代はある
文体で喩えれば
あらゆる「言語」に付く
金色のセンイのようなもの
わたしはあこがれる
肉屋のマイスターになることを
岩の上の家で
ソーセージをつくり
「作品」をつくる天職を志向する
どういうことか
それはむりな姿勢をたもつことだよ

   9

大刃で切る肉の断面は
失われた地図のように見える
ヘットとラードの冷たい肌ざわり
白きヘッドの父はタマネギ畑から帰り
哀しきバラードを唄う母のローブは汚れる
これこそ男と女とけものの三位一体の
舌は釘付けにされた
めくるめく官能の地の床に

   10

わたしは病気がち
白い壁のなかをゆききする
緑の心臓をもつ子供
発育ざかりの少女を求めて
さしずめ 詰めた〈時〉を探す
ゆるやかな川のほとりで
石の下に養われているカニやエビを捕え
信仰的に
ときどきふりむく
「とても重大な事柄だ」
何かのなかに何かが生じ
何かのなかに何かが滅し
何かのなかに何かが残る
蜜柑の皮のなかには房が九つある

   11

意味なきリアリティを併置すれば
前世紀的風景だ
秣の下をゆく旅人たち
肥った猫のように
酒と名づけるものは発酵する
こわれた大瓶のへりで
春の蝶がひげを巻く
「そこにある 豆の花 馬鍬 樫の棒
(一下)→23(天ツキ)〕炎 くもの巣 灰 家霊」
たとえばそれらがわれわれの近くになかったら
「父母」の生活はなかったろう
はるかなる梁の巣の燕よ 戻れ!

   12

回想を改葬せよ
浅瀬をわたる騎兵隊
とうもろこしの毛に包まれ
従姉がいったことばを
大人になって わたしは思い出した
「〈アート〉は退屈だわ」
枝を戻ってくる蝸牛の殻のように
この世の内部は艶消しになって
いて視えない宿命
「想像できるものは 想像できない
(一下)→23(天ツキ)〕ものより〈生理感覚〉がある……」
わたしはいま「追悼詩」を叙述する〔(ナシ)→23んだ〕
水に向っている
テーブルの男のように

自転車の上の猫(G・15)

〈自転車の上の猫〉(初出形)の再録
〈自転車の上の猫〉(初出形)の再録
出典:《夜想》第19号〔特集★幻想の扉〕(ペヨトル工房、1986年10月17日、九四ページ)

再録ページの絵は松井喜三男の〈自転車の上の猫〉(サインの年号は「〔19〕71」)。松井は「一九四七年、東京生まれ。一九七四年に青木画廊で始めての展覧会」(絵の下方の説明文)である〈少年少女〉を開いており、吉岡実はその個展パンフレットに本篇を寄せた。
初出は〈松井喜三男展〉パンフレット〔青木画廊〕1974年4月13日、本文10ポ18行1段組、18行。

    〔マツイ・キミオの絵によせて→23トル〕

闇の夜を疾走する
一台の自転車
(ナシ)→23その〕長い時間の経過のうちに
乗る人は死に絶え
二つの車輪のゆるやかな自転の軸の中心から
みどりの植物が繁茂する
美しい肉体を
一周し
走りつづける
旧式な一台の自転車
その拷問具のような乗物の上で
大股をひらく猫がいる
としたら
それはあらゆる少年が眠る前にもつ想像力の世界だ
暗喩→23禁欲〕的に
薄明の街を歩いてゆく
うしろむきの少女
むこうから〔犬→23掃除人〕が来る

不滅の形態(G・16)

初出は《別冊小説新潮》〔新潮社〕1974年7月〔夏季・26巻3号〕二四〜二五ページ、本文9ポ12行1段組〔コラム〕、20行。

わたしに必要なのはミカンの皮でなく
「不滅の形態」だ
長く細い針金を使って
はるかなる地下の象の骨格を調べる
それは繊細な構造をもち
毛根のような緑の夢をはらむ
花嫁衣裳の内部に似ている
石壁の迷路を行け
たのしいこともつらいこともある
大豆袋の下にはネズミが棲む
倉庫の梁をわたり
わたしは血豆を創造する
いつも思考しながら
歴史家は滝のなかで女を幻視し
「〔萬→23万〕物」の母だと考える
「〔萬→23万〕物」のなかには父は存在しない
わたしが心から求めているのは
打ち付けられた夥しい釘と
生皮を張った堅い板
「不滅の傷痕」そのもの

フォーサイド家の猫(G・17)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1973年11月〔5巻13号〕五〇〜五四ページ、本文9ポ22行1段組(散文詩型は23字詰)、*印で5節に分かつ85行、目次に「猫の主題による長篇詩」とある。

わたしの部屋に一枚の小さな絵が掛けてある
だがこの絵を見た人はいない
この絵を描いた画家だって見たとはいえない
ただマチエールを造っただけだから
人はそれでは
「きみの所持する絵は
万有の闇のベールの向うに
存在するだけではないか」
と反問する
仕方ないから共存する妻とともに
わたしはその三匹の猫のたむろする絵を語る
できるだけ古典的な描写で試みようか
わが家の板の壁を飾る
唯一の絵の周辺を歩きながら
反現世的な閉ざされたフォーサイド家の内部を解体する

   *

わたしはかつての或る夏の夕方
一人の女の胎内をくぐりぬけると
潜在する森と雪の浄土圏があるのではないかと考えた
高階の円塔の迷路を廻り
逸楽の画家ローラン・ブリジオの描く
着飾った貴婦人の肖像を眺めていた
薔薇型の大きな帽子をかぶった女
薄いランジェリーの女
印度衣装を全体にかぶった女
いずれも下半身を露わに出している
肉性が正面をむくとき
予言者を狼狽させる
シンメトリーの偏愛図
バックを流れるのは音楽でなければ
宮殿の回廊や庭園の噴水の霧であるのだろう
巻かれた雲と毛のなかに
窪地にかくされた小石類をのぞかせる
可視的な月光体とはなにか
聖地をさまよう探索者たちの魂
その真紅のデテールから
三匹の猫がうまれた

   *

わたしはソファーに坐りながら
頭上のカンバスの枠から出る
画家の手を噛む猫を見る
これは三つの側面にかこまれていない
一つの世界ではないだろうか?
緑の山の前に人が立ち止るのは
母を恋うる時だ
窓べの少女の金髪は彫刻されたように暗く
父の王が殺されたのを悟り
彼女は両腕に一匹ずつの猫を抱いている
右側の猫は茶色でとても肥えて
固い枕のように傾むく
だからおのずと左側の黒と白のぶちの猫は背をまるくする
押されているのは時間帯でなく
グレーのカーテンのひだのようだ
紐でひきしぼられていないのに
天井の方へたぐられているからだ
悲劇の少女にはふりむく真の正面がない
水色のスカートの腰をよじって
ねぐらへ鳥の飛ぶのを仰ぎつづける
だからうしろへ廻って祭壇の隅に
こうばこして大髭をうごかす猫の存在を知らない
遊戯の運動をくりかえしつつ
静止する一瞬間を捉え
手をなめたり耳を掻くその灰色の猫
意識と無意識の中間に位する
猫の沈黙は恐しい

   *

エスキモーはどうして猫を描かないのだろう 昨夜カナダ・エスキモー展を巡りながら わたしと妻はふしぎに思った 多くはモノクロームのあざらしと魚である 白い歯をむき出して 氷の山の頂に 星のように輝いているせいうち そのほかはふくろうの絵ばかりだった 地中に眠る魚の葉骨を咥えて 斑のある羽をひろげている母喰鳥 その眼は女の驚きの表情だった 暗い花の群生のなかで 折れた翼を敷いている もう一羽の大きなふくろうをみつめていると やがて猫に変貌するように わたしと妻には思えた 薄明のエスキモーの国には あとは子供と犬しか住んでいないのだろう

   *

「火食鳥を撃ちおとすことはわたしたちの習慣にはない」
燃える羽ぶとんのなかで
死せる王と王妃の装飾過剰の歴史と
黄金の蛙股のベッドの脚の下で
恋する三匹の猫の神話を――人は知っているだろうか
「黄金では爪がとげない 太い木の柱がほしいよ」
声する猫を追いはらって
「猫はきらいよ だって抱いても ぐにゃぐにゃして
支柱がないんですもの」
古代の閨秀詩人はそのような言葉を遺している

絵画(G・18)

初出は《風景》〔悠々会〕1974年5月号〔15巻5号〕五四〜五五ページ、本文10ポ19行1段組、29行

画家がテーブルを描くとき
最初に灰色の物質を
心のなかに塗る
「見るとは
(一下)→23(天ツキ)〕眼をとじることだ」
それによって
籠の洗われた韮や莢豆
緑の野菜類がストイックな影を加える
六月の午後は
肉類を煮ながら
いよいよ高みへ至る
大鍋の下から
女中の指を噛む
炎の形が出てくる
そこでテーブルは前方へ傾き
犬は庭へ戻る
皿の上で内包され
西洋李の〈赤〉は実相の中心になる
それを食べる子供の
黄金の口を見よ
しだいに外観はあいまいになり
(ナシ)→23地上で〕
「われわれの見得る
(一下)→23(天ツキ)〕物は数すくない」
胡椒挽きや胡桃割り
それらの器具しか存在しなくなる
だから
厚盛りの背景は
いくつもの記号と〔言葉→23音階〕に分割され
闇へ流出する

異霊祭(G・19)

初出は《異霊祭》〔書肆山田刊〈書下ろしによる叢書 草子3〉〕1974年4月25日、四〜一八ページ、本文五号13行1段組、8節161行。

   1

朝は砂袋に見える

夏の波の寄せる処で
母親を呼ぶように
紅い布を裂き
趣味のよい書物をひもとく
アラン
きみが叙述した矮小種族の好む虹色の二字
〈肉体〉
オパールの滝のなかの美貌の妹
沈む壜に入っている

死を近づける
また破裂をもたらす
新鮮な魚の目のように
何を待つ
アラン
悲劇とは仮死のなかの仮生

   2

雨の日に
しみじみと歩く郵便夫一人の生活
べんべんと生きる詩人一人の夢
アラン
きみは発見する
鉤形の月の下に棲息する
画家の魂をもつ鳥
叢をさまよい歩くアオコヤツクリ
彼の探すものは
彼の生活帯のなかにはないのだ
枝や木の実やワラジムシの世界から翔びたち
危険な世界を通り
青いものをあつめてくる
青い布 青いガラスの破片 そして青いハブラシ
人里から青い王冠を咥えて
巣に帰ってくる
聖領の鳥

   3

アラン
われわれには必要なものがありすぎる
必要なものから
より必要なものを選び
それはたしかに必要だと考える
われわれには不用のものがありすぎる
不用のものから
より不用のものを選び
それはたしかに不用だと考える
そしてたえず不用のものから
必要なものをつくるんだ
たとえば
「精神の外傷」のようなものを

   4

アラン
「蛋白質を最初に食べる
(二下)→23(天ツキ)〕のは死人」
では
「最初に口をきくのは家畜
(二下)→23(天ツキ)〕番人の妻」
たまたま春の太陽が輝くならば
彼らはともに海原を水滴のように
回転し
漂ってすすむ
まるで
きみらの汚辱の家から
なめくじが母国を探すように
星への旅をつづける
いってみれば滞る〈現在〉と称する
われわれの〈時間の塩〉の下で
ぽっかり濡れた孔が
現出する
いや反対に消滅するんだ
アラン
なめくじは遠くへゆく
人の通わぬ孤絶の島へゆっくり移動する
秋までは
蝶や蜜蜂は華やいでいる
或る高さを保って
花冠のほとりに

   5

テーマはあらかじめ設定できる
しかし生物の運命は
毛皮のなかの痕のように昏くて視えない
ルドンの銅版画の過失の点の黒
鐘をつくのが仮面の人なら
涙するのは誰?
よじれる縄に永遠に縛られる
アラン
仮面の兵士の大きな口をのぞいてごらん
赤いぬるぬるの舌ではなくて
その奥深い闇の器には
鉄の玉が突き出ている
アラン
酩酊せよ
陰気な兄弟とともに
聞こえぬ鐘!
やがてわれわれの都市に雪が降る
のでおごそかに
出口が閉ざされて
いるように思われるのだ
内側から力を入れて押したら
二つに割れて
春の鳩が数羽とび出すだろう
アラン
くすぐったくはないか
ゴシック装飾の扉の中心の合せ目に
木の枝が少し触れている

   6

続くものは続き
続かないものは続かず
というのは真理かも知れない
続くものから
続かないものへ
形態を替え
言語を替え
色彩を替えたら
アラン
きみの夜半の作業は
みじめな胡瓜のうらなりにつらなる
妻の不幸なる生涯を
美しい物語につくるんだ
茄子の花はうすむらさきに咲く
口紅は濃くしてやって下さい
死顔には
それなりの〔〈→23(トル)〕生命〔〉→23(トル)〕がありますゆえ
「馬のかたちをした煙」に
妻をのせて
アラン
きみは行き行く
氷る父親の土地へ

   7

人は生活費のために
他人のいやがる仕事をする
われわれの考え及ばぬ奸智さをもって
アラン
『貝類学の手引』をでっちあげる
内部しかない貝
そしてたえず巨大なものを産む
サンゴ色の膜
英雄から精神異常者までまるごと孕む
恐しい貝の研究
罪な分析を忘れるべく
アラン
われわれは外套を着て
酒の街へ出る
一匹のうずくまる猫を探しに……
はだしになる
栗色の毛深い処女
エリ!

   8

蓮の葉のかげで
ほそぼそと生きのびる人
兎の耳をつるす
国家を守護する人
われわれのなかの理想的な生き方ではないか
まさに意味ある誤解
それらの世俗的営為せる者は
仰向けに倒れる
石があれば石の下に
アラン
きみは渡り歩くだろう
大鋸の刃の輝く観念の世界から
「影に似ている」
その物自体を求めて
毒蛇のとぐろまく道を行く
そこには奥行がある
アラン
きみとわれわれは
いましばし試みようか
「山上の石けり」を――

                 〔1974・2・14→23(トル)〕

動物(G・20)

初出は《季刊俳句》〔中央書院〕1973年10月〔1号〕六六〜六七ページ、本文五号17行1段組、29行、目次に「〔招待席〕/詩」とある。

それは伝聞によると
雨のなかで
しかも生きている動物のようだ
〈線〉をたくさん集めて
崖下へ走ってゆく
紅色の動物の肥大するハートの影
耳を突き出し
背中をかくして
草をたべている犀のように
白い壁の隅に立ち
たしかに濡れた皮張りの椅子のようだ
からだを中心で折って
毛や骨をテーブルの下へ置き
さびしい巣の方へ
ゆっくり歩いてゆく
〈動物〉とは
いったいなんだろうか
すでに〈面〉をたくさん組みこみ
綺想体の子をつれて
いま長い綱をわたるところだ
その下は或は砂漠かも知れない
わたしたちの認識のしきみを超え
夜は紐をひきずり
死んだ動物は声を発し
跳板のところで一回転して
やがて泡で埋まってゆく
足を見せ
眼をかくし
ひとつの〈歌〉を終らせる

メデアム・夢見る家族(G・21)

初出は《文芸展望》〔筑摩書房〕1974年7月〔夏・6号〕一〇〜一三ページ、本文9ポ21行1段組、75行。

わが家族はつどい来る
その紅蓮地獄の内部を見よ
エーテルはとどこおり
寒冷でもなく白熱でもなく
それでいてあらゆる肉は焼き上る
メデアム
はるかなる星の光が届く
黒いシジミの水桶へ
その中間に
仮想物質がびまんし
波の形をした死者が泳ぐ
メデアム
わたしはなつかしき故郷の納屋にねて
ながながと語る
何から何まで
形而上の問題になる
ふかふかした物体の上に
寝ることの大切なことを群衆に説き
足の方から
モーブ色のスリッパをぬいで
地上に落とす
自然の葉の茂る泉のほとり
わが父は燕尾服のまま横たわる
死のためでなく
生きるために
種子を保存する
メデアム
亀裂せる妹の腹を越え
やがて翼をつけた砲身のように飛ぶ
仮想敵がいるようだ
母は魂の全一性を支えて
いる針金のようなもの
空はあくまでも青く
「美神の絞殺」は行われているんだ
入子風ボートに乗って
いそいそ葬式にきた
屋根職人がつくる
天蓋の下は不滅の闇であろうか
とにかく大鍋の下で
火種を養って一家団欒せよ
運ばれてくる
それはブツブツ泡ふく鵞鳥のからだと脚
セロリの七〔、→23・〕八本
料理は言葉で出来ているらしく
時がたつと変色する
メデアム
そこで大理石の土台が据えられ
わが母は記念柱となる
わたしはそのような霊界がすきだ
仮面をかぶった兄ならば笑えるだろう
岩窟の前に立ち
考古学者のように
力でもって万物の化石を引き出す
綿で包まれた炎もともに
いま長椅子の上へ
やけどした姉がとびあがるとき
死せる虎の皮は美しい
もちろんわが家族は
わたしの恋人が裸になることをのぞんでいる
四つの円柱がまもなく立つ
わたしの人生の恩師も
小さな入口から入ってくる
両刃の斧をかかえて
これが到り着くところ
メデアム
水はいつも流れている
人は横梁を渡らなければならない
底があるとしたら
底には血がたまっているんだ
縄と皮の張られた土地には
旅人の求めている
筒深い百合の花が咲く
これが牧歌的生活ではないか
たのしきかな 夢みるはらからは浮遊する
メデアム

舵手の書(G・22)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1974年10月臨時増刊号〔17巻11号〕八八〜九一ページ、本文9ポ25行1段組、5節75行。

    瀧口修造氏に

   1

雨は
夏の仙人掌の棘の上に降る
それは一つのスタイルだ
ガートルード・スタイン嬢は語った
「人間の死の充満せる
(八下)→23(三下)〕花籠は
(一下)→23(天ツキ)〕どうしてこれほど
        軽い容器なのか?」
それを両手で支えて
眼をみひらいて近づければ
「光をすこしずつ閉じこめ〔たり→23(トル)〕
(全角アキ)→23たり〕逆に闇を閉じこめたりする」
これは近世の神話といえるんだ

   2

砂漠近くの映画館で
われらは観測する
地上の星・ガルボ!
きみの巨大な唇をたどれる不死の人は存在するだろうか
きみがもし物を食べているとしたら
それは不思議な時間である
きみの黄金孔のなかに
たえず消えてゆく漂着物がある
肋骨 岩石 羊飼い 詩
鳶の輪が無限に近く拡大される
その下にあるものは
唯一のメモリアル
「五月のスフィンクス」だ

   3

われら〈弟〉は考える
〈母〉は烏髪と長い乳房を持つ
しかし
〈姉〉は内部に一個の〔12螢→蛍〕石を
匿しているにすぎない
虚無の苦痛のなかに
星と砂と
「鳥は完全なるものをくわえて飛ぶ」
だが水底では
魚は不完全なるものをくわえて泳ぐ
太陰暦の春に
われら〈弟〉はいつも見失う
〈姉〉という呼称の人を
「彼女は未知の怪奇なけむり
(一下)→23(天ツキ)〕を吐く最新の結晶体」
火花のなかで
枯葉のなかで

   4

「朝食のときからはじまる」
表現行為のなかには
われらの眼が吸う飲物がある
ストロベリージュース
のように
色であって色でない
犯罪者の歯がバリバリ噛む
キャベツの芯のように
形であって形でない
名づけようのないもの
「曖昧な危倶と憶測との
(一下)→23(天ツキ)〕霧が立ち罩めようとしている」
声と言葉の
記号の世界にも……

   5

人は自由な手を所持している
それゆえに
不自由な薔薇の頭を大切に抑えて
「黙って
(一下)→23(天ツキ)〕歩いていってしまった」
それは形態学上
きわめて自己撞着的だと
へンリー・ムアは夢の王妃を鉄で造る
炎のような内面
オレンジのなかの黒曜石
それが島だ
青い海をリードする
舵手と蛸
(ナシ)→23   6〔節番号〕〕
なぜ夜明けの聖像群はフィルムのように
灰色に沈んでいるのか
(ナシ)→23「憑きものの水晶抜け」の秋〕
詩を書く少年の腰のあたりまで
白い波がうち寄せ
龍→23竜〕骨は海岸に出現する

白夜(G・23)

初出は《鷹》〔鷹俳句会〕1974年10月号〔11巻10号〕一八〜一九ページ、本文五号二分アキ17行1段組、28行。

たしかムンクの絵の主題に
〈病める少女〉
というのがある
わたしがその絵を
見い出した時
そこに秘められた〔昔→23音〕が視覚化され
「とても重大なことだ」
と考えた
パセリの緑の葉を
口の端にくわえて
次から次へと
清潔な敷物の唐草模様の上を
跳びはねてゆく
「少女はつねに死体である」
というのは
家畜商人の符牒だ
寒い国では
「寝台の脚のまわりに草が生える」
白い壁に白い旗を掲げ
テーブルの上でキノコの
ごった煮を食べている家族を
わたしは想像する
やがて膜が張られて
牛乳の巨大な桶のなかに
夜明けが来る
それから切藁を
食べる馬が見えるんだ
氷れる山嶽の上に

ゾンネンシュターンの船(G・24)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1974年12月臨時増刊号〔6巻15号〕四六〜五一ページ、本文10ポ26行1段組、5節89行。

   1

「罪深い魚は泳ぐ方角をまちがえている」
これは病人のうわごとだ
われわれの泳ぐ
海とは汎自然的で
すべての波は円環のなかを
車輪のように廻っている
肋骨の間のハートのように
巣の上の卵のように
いまだギリシアの紋章は遠い
船窓から望まれる
道徳的な陸地は
緑なす断崖に一個のリンゴを輝かせて
透視され〔る→23た〕「大地の軸」が在る

   2

猛けき雷鳴のとどろく
われわれの都市へ人々は集まり
サンゴや砂を発見する
ときには反歴史的な
言語や死に方を選ぶんだ
水を求める者とともに
「うずらは地に巣をつくる」
というのになぜか
人は頭に巣をつくり
とてつもなく大きな〈ウロボロス蛇〉を
不用意にも産む
一枚の絹に包まれる
われわれの〈太陽星[ゾンネンシユターン]〉を仰げ
口許には赤いグラスをみちびき
「もうすこし言葉すくなに
(一下)→23(天ツキ)〕もうすこし呼吸を多く」
人は生きるべきだ

   3

「六匹の塩漬鯡を肋木に
(一下)→23(天ツキ)〕鉤で引っかけ
(一下)→23(天ツキ)〕藁マットに火を放つ」
これこそ本当に哄笑する精神なのだ
それから動物園通りを歩く
家出人
その特徴(身長 手術あと 歯の治療 いぼ ほくろ)
などであるから
室内温水プールで見つけよ
水着の美女の尻
ムラサキ色の蝶のとぶ
夏の終りに
「ゾンネンシュターンの大演説が聞えてくる」
人よ 荷物を運搬するな
人よ 手を運べ
人よ 心を運べ

   4

画家が生きるためには
「四つの占領地帯」が必要だ
「なにゆえにテーブルには四つの脚
(一下)→23(天ツキ)〕馬に四つの脚」
と問うことは冒涜だ
わたしの母は
四つの乳房を持ち
悪しき子供たちを養っている
青銅の庭で
サボテンを栽培する
(花を持った蕾状のもの 金平糖のような芽
(一下)→23(天ツキ)〕掻き子の季節)
棘の上の露
精霊を呼びながら
「地に
(一下)→23(天ツキ)〕空に
(一下)→23(天ツキ)〕そして海に
(一下)→23(天ツキ)〕新記録を
(一下)→23(天ツキ)〕達成する女」
そのうえ時間の領域でも
尻と顔の共存せる
偉大なる乳母
形而上の母よ安心せよ
「世界には雑草とわたしとかぶら」
しか存在しないのだから

   5

虹の砂漠から
大股で女軽業師が走ってくる
ヒキガエルやワニを踏みわけて
「逃亡する魂」は気高い
円の地平を越え
湾曲する湾から出航する
船に「生の合乗り」がはじまるんだ
幕舎には兎の神
森にはめしいたライオン
はるかに巡査は影絵のように見え
われわれは岸を離れる
菫色の鳥は翔けよ
無効なる汚物の上を
船ならばやがて沈むだろう
予言者ゾンネンシュターンは願うんだ
色鉛筆で紙に描かれた絵ならば
すみやかに
忘却されることを

          〔註 ゾンネンシュターンは「幻視者」と/いわれる異端の老人画家。カッコの/中の引用句は、同展覧会目録より借/用した。→*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の老人画家。/引用句は、同展覧会目録より借用した。→*ゾンネンシュターンは「幻視者」といわれる異端の/老人画家。引用句は、同展覧会目録より借用した。(/=改行箇所)〕

サイレント・あるいは鮭(G・25)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1975年1月号〔18巻1号〕一〇〜一一ページ、本文9ポ25行1段組、41行。

    芦川羊子の演舞する〈サイレン鮭[じやけ]〉に寄せる

薄明の山の川を遡る
鮭のからだは空胴のように暗く
多くの物とすれちがう
ときに死せる子供と
母親はかがんだ姿勢をして
入ってゆくようだ
冷たい半肉の伽藍へ
時経ると血が噴き出される
そのほかもろもろのもの
水垢
小骨
手桶をもつ男
綿菓子
きわめて日常的な万物が流転する
水面すれすれに
赤紙飛行機はとどまり
野の百合は飛翔する
暁の丘へ
のぼる若い女を見たことがある
二股の美しい尾をかざし
〈還元不能〉な言葉を求めているようだ
寺院の石階の下に
半身は汚れた藁で覆われて
顕現される
よこたわる鮭と
鉤にかけられた青空が在る
人はいつも人とすれちがい
水流のせせらぎを聞く
鮭はしばしば真紅の炎と遭遇する
別離の日々
〈時〉めくサイレンは鳴りひびく
塩漬の世界とは
永い旅の終りの比喩ではないのか
物はいつも物によって壊される
浄化された闇のなかで
若い女が襦袢をぬぎ湯浴するとき
肉体はほろび 一つの〈模像〉に還る
サーモンピンク
サイレント
鮭の皮
そこで人は眼をとじ口をとじ〔〔全角アキ〕さびしい夢をみ→23(トル)〕る

悪趣味な夏の旅(G・26)

初出は《新劇》〔白水社〕1975年7月号〔22巻7号〕五八〜六一ページ、本文9ポ23行1段組、6節72行、表紙に「詩 吉岡実 悪趣味な夏の旅」とある。

   1

ギルバートきみは善良すぎる
時計の竜頭を巻きながら
吊り棚から一丁の鋏をとり出して
旅へ出る

   2

わたしは友人だから
ギルバートきみの好きな常套句を引用する
「人間の体はきわめて凸凹がある」
そしていつもその周囲を
きみは廻りつづけている
ドラムカンのボデーを計るように
中腰になって
ギルバートきみは
夕暮れの街を歩〔(ナシ)→23いてゆ〕く

   3

モスグリーンの彼方へ
吸盤の花咲く妹と母を立たせて
ギルバートきみは
朝顔とダイヤモンドの都市から
追放されたのだ
それはまるで
「水に運ばれてゆく水」
のように自然なことなのだ
ギルバートきみの眼から
涙のかわりに黄色い糸屑が出る
ここはどこか?
「永遠に泥まみれの山羊の足」
の国だ
マッチをすると大きな石が現われる

   4

「服が体に合っていない
と首のまわりに突っぱった
骨が出る」
だからギルバートきみは
死にかかった兵士の制服をつくるのは下手だ
布と手足と
「どちらが長く どちらが短いか」
いつまでも考える
ひなげしの咲く
野原に坐って

   5

仕立職人の仕事には
非日常的な面がたぶんにある
「鹿はどこで水を飲むのか?」
ギルバートきみはそんなことを思いながら
半ダースの針を口にくわえる
それから暗い電燈をつけ
巨大な布地を鋏でジョキジョキ裁断する
その粗い毛織物の下で
事実うごきつづけている
意識や樹木や霧
もしくは肉体がある
ギルバートきみのデッサンは正確だ
紙をあてて腕や胸の線をなぞり
さいごに腿のところでテープを貼る
夏の日盛りの庭で
まるで青い食べ物のように
蒸気を出す
笑う女がいる

   6

わたしは友人だから
ギルバートきみの仕事の仕上りをみとどける
「切りきざまれた
世界
布地の切口と切口を縫合せる
できるだけ平らにしてのばして
目的物を包む
それでも包みきれないものが突っぱって出たら
カナテコで叩き
びらびらした余分なものは
糊で貼りつける
当然それは内部増殖する
無理な形で
地平線までせりあがる
だから手順よく濡らして
生地をひっぱりながら
熱いアイロンをまんべんなくかける」

示影針(グノーモン)(G・27)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年9月号〔7巻8号〕一〇四〜一〇八ページ、本文9ポ22行1段組、5節79行。
吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「猛暑の夏も今日で終る―この八月の最後の夜、やっとご返事が出来るようになりました。新句集《冷位》を一早く、渡辺一考君を通じて頂きながら、お礼を申上げずにいたことを深くおわび致します。丁度そのころ、ユリイカ九月号〈渋沢龍彦―ユートピアの精神〉という特集号の献詩を書いていました。そして恐しく心身を消耗していたからです」と書いている。

    澁澤龍彦のミクロコスモス

   1

「少女は消え失せ
はしなかったけれども
もう二度と姿を現わしはしなかった
現われて出てくる
やいなや
少女はすぐさま形態を
なくした」
それはとりわけ雷雨のはげしい夜
わたしは観念と実在と
つねに一致する
客体としての少女を求めているんだ
その内部にはしばしば綿がつめられている
(一下)→23(天ツキ)〕「デルタの泥土のなかで
(一下)→23(天ツキ)〕花を咲かせるという
(一下)→23(天ツキ)〕大いなる原初の白蓮[ロータス]」
少女は言葉を分泌することがない

   2

(一下)→23(天ツキ)〕「わたしは幼年時代 メリー・ミルクというミルクの
(一下)→23(天ツキ)〕〔12罐→缶〕のレッテルに 女の子がメリー・ミルクの〔12罐→缶〕を抱〔(ナシ)→23え〕
(一下)→23(天ツキ)〕〔い→23(トル)〕ている姿の描かれている」
その〔12罐→缶〕を抱えている屋敷の女の子を眺めながら
わたしは水疱瘡に罹っていた
どんぐりやさやえんどう豆のなる
田舎の日々
体操する少女のはるかなる視点で
わたしは矮小し
(一下)→23(天ツキ)〕「動物と植物の中間に位置する
(一下)→23(天ツキ)〕貝殻や骨や珊瑚虫」
それら石灰質の世界へ
通過儀式を試みる

   3

漁師がやってくる
神話からもっとも遠い処まで
捕えたものは
一匹の鰈
「ロンボスの霊」
わたしの調査では
「ロンボスなるものの実体が まるで雲をつかむ
(一下)→23(天ツキ)〕ようにあいまいもことして つくづく驚かされる」
わたしの好きな無へ奉仕する道具
螺旋志向!
「アパッチ族のシャーマンは ロンボスを回転さ〔(ナシ)→23せて〕
(一下)→23(天ツキ)〕〔せて→23(トル)〕不死身になったり 未来を予見する」
そもそも
ここには受胎も生産もなく
「ロンボスとは〔(全角アキ)→23(ベタ)〕子供の玩具以外の何物でもない」
素朴な唸り声を発している
「青銅の独楽」
かも知れない

   4

わたしの夢みる動物類とは
(一下)→23(天ツキ)〕「不死鳥[フエニツクス] 一角獣[ウニコルニス] 火蜥蜴[サラマンドラ]」
(一下)→23(天ツキ)〕とくに珍重するものは
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
わたしたちの対象となり得ないもの→23ウプパ ククファ フドフドと鳴きながら〕
動物から天使までのあらゆる存在に→23砂漠のなかで〕
変身する可能性をもつ→23地中の水や宝を見つける〕
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
(一下)→23(天ツキ)〕「女を一個の物体の側へと近づける」
媒介をして
亀甲型の入れ子を多数うませる
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥」
一度語ったことについては二度語ることはない
一度行なったことについては二度行なうことはない
(一下)→23(天ツキ)〕「フップ鳥は母鳥が死ぬと
(一下)→23(天ツキ)〕その屍体を頭の上にのせて
(一下)→23(天ツキ)〕埋葬の場所を探し求める」
火のなかを
水のなかを
或は土のなかを――

   5

(一下)→23(天ツキ)〕「人間の想像力は 或る物体が一定の大きさのまま
(一下)→23(天ツキ)〕留まっていることに 満足しないもののようである」
それと同時に
織物の目を拡大し
生命を縮小させる
わたしたち人類というものは
(一下)→23(天ツキ)〕「最初の時計から
(一下)→23(天ツキ)〕最初のセコンドが飛び出して以来
(一下)→23(天ツキ)〕それまで神聖不可侵と考えられていた
(一下)→23(天ツキ)〕自然の時間
(一下)→23(天ツキ)〕神の時間が死に絶え
(一下)→23(天ツキ)〕もはや二度と復活することがなかったのである」

                   *示影針=日時計のこと

カカシ(G・28)

初出は《旅》〔日本交通公社〕1975年9月号〔49巻10号〕二〇〇ページ〔対向の二〇一ページは後出カラー写真〕、本文20級1段組、15行、「嵯峨野の案山子 '74「旅」写真コンテスト入選作品 カメラ 河原誠三」。

シジミの化石の出る
水田の周〔圍→23囲〕から夏は逝く
男と女の仮相をして
「夜も昼も立っている者」
の棲む処では
鳥の群も向きを変え
羊羮のような山の方へゆく
「焼魚
蓮根の煮つけ
冷飯」
の食事は終り
夢みるべく人はみなへちま棚の下に集る
この村落では言霊とともに
目隠しの屏風のなかで
赤ん坊が生まれる

少年(G・29)

初出は《饗宴》〔書肆林檎屋〕1976年5月〔春・1号〕二〜六ページ、本文は旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、12ポ15行1段組、6節53行。漢字の旧字使用とひらがなの拗促音の並字使用は、他の掲載詩篇を見ても《饗宴》誌の編集方針だと考えられるので、一連の〔1(旧字)→23(新字)〕と〔1(拗促音の並字)→23(拗促音の小字)〕は本校異の対象としなかった。

   1

蝶や蜜蜂のように
遠くへ向う
わたしは少年だったから
草原の平面を割って
ゆくキツネと狩人に化けた死人を見たようだ
水辺の花は標的のようにおののき
少年の頭髪は濡れる
春はうずらの肥える斑の多い季節

   2

「わたしの内密な経験の貯蔵庫」
そこでは芽ぶく玉葱やじゃがいものかわりに
青いブドウの房を抱え
生薬屋の娘を抱え
腐るものすべてを抱えて
地階へ降りてくる
観念の大男が見えるんだ

   3

理由はいくらでもつく
少年のすきな闇のなかには
柱のようなもの
球形のようなもの
それらが存在する
「男根の切断面から生える巴旦杏」
を採りにくる
農夫の娘を見つけ
わたしは熱い地の風を浴びた

   4

箱のなかで成長する
虎がいるように
少年は亀甲体のなかで
日々成長する
しかしいまなお
千鳥という鳥は
図案のなかにしか翔んでいない
外はひまわりの花の傾く夏も終り

   5

姉妹よ きみらはどうして
炎で構成されているのだ
すでに
「わたしの魂は松の根に入り
その血からスミレが咲く」
兄弟よ きみらは
松やスミレを焼きほろぼす

   6

眼のなかで水をつりあげ
もしくは太陽をつりあげる
水母神がいるように思われた
岩棚の奥に
天然自然のものを
人々は多く窓から覗くことしかできない
だが少年〔は→23よ〕探〔す→23せ〕
現し世の彼方に
ときじくの果実を〔……→23――〕
そこここでは→23(トル)〕
事実ものが動きつづけている
「夜な夜な人間を火中に入れて
その死すべき部分を焼きつくそうとする」
美しい漁師の娘がいる

あまがつ頌(G・30)

初出は《ユリイカ》〔青土社〕1975年12月臨時増刊号〔7巻12号〕二〇〜二五ページ、本文9ポ22行1段組、N節90行。

    北方舞踏派《塩首》の印象詩篇

   J

すでに秋
自転車のチューブのようなもので
全身を巻かれ
雨のなかに立って
馬がいるじつに寂しく
藁と泥で盛り上った結界に
開かれた口が在る
魚や獣の骨片を
人々が隠蔽するために投げ入れた
汚れた穴から
長い杖をふりかざして
胎内のからくりを
告発しながら
這い上ってくる者がいる
杖で叩かれた周囲は陥没した
粟飯

稗の穂はなびき
まるでゴヤの描く
紅服の美少年が出現する
地に乳は溢れ
〈物語[イストワール]〉のはじまり

   K

棺桶の底で
塩をきしませ
こってり明礬をきかして
紫の茄子を染めあげた
飢餓説話を伝承せよ
うろうろするあまがつの子供たち
「月下に影を落さぬ
ランプ」
そこにさんざしの花を飾り
腰高障子にかこまれて
紙一重の
かもしかの生死を視よ
シャーマンは北方志向す
はぐろの荘厳の山へ
ざらめ雪は降る
人々は黒塗りの首をたれ
火打石を打ちあわせては
火種を取り
肉体を回収する
混合物[アマルガム]の闇のなかより――

   L

干葉汁をすする歯黒の童女かな
   *
葛山麓糞袋もたぬかかし達
   *
湯殿より人死にながら山を見る
   *
雪おんな出刃山刀を隠したり
   *
喪神川畜生舟を沈めける
   *
線香花火塩首なればくずれけり
   *
あけびの実たずさえゆくやわがむくろ

   M

箸二本を持ち めし碗のふちを鳴し
雪の野原をさまよいゆく
白子の五人の姿が見えるか
聖像画のように
杉の葉で呪縛されたまま叫ぶ
「キントンが食べたい」
肉体は閉ざされ
電圧は極点まであがる
しょせん〈魂の在所〉は無いのだろうか?
女は紙と鋏しか所有せず
幾粒かの黒いクレオソート丸を噛み
膠を煮つめて夜は
漬け物樽の辺を歩くじつに悲しく
この濁世での尋ね人
(霊と繭の中間)の
絶世の美少年は宣言する
観念を守るために
土石柱を
既成言語を
〈タスカロラ海溝〉へ沈めよ!

   N

紫の嵐の波は
風がつくるものでなく
数多くの生身の男たちがつくる
透視された内臓の波
ゼラチン状に
肉の岸へ打ちよせ回帰する
花の拷問図法
精神的な女は人形をつくる
「木毛 ハリコ 桐粉 鉛などで
形づくりをして
蝋絹 ときにはメリヤスを張る」
現在もっとも必要とする
うつろな頭をすげかえ 手足をとりかえ
血肉の壊滅は行われた
廃物穀物倉の暗い片隅での
〈物語[イストワール]〉の終り――
骨折り 肉たたみ
愛する美少年と
チューブの馬は同一のままである
顕示された穴へ
混合物[アマルガム]として再び埋没する

悪趣味な内面の秋の旅(G・31)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1975年11月号〔14巻11号〕二二四〜二三一ページ、本文9ポ23行1段組、7節145行。
吉岡は1975年8月31日付の永田耕衣宛書簡で「〔……〕過日、〈琴座〉三百号記念号へ執筆せよとの速達の手紙を頂きながら、今日まで明快な返事が出来ず困っておりました。それは、西脇順三郎《詩と詩論》月報の締切が同じころという巡りあわせがあるのです。その構想も出来ず、まず十五枚という小生うまれて初めてともいうべき枚数に、毎日おろおろしているところです。その上、運わるく(これもすでに二カ月前に依頼されたもの)ある文芸誌に長い詩を書かねばなりません。小生は、二つも原稿書きがあると、どうしても気が散ってうまくゆきません」と書いている。

   1

内なる旅とは負の回路をめぐり
霧のたちこめる入江から
ねこじゃらしの茂る道を行く
「目覚めて夢みる人」
殺虫剤の臭う街の日々
生者は苦役にはげみつつ
死者はサングラスをかけて休息する
バイオリン形の女を求めて
旅する者はときに少年のように
転倒する
旅[トリツプ] 夢遊状態[トリツプ]
こわれるものがあり こわれないものがあり
こわれつつあるものがあり
その中間に分裂するものがある
転倒する道化師
転倒するフラスコ
転倒する言語
転倒する建築物
すべて過剰なもの
一茎のアネモネのほかは

   2

妊娠やはしかのように
突然やってくる悲劇の正常性
「時」の皮膚をただれしめたり
反対に「水」の流れを止める
非現実性の湾に泛ぶ
一個の梨がある
あたかも存在の核が空っぽになった
種の人間
種の下降へのねがいとは
死へ向ってささやく
耳にここちよい子守唄
旅する者は肉襦袢を脱いで眠るだろうか
雨にぬれて鷹がとぶ

   3

「風景
それはある魂の
状態である」
旅する者の地上に
いまや残るものといったら
そらまめの花か
空洞体にすっぽり収まる同量の闇だけ
それすらフレーム
だんだん縮小するフレーム フレーム
フレームの内側に抑圧され
「女の肉体の天然の富は失われた」
あきらかに
アルミニュウムとガラスの被膜づくりの
立方体の天井から
発生しはじめた赤い糸屑は浮遊する
施工人は驚き 庭師も驚く
旅する者はみずからの
相似形の骨体を求めて歩く
みちびきの犬が小便をかけまわる
ヒースの草むらを通り
雄型の池をめぐる 微風のように
雌型の花壇をめぐる 冷水のように
そしてわれわれの旅する者は
倒立像に化す
霜ふる芝生の枯れた園に
器官[オルガン]のごとく
しかし其処すら
「仮泊の場にすぎない」

   4

「自然と精神のあいまいな境界に位置する
幼児という存在には
動物から天使までの
あらゆる存在に変身しうる可能性がある」
われわれが知っている
隣人の幼児はやわらかい手足を持ち
泣いたり 尿をながしている
しかしその実相としては
かれらまがまがしき「幼児」は漂泊を試みているのだ
内的な戦闘を経験し
堅固な家のベッドへ戻ってくる
「幼児」は姉妹にみとられて
粘土ののっぺらぼうに化す
或は地獄をおしすすむ英雄になる

   5

われわれが「アドニス」と呼称しているものは
ことばの産物にすぎない
しかし内的な衰弱を感じる
われわれ旅する者の側からみる
父親のすがたとは
形状をととのえている夢の「アドニス」のひとり
もしくは母親の縫っているうぶぎに包まれた
影のかたつむり
擬似男性
われわれが「ヴィーナス」と呼称しているものは
ことばの詐術にすぎない
秋の夜は挽棒状の脚
梯子状の背もたれのある
椅子に腰かけ
旅する者は考える

   6

われわれに
近づいてくる
機械が変質を仕掛けてくる
かぼそい砲金の管や鉤状の機械は潤滑油にぬれ
ハイスピードで繊維を紡ぐ
そして花模様をゆっくりと織りながら
空気入りの物体を包む
それは正四角の木箱
といえばそう見え
または弾力あるタイヤ
と思えばその手ざわりがある
情緒的な雰囲気で
母親がのぞきこめば胎児を確認できるかもしれない
ぐっと見方を替えて
砂まみれの顔せるわれわれの友
旅する者の眼差しには
水遊びのあとの少女が夢想される
イナンナ
イシュタル
薄明の世界に遠のく
いにしえの地母神像
燐!

   7

「パンヤをヘラのような器具を使って
奥のほうからたんねんに詰め込み
女神像を作る」
種族の住む処を求めて
メンルン氷河地帯に入った
われわれの探索の終りかもしれぬ
旅する者は見聞するだろう
アフロディーテーの化身たる
生ける女神を仰ぐ
「ガラスの壁にへだてられている
感覚(世界)」の彼方
おお〈雪女リディニ〉が出現する
 
 『ああ美しきかな
 なんじの瞳は鴿[ハト]のごとし
 なんじの腹はつみかさねたる麦のまわりを〔〔改行して二下〕→23(追い込み)〕
  百合花をもてかこめるがごとし
 なんじの頸は象牙のやぐらのごとし
 なんじの唇は石榴の半片に似たり
 なんじの髪 体毛は葡萄のごとし
 なんじの身の丈は棕櫚の樹に等しく
 ああ偉大なるかな』
 
イナンナ イシュタル ヴィーナス
この世の高き処で
雪の泡をはんらんさせ
聖なる氷の床の上で
雪男と〈雪女リディニ〉の婚姻が行われた
白一色の不定形のもののまぐわいとは
おたがいがおたがいを抱き込め
月光を浴びつつ反響し
消し去ってゆき
自己同一性を成就する

「われわれは本当に自己の身体のなかに収まって
いるのだろうか?」
旅する者はわが心に問う

                   〔1975・9・22→23(トル)〕

――――――――――

校異では初出と単行詩集・全詩集の比較対照に終始したが、単行詩集・全詩集の〈ルイス・キャロルを探す方法〉の本文には校訂すべき処が4箇所があるので、以下に掲げる。まず〔少女伝説〕Jの第1節初出形を字詰め(25字)どおりに再現する。

ドッグソン家の姉妹ルイザ マーガレット アンリエッ
タ 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見
よ寝巻のなかは巻貝三個

これに修正が入ったため、単行詩集・全詩集(同じく25字詰)とも、次のようになっている。

ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ
緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ寝
巻のなかは巻貝三個

詩句の意味からいってもイメージからいっても、「ヘンリエッタ」のあとの(もともとあった)全角アキを欠かすわけにはいかない。つまりここは

ドジソン家の姉妹ルイザ マーガレット ヘンリエッタ
 緑蔭へ走りこむ馬 読書をつづける盛装の三人 見よ
寝巻のなかは巻貝三個

でなければならない。行頭の全角アキは省略した、という説は成り立たない。単行詩集・全詩集の〈タコ〉第2節の散文詩型(25字詰)に、全角アキが行頭に来ている処が2箇所あるからである。なお、行頭の全角アキを回避する方法として、前の行で字間を割って1文字送るという組版の調整方法があるが、《サフラン摘み》では採られていない。さらに校訂が必要な別のパターンがあるので挙げよう。同じく〔少女伝説〕Kの後半、初出形を途中から引く。

〔……〕ミレエスの娘メアリ クランボヌ教区司祭の娘
ダインフナ・エリス
          遅れてきたのは誰? あら支那の
娘の紛装したアレクサンドラ・キッチンだわ いとしの
クシイー けさ水汲みに行って 最初に見たのはなんな
の? 串の魚それとも 舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空
の下の網 聞かせてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方
をするか? ペルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるク
シイーよ 川のほとりで 最後に見たものはなんなの?
 あなた自身の肉体 その影に心があるようで ないよ
うに見える なまめかしくも幼い聖痕?
                   みんなでこれ
からキャロルおじさんを探すのよ それは包帯で巻かれ
た幽霊群のなかで 副葬花束を持った人だわ!

htmlファイルの横組表示でわかりにくければ、テキストファイルに変換して縦組表示にするとはっきりするのだが、「遅れてきたのは誰?」の上のアキは「一〇下」という固定値ではない。前行の「ダインフナ・エリス」+(全角アキ)+(改行〔より正確には、1行分用紙を進めることを意味する「LF=Line Feed」としての改行〕)を受ける相対的な位置関係をここから読みとらなければ、作品の意図を見うしなうことになる。次の「なまめかしくも幼い聖痕?」と「みんなでこれからキャロルおじさんを探すのよ」の間の改行箇所も同断である。最後に9行から成るブロックの終わりのほう、単行詩集・全詩集で

川のほとりで最後に見たものはなんなの?□□あなた自身の肉体

と詩句の間で二倍アキになっているのはJの「ヘンリエッタ」の場合と同様、全角アキでなければならない(初出には改行箇所があって紛らわしいことは紛らわしいが)。上記の〔少女伝説〕Kの校訂結果をまとめると

ーの娘メアリ クランボーン教区牧師の娘ディンフナ・
エリス
    遅れてきたのは誰? あら支那の娘の扮装した
アレクサンドラ・キッチンだわ いとしのクシイー け
さ水汲みに行って 最初に見たのはなんなの? 串の魚
それとも舟を漕ぐ農夫 蝶を捕える青空の下の網 聞か
せてよ 支那のウグイスはどんな鳴き方をするか? ペ
ルシャ模様の八個の箱の上で 夢みるクシイーよ 川の
ほとりで最後に見たものはなんなの? あなた自身の肉
体 その影に心があるようで ないように見える なま
めかしくも幼い聖痕?
           みんなでこれからキャロルおじ
さんを探すのよ それは包帯で巻かれた幽霊群のなかで
 副葬花束を持った人だわ!

となる。〈ルイス・キャロルを探す方法〉の〔少女伝説〕の如上の4箇所は、来るべき《吉岡実全集》にこの詩篇(吉岡実詩のなかで屈指の傑作である)を収録する際には、ぜひ執筆時の試みを活かす形に改めてもらいたい。

〔付記〕
本詩集の単行本の巻末(奥付対向ページ)に掲載されている〈初出誌紙一覧〉には、残念ながらいくつか誤りがある。すでに各詩篇の本文前に詳細な初出記録を掲げたので、ここでは〈初出誌紙一覧〉と原典を校合した結果を本文の校異と同様の書式で記し、誤記・誤植を正しておこう。

初出誌紙一覧
サフラン摘み 「現代詩手帖」1973. 7.
タコ 「ユリイカ」1972. 〔11→10〕 臨増
ヒヤシンス或は水柱 「風景」1972.〔7→6〕.
「ユリイカ」1972. 4.
マダム〔(ナシ)→・〕レインの子供 「ユリイカ」1973. 1.
悪趣味な冬の旅 「中央公論」1972. 7.
ピクニック 「芸術生活」1973. 7.
聖あんま語彙篇 「美術手帖」1973. 2.
わが家の記念写真 「文学界」1973. 11.
生誕 「読売新聞」1974. 3.〔(ナシ)→24.〕
ルイス・キャロルを探す方法 「〔(ナシ)→別冊〕現代詩手帖」1972. 6 〔臨増→(トル)〕
〔(ナシ)→『〕アリス〔(ナシ)→』〕狩〔(ナシ)→り〕 『アリスの絵本』1973. 5 牧神社
草上の晩餐 「現代詩手帖」1974. 4.
田園 「ユリイカ」1973. 9.
自転車の上の猫 「松井喜三男展」パンフレット 1974. 4.
不滅の形態 「別冊小説新潮」1974. 夏季号
フォーサイド家の猫 「ユリイカ」1973. 11.
絵画 「風景」1974. 5.
異霊祭 『異霊祭』1974. 4 書肆山田
動物 「季刊俳句」197〔4. 秋→3. 10 1号〕
メデアム・夢見る家族 「文芸展望」1974. 夏〔(ナシ)→ 6号〕
舵手の書 「現代詩手帖」1974. 10 臨増
白夜 「鷹」1974. 10.
ゾンネンシュターンの船 「ユリイカ」1974. 12 臨増
サイレント・あるいは鮭 「現代詩手帖」1975. 1.
悪趣味な夏の旅 「新劇」1975. 7.
示影針 「ユリイカ」1975. 9.
カカシ 「旅」1975. 9.
少年 「饗宴」1976. 春〔(ナシ)→ 1号〕
あまがつ頌 「ユリイカ」1975. 12 臨増
悪趣味な内面の秋の旅 「文芸」1975. 11.

発表媒体名や発表年月日を誤ると、文献探索する者をミスリードしてしまう。媒体名の漢字の新字/旧字の別も大事なことには違いないが(文献にたどりつく際に支障がないので、〔付記〕では校異の対象としなかった)、類推がきかないこうした点こそ正確でありたい、という自戒の念をこめて掲げる。


吉岡実の未刊行詩篇を発見(小林一郎、2009年12月31日)

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)に未収録の未刊行詩篇を1篇、発見した。《日本の古本屋》は私が最も頻繁に使う古書サイトだが、書誌のためのツールとしても利用できるのはありがたい。先日、吉岡実関係の書籍をブラウズしていたところ、愛知・尾張旭市の永楽屋から「白鳥幻想/志摩聡、俳句評論社、昭44、1冊/限定120部高柳重信序文、吉岡実序詩(署名箋入)」が6,000円で出品されていた(本書の存在はこのとき初めて知ったが、その後、国立国会図書館の所蔵本――著者から寄贈された一本で、「〔昭和〕44. 6. 18」の受入印がある――を実見した)。ときに「吉岡実序詩」といえば、すぐに思い出されるのが次の詩篇である。拙編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)の同詩の項から、未刊詩篇の番号を改変して引く(索引の凡例は割愛)。

135 序詩(じょし)[――]
うんすんかるたを想起させる
3行▽寺田澄史作品集《がれうた航海記――The Verses of the St. Scarabeus》(俳句評論社刊)1969年5月15日▼未刊詩篇・13

《白鳥幻想》の〈序詩〉のデータを《がれうた航海記》(限定120部)のそれと同じ形式に整えて、来るべき《吉岡実全詩篇標題索引》に増補する日のために、原稿化しておこう(詩篇番号の「b」は135の次に挿入するための仮のもので、次回改訂時には正規の番号に付けかえたい)。

135b 序詩(じょし)[――]
白地へ白く白鳥類は帰る
2行▽志摩聰句帖《白鳥幻想》(俳句評論社刊)1969年6月1日▼未刊詩篇・14

〈序詩〉はわずか2行の、しかも多分に挨拶的な詩篇であるが(儀礼的ではない)、この「白地へ白く白鳥類は帰る」は注目に値する。《白鳥幻想》刊行の1969年、吉岡はのちの詩集《神秘的な時代の詩》(湯川書房、1974)の作品群を書いており、「白地」が次の2篇に登場するのだ。

白地に赤く/燃えるランジェリー/燃えるフロア(〈蜜はなぜ黄色なのか?〉F・12)

白地に赤く死のまる染めて(〈わが馬ニコルスの思い出〉F・16)

時代は下り、1990年、生涯最後の作品となった〈沙庭〉(未刊詩篇・20)の冒頭はこうだ。

灯明のともる/      〔白地[あからさま]〕の座敷で

これらが単なる語句のレベルに留まるというなら、《サフラン摘み》(青土社、1976)の最後を締めくくる〈悪趣味な内面の秋の旅〉(G・31)の結末に近い絶唱を挙げないわけにはいかない。

イナンナ イシュタル ヴィーナス
この世の高き処で
雪の泡をはんらんさせ
聖なる氷の床の上で
雪男と〈雪女リディニ〉の婚姻が行われた
白一色の不定形のもののまぐわいとは
おたがいがおたがいを抱き込め
月光を浴びつつ反響し
消し去ってゆき
自己同一性を成就する

2003年の志摩聰の歿後、岩片仁次・坂戸淳夫・寺田澄史編《志摩聰全句集》(夢幻航海社、2004年2月22日)が限定75部で刊行された(《白鳥幻想》の吉岡の〈序詩〉も再録されている)。全句集の〈あとがき〉(無記名だが発行人でもある岩片仁次のペンになるか)が志摩聰の俳句に触れた吉岡の発言を引いているので、掲げる(要約発言の原典は《俳句評論》1963年2月号の金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実・中村苑子〈第二回俳句評論賞選考座談会〉)。

 〔……〕「附篇J」に録した「ぱすてる館旧詩帖」について、いくばくかのつけ足しをしておきたい。この一連は昭和三十七年に募集された第二回俳句評論賞に応じたものである。結果は「選外佳作」であったが、七人の選考委員〔金子兜太・神田秀夫・楠本憲吉・高柳重信・吉岡実、岡井隆・永田耕衣〕のうちの吉岡実は、これを第二位に推した(註・各選者は三名を選出)。以下は、この選考座談会の発言の一部要約である。
 「この志摩聰が問題。これは僕にはちょっと手に負えない」(神田秀夫)。「ゲテモノ(金子兜太発言)と言われればゲテモノだけれど、徹底している。その面白さがある。仮りに前衛俳句などと言うことを言うなら、ここまで徹底した方がいい」(吉岡実)。「やぶれかぶれじゃないか」(楠本憲吉)。「それで僕なりに詩を感じた。だから面白いと思った」(吉岡)「このパターンだとあまり沢山は書けないでしょう。それに、あまり繰り返すと鼻につくんじゃないか」(高柳重信)。「そういう点はある」(吉岡)。「可能性の問題ですね」(楠本)。「自分のパターンを持たないで、漫然と見よう真似見〔ママ〕で書いている連中よりは、こういう、いわば手に負えないような感じでも、パターンを持って書いている点で、僕は、この人を割合に高く買います。問題は、このパターンのあとで、次の別なパターンを展開することが出来るか、その能力があるかどうか、ということですね。〈才能抜群〉というマークを僕はつけているんだけれど、これは、なまなかの才能では難しいでしょうね」(高柳)。(同書、四九二〜四九三ページ)

著者は初刊《白鳥幻想》の〈後記〉(1969年4月26日の日付がある)の一節で、「この、折紙ヨットのような小句帖を、師事する高柳重信氏、私淑する吉岡実氏の言葉で飾り得たことは、わたしにとって、全くの幸せである。深く感謝する次第である」(同書、四三ページ)と、高柳の〈序文――いまも、彼は=rと吉岡の〈序詩〉に礼を尽くしている。参考までに本書奥付の記載を録する。

〔蒸気機関車を象った検印(貼込)〕

白 鳥 幻 想
(限定120部)
昭和44年6月1日

著 者   志摩しま そう
発行者   高柳重信
印刷者   平光善久

発行所
俳句評論社
東京都澁谷区上原3丁目4番13号
電話・東京(03)467-0941
頒価200円

これで吉岡実が生前に発表した詩は、計285篇になった。すなわち《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》掲載の281篇に、その後発見された〈吉岡実の未刊行詩三篇を発見〉の3篇、そして今回の1篇である。こうなると、高柳重信率いる俳句評論社刊行の句集に吉岡が寄せた文章や詩がまだほかにもあるかもしれない、と考えたくなる。そこで国立国会図書館のNDL-OPACで「出版者」に「俳句評論社」と指定して検索してみると23件がヒットした。その23件の俳句評論社本の最初が火曜会作品集《火曜》(1960年7月1日)で、著者は目次順に、岩片仁次・大岡頌司・大原テルカズ・小川実・加藤郁乎・鎌田矩夫・塩原風史・志摩聰・高柳重信・寺田澄史・鳥海多佳男・中村苑子・野田誠・松岡緑男・岬沃助の15名である。23件の書籍や15名の著者のなかには吉岡実の随想でお馴染みの名がいくつも見えており、このあたりを手始めに探索するのが筋のようだ。


吉岡実詩集《静かな家》本文校異(小林一郎、2009年11月30日)

吉岡実の《静かな家》は単行本として1968年に思潮社から刊行された。ただし、同書は前年1967年思潮社刊行の《吉岡実詩集》に「4|静かな家 1962―66」の標題で未刊詩集として全篇収録されているから、詩集としての公表はそちらのほうが早い。《静かな家》は16篇を収め、〈無罪・有罪〉(1959年3月)から〈恋する絵〉(1967年2月)までの全篇(初出未詳の〈模写――或はクートの絵から〉を除く)が本詩集以前に雑誌に発表されている。本稿では、 雑誌掲載用入稿原稿形、 初出雑誌掲載形、 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、 詩集《静かな家》(思潮社、1968)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。後述のようにの本文は同一組版なので、「」とまとめて表示した。これにより、吉岡が詩集《静かな家》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「蠟」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「蝋」や「祷」を使用している点をご諒解いただきたい。なお、新字を採用した本文の新字以外の漢字は、シフトJISのテキストで表示可能なかぎり、校異としてこれを載録した。初めに《静かな家》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに、2009年11月の時点で未見。

初出雑誌:各詩篇の本文前に記載した。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

詩集《静かな家》(思潮社、1968年7月23日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。本書に掲載の本文はの《吉岡実詩集》の組版を流用しているため、両者の間に異同はない。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。

《静かな家》の雑誌掲載用入稿原稿は漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(後出〈スープはさめる〉原稿の写真版と解説を参照されたい)。ひらがな・カタカナの拗促音は、最終形を収めた《吉岡実全詩集》で小字に統一されたこともあり、本校異では初出形がこれと異なる場合も《吉岡実全詩集》に合わせて小字表記とした。

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《静かな家》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

劇のためのト書の試み(E・1、39行、《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕)
無罪・有罪(E・2、*印で4節に分かつ48行、《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕)初出「写真・大辻清司、構成・大森忠行」
珈琲(E・3、10行、《美術手帖》〔美術出版社〕1963年2月号〔216号〕)初出「絵・加山又造」
模写――或はクートの絵から(E・4、47行、初出未詳〔1963年末までに発表か〕)
馬・春の絵(E・5、20行分、《文藝》〔河出書房新社〕1963年1月号〔2巻1号〕)
聖母頌(E・6、29行、《郵政》〔郵政弘済会〕1964年7月号〔16巻7号〕)
滞在(E・7、25行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1964年4月号〔7巻4号〕)
桃――或はヴィクトリー(E・8、28行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1965年3月号〔8巻3号〕)
やさしい放火魔(E・9、71行、《無限》〔政治公論社〕1965年11月〔秋季・19号〕)
春のオーロラ(E・10、41行、《風景》〔悠々会〕1966年3月号〔7巻3号〕)
スープはさめる(E・11、37行、《詩と批評》〔昭森社〕1966年5月号〔1巻1号〕)
内的な恋唄(E・12、95行、《詩と批評》〔昭森社〕1967年1月号〔2巻1号〕)
ヒラメ(E・13、51行、《凶区》1966年10月〔15号〕)
孤独なオートバイ(E・14、102行、《三田文学》〔三田文学会〕1966年11月号〔53巻4号〕)
恋する絵(E・15、42行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕)
静かな家(E・16、52行、《現代詩手帖》〔思潮社〕1966年4月号〔9巻4号〕)

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劇のためのト書の試み(E・1)

初出は《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕二〜三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号20行1段組、39行。

それまでは普通のサイズ
ある日ある夜から不当に家のすべての家具調度が変化する
リズムにのって 暗い月曜日の風のなかで
音楽はユーモレスク
視覚的に大きなコップ 大きな歯ブラシ
天井までとどく洋服ダンス
部屋いっぱいのテーブル
家族四人が匿れるトマト
父・洋服が大きくて波うち会社へ出られず
兄・靴が大きくてラセン巻き
妹・月経帯が大きくてキララいろ
母・大きな容器の持ちはこびで疲れてたおれる
父に電話がかかる
拡声器のように大きな声が父の不正な仕事をあばく
兄は女を孕ます罪をあばかれる
電話機の闇
妹は火山口のような水洗便所のふちで
恋人の名を呼ぶ
母はどうしているか 母は催眠錠の下にいる
塀の外はどうなっているのか 洗濯物で見えぬ
ある日ある朝から順調にサイズが小さくなる
小さな鏡 小さな寝台
小さなパン 観念のような
妹《わたしは飢えているわ》
兄《何があったのだろう この窓の外で
  火事や地震じゃない 別の出来事が
  ぼくたちの罪じゃない》
夕暮から地平の上のほろびの技術
かたむく灯
かたむく煙突
かたむく家
父母の死骸は回転している洋服ダンスの中
兄妹はレンガの上に腰かけ
雨がふっている
ふくらむスポンジの世界
兄《とにかくぬれないところ どこがあるだろう》
兄妹立ちあがる未来の形で
聞える?
恋するツバメの鳴き声

無罪・有罪(E・2)

初出は《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕一三〜一八ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ1段組、48行、「写真・大辻清司、構成・大森忠行」。本篇は《静かな家》に収録されるまえ、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の〈M未刊詩篇〉に収められており、その本文は初出雑誌掲載形の改頁箇所をアステリスクに変更(すなわち〔(改頁)→   *〕)したほかは、漢字を一文字改めた(17行め「なみだぐましく妻のぬれた〔躯→軀〕は今はレンガ色」)だけである。

判事はときどき歩く
彼が裁いた男の心の惨劇の迷路の葛の茂り
初夏の月が望遠する
バスケットのなかの大きな蟹のあやしげな行為
重みのある毛布を裂く
馥郁とした血のオルガスムス
少年少女の心中死体が導火される
それぞれ瞬間
美しい電流が生まれる
幻〔燈→34灯〕画の仏手柑
胎児は手袋をぬぐだろう
(改頁)→*→4   *〕
判事は地下道へ入る
優しい妻と子は劇場で〔笑→34歌〕劇を見る
兇器がみつかるまで
判事は長い歳月を孤独な壁を撫〔ぜ→34で〕る
不具の記憶のくりかえし
なみだぐましく妻のぬれた〔躯→34軀〕は今はレンガ色
彼はもぐらのように洞察した
一人の美しい裸形の少女のトルソの二叉
眼を近づければ兇器
細い線の針金
それが輪を形づくる
判事は霧の密室からはい上る
犯罪の起源は
人の心の細胞の花火
兇器は真の犯罪には不要のものかも知れず
(改頁)→*→4   *〕
無能な容疑者は肉の枠のなかに
片目をあけている
もう一つの眼の夢は桜んぼのつるつるにさわり
閉じられた物狂わしい深〔淵→渕→淵〕
空走る一つの自転車のからまわり
食事から殺意へ
不安から満腹の子供への呪咀
逃走の脱糞
愛の放尿のこころみ
自転車のからまわり
窓から街へ
光から暗へ
送転する万華鏡の人
無罪の容疑者は野末で
両方の眼をとじ
子供全部を滅ぼした
祝砲を聞いた
(改頁)→*→4   *〕
ストップ
永遠に
彫刻された男女のために
可能ならば
無罪も有罪もなく

珈琲(E・3)

初出は《美術手帖》〔美術出版社〕1963年2月号〔216号〕七五ページ、本文新字新かな使用、8ポ1段組、10行、「絵・加山又造」。

わたしは発見し
答えるためにそこにいる
わたしは得意 ススキの茂みのなかで
わたしは聞くより 見る
半病人の少女の支那服のすそから
かがやき現われる血の石
わたしはそれにさわり叫ぶ
熱い珈琲を一杯
高い高い高射砲台へのぼる男
わたし以外にないと答える

模写――或はクートの絵から(E・4)

初出未詳だが、1963年末までに発表か(〈下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出〉参照のこと)。

馬・春の絵(E・5)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1963年1月号〔2巻1号〕一二〜一三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、10ポ25字詰1段組、22行分。

わたしはそのとき競馬場の芝生にねて 円柱球の馬を見ている 一二回跳ねるのを見た! もしかりにわたしの家の戸棚のなかに 馬が死んでいると確認したら どれほどわたしを悦ばせることか わたしは早速そのスポンジ化した馬の臀を両手で抑える それは夜まで続く 不惑の人生をかえりみて 少数者の自由を守ろうと思う 戸棚からころがりだす酒壜と血まみれのハンドル 終りに孔のたくさんある鉄の筒の胴廻りを計る 水に打たれて伸縮度を加える馬の首 それはわたしにとっては過ぎた戦いの心の患部だ それが女の首と太さが同等だった〔とき→34時〕のわたしのおどろき リンゴのように半分噛られた星の下で 隣人みんなの哀れみを受ける 裂〔(ナシ)→34か〕れたカンバスよりもっと永遠でない闇から 愛撫する馬の腹へ わたしは口をつけて囁く 《人間の幸福は各個人の生得のもの》 女は蹄鉄の下からスカートをつける ピンクとグレーのゆるやかなカーブの藪の道へ帰って行く わたしはだれにも聞けないのだ 女は死んだ馬なのか 雨のなかでいまでも跳ねる かつてわたしが光で見た円柱球の馬なのか 朝がきたらしいああいちじるしいナツメの実 わたしは歯刷子で歯をみがき それを取りおとすだろう 世界はいつも余分なものをつくり わたしに余分な仕事を与える

聖母頌(E・6)

初出は《郵政》〔郵政弘済会〕1964年7月号〔16巻7号〕一四〜一五ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ25行1段組、29行。

わたしたち再びうまれるとしたら
さびしいヴィオレット色の甘皮からだ
それはいじるより見る方が美しい
ところどころ夏のくだものの房をつけ
しずかに稲妻を走らせる
亜鉛のドームの下はやわらかい馬の口
鉄がゆっくりうごく→34こぼれる一粒の燕麦〕
わたしたち再びうまれるとき
西瓜の畑で月は輝くか
いま いまとはいかなる紐の切れ目
大小の羊が下半身の毛を刈られる
わたしたちの母を匿すんだ
青や赤で染められた
地図の上に
分割されつつある暗い世界の一つの小屋
そこでわたしたちの母は長い髪をかきあげる
力でなく心でどこまでも高く
モノクロームの禿山
そこは叩くところでないんだ
わたしたちの死せる父を埋める聖地
つねに
苦悩の虹・熱い滝
わたしたちの母は誠実だから次のものを見る
ランプの光に
殺虫剤のなかで色を変える染色体
セロファンで包まれた
乳歯
それがわたしたち・二十世紀のわたしたち
スピードを加えて水がながれる

滞在(E・7)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1964年4月号〔7巻4号〕八〜九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は小字)使用、五号1段組、25行。

わたしはいつも考える
ドアのノブのやわらかい恐怖
滞在とはなに?
火事のなかではぜる大きな楽器を見ている
わたしは不可視のものを
笑ったりしないだろう
それが氷上なら
わたしは女の腰をかかえて滑って行く
円が回避する円
あらゆる現実を分割して
回路を戻るソーセージがある
それは新しい観念だ
青いペンキ塗りのポンプへわたしは接近する
上下にうごかないことが
死を語るなら 死へも接する
だからわたしは寒い食事がすきだ
凍る心のガラスの破片の細部まで見せる
鯛の美しい擬態
それこそ注目せよ
そこから続く長い長い橋
淋しいホテルの裏口を出ながら
わたしは考える
雨傘のなかの小さな愛を
疾走する自動車のハンドル
すべて→34(トル)〕左へ左へときられる

桃――或はヴィクトリー(E・8)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1965年3月号〔8巻3号〕二〇〜二一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号15行1段組、28行。目次での標題は「桃・あるいはヴィクトリー」。

水中の泡のなかで
桃がゆっくり回転する
そのうしろを走るマラソン選手
わ ヴィクトリー
挽かれた肉の出るところ
金門のゴール?
老人は拍手する眠ったまま
ふたたび回ってくる
桃の半球を
すべりながら
老人は死人の能力をたくわえる
かがやかしく
大便臭い入江
わ ヴィクトリー
老人の口
それは技術的にも大きく
ゴムホースできれいに洗浄される
やわらかい歯
そのうごきをしばらくは見よ〔(ナシ)→34!〕
他人の痒くなっていく脳
老人は笑いかつ血のない袋をもち上げる
黄色のタンポポの野に
わ ヴィクトリー
12螢→蛍〕光灯の心臓へ
振子が戻るとしたら
カタツムリのきらきらした通路をとおる
さようなら
わ ヴィクトリー

やさしい放火魔(E・9)

初出は《無限》〔政治公論社〕1965年11月〔秋季・19号〕二二〜二五ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、20級19行1段組、71行。

夏ははげ頭なんか刈りたくないと
チャリーはいつも思う
まして少女のうぶ毛の口のまわりを
剃りたくないと考える
ミルクのみ人形の腹のように
いやらしい雨期をおもわせるんだ
理髪師チャリーは毎日
冷蔵庫の白い肌をふいていたいと思う
それはすきな消防車の鐘のように
爆発しそうな内臓をしている
猫へやる魚が死んでならび
コカ・コーラのビンはガチガチ鳴る
チャリーの求めてる冷たい水と
凍った不定形な涙
かつて少年だった記憶もなく
彼の記録は森林放火十四回
三十二才のチャリーは悲鳴をあげ
血のうえに母と妹をカモメのように
飛ばせている
永劫に新しい戦争写真
それから停電のなかの滑車の下降
髭のはえていることが大人なら
チャリーは酢の中の大人
カマスに喰われるイワシの毒性のない肉質
肥っていることが罪なら
チャリーの体重は零
頭は燃えるアメリカネズミの尾
火〔12繩→縄〕の円
ぐるぐる廻っているんだ
それは電気よりも精神的なもの
チャリーの呪う心は皮をはがれたウサギのように
他の人の厚塗りの人類愛からはみだして
けいれんする絵画
公衆を冷笑する
患部でなく全体的患部
他の人の観察できない
蜜蝋の赤
チャリーの逃げる劇
ひとつの鉄の柱から他の柱へ
アメリカの高層気流から
シナのさかれたフカの水墨の海へ
逃げるチャリーが見えるか?
他の人の心はマッチが擦られるほど熱くない
しかし今日この午後でも
やさしい放火魔チャリー・コルデンの
よだれは熱くしたたる
あらゆる現実の森林は火を産むさびしいしとねだ
タバコ・フィルター・セルロイドの函
チャリーの道具はどれも小さく
だれもが持っている日常性から
非日常性へオクタアブが替る
廃物芸術
チャリーの反商業主義の勝利だろうか?
サース・キャニオンの他の人の物干場から
とおく見える慰めの夜の火柱
チャリーは逃げることを拒否する
むしろ訪れる
むしろ静止
岩のセミの出来のわるい眼
見ることを禁じよ
生きる悦びの黒い枝々
牛乳しぼりの女と鳥がゆっくりと行なう
美しい死方
煙たなびく彼方の花嫁衣装
チャリーは頭の中の火
もえる翼 自己の火を消している
《外出のときは 雨具をおわすれなく》
 《外出のときは 雨具をおわすれなく》
やさしい男チャリー・コルデン
亀甲のなかへの精射
雨期が近づくまで

春のオーロラ(E・10)

初出は《風景》〔悠々会〕1966年3月号〔7巻3号〕五二〜五三ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ23行1段組、41行。

わたしがいま描く画面とはなに?
生き方とは関係なく
運転手のくびを絞める
ひとりの少年の金メッキの脱腸帯へ
接近する
それは病気のなかで〔うごく→34そだつ〕
野生の桃
夏がくると白くぬりかえる
天使の顔
むしろ正面をむくとき
急にドーナツを食う老婆たち!
ひとりの少年を走らせる
桝のなかの桝?
デパートのマヌカンが腰から下を
溶かしている夜から朝まで
公害地〔帶→34帯〕の音楽は《マヘリアの祈り》
門へ至るところで
犯された姉のたらしている繃〔帶→34帯〕
わたしの未想像の画面から
独立して
巻かれている ず〔ー→34う〕っと下の方で
ひとりで少年がまたいで行く
黒麦の世界とはなに?
乳でやしなわれた大人の死ぬシャリ・シャリの楽園
肉が心でなく孔ある筒から出る
凍る都会の学校で
孔雀の母をころして
ひとりの少女が歩いてくる
《柳よ泣いて》を歌いながら
見える美しい止血器
病熱そのもの
モチーフそのもの
少年の縞ある心
その細部のなかの細部を
水平にまでもちあげて行く
少女の雨傘
それは大きな〔圓→34円〕の復活!
サソリ座がぴくりと反ったのが見えない?
わたしと大人たち
とても悪い方法だが口のなかへ
アイスクリームを入れる

スープはさめる(E・11)

吉岡陽子夫人の手になる〈スープはさめる〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:Yahoo!オークション)
吉岡陽子夫人の手になる〈スープはさめる〉の雑誌掲載用入稿原稿(出典:Yahoo!オークション)

この雑誌掲載用入稿原稿で注目すべきは、編集者が記入したと思しい赤字による指定である。写真の解像度が低くて判読しにくいが、指定は原稿の小字や約物に対して施されているように見える。出典のYahoo!オークションのクレジット「吉岡実詩稿 スープはさめる 草蝉原稿用紙(32×20)3枚完」の「草蝉」は正しくは「草蝉舎」である。
初出は《詩と批評》〔昭森社〕1966年5月号〔1巻1号〕二〇〜二一ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号21行1段組、37行。編集担当者のひとり清岡卓行は初出誌巻末の〈後記〉に「創刊号は、詩作品の小特集となったので、一人二頁という窮屈な条件でお願いしたが、快く御寄稿下さった諸氏に感謝したい」と書いている。

紅紫のヒースの荒野へ
芝刈機をゆっくり
押して行く
ひとりの老婆を見たことがある?
ノイズの静かな暁
それは製図家の青い消ゴムで
こすられる
〈肉にかこまれた星〉
ながれるコマーシャル・ソング
ファシストたちの死んでいる
沼地での夏
泳ぎまわるミズスマシ
天然色の処女の肉体は
事をすすめる
白い骨へやさしいキッス
すなわち老婆は姙み
任意のとなりへ横たわる
内部で起ることは外部にも起る
あざやかに長大なキュウリが採れる
さびしい村で
青いイボイボがその良心
痛がる黒い赤ん坊
じゃ愛が正しかったのか?
すすむ者と戻る者の
同時に通る
ホット・コーナーで老婆の発する
消音ピストル
存在する円をくぐりぬける
アルプの乳形の石
死ぬものがないときは
なかんずく人びとは高熱をだす
腕のなかの情婦もともに
水へ浮ぶコルクの栓
挟むものを変えよ
ひとりの老婆の臼歯の
生えそろう時まで
さめたスープは桃色の膜を張る

内的な恋唄(E・12)

初出は《詩と批評》〔昭森社〕1967年1月号〔2巻1号〕二〇〜二三ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号13行2段組、95行。

殺人者のすきなストロベリージュース
とても赤くって
ガラスの器へ注がれる!
注がれる魂の花文字
きみたちが死ぬの〔が→34は〕喜ばしい
かれらの停電の電車の〔函→凾→函〕詰の墓が
しなやかにきみたちと
だき合って悩ましい夜!
エレベーターの上で
少女を絞め殺すべき契約を欲する
ストローでかきまわすんだ
うすめられて行く
夕焼の空のストロベリージュースを
きみの母の血でなければ
かれらの妹の植物化した直腸の液
ぼくは殺人者で
死にたがっている猫
電子オルガンが鳴っている午後を
黄金の肛門から出る水子
ぼくが水子で
きみたちが多淫な猫の腹と子宮
かれらが爆弾をはれつさせるんだ
氷の上へ
ソーセージの工場へ
ぼくの父の麻薬の舌の下へ
ぼくの弟は痴漢で冬のさびしい森を行く
《そこにはたくさんの女がいる》
眼をふせよ!
あらゆる建築物の裏側で
すべる砂のひびきが聞えるんだ
うずまくデコレーションケーキ
女騎手の咽喉がつまる
きみらのラッパ状の管もつまる
タイルの浴室へ
あふれるサンゴ樹
あふれる兵隊の星
ドラムを叩いてよ! 夏の夜を
飛ぶフォーク
食肉
匂いのつよいテッポーユリ
の全開期
ぼくが殺した運転手
きみらが殺した服飾デザイナー
かれらが殺したミス・シナ
テーブルの円をまわり
沈んでくる秋の霧
自然な状態で上むくスプーン
とじられる唇
映画のフ〔イ→34ィ〕ルムのなかで
とじられる独裁者の
手術の巨大な胃袋の傷
時間をかけて
溶かされて行く
女への愛 樹木への愛
交尾する犬への愛
蛮国への物質的な血の愛
今夜十時から臨時ニュースがある
ぼくが殺人者になった
喜ばしい〔食事→34読書〕時だ
水を吸〔い→34(トル)〕あげる母の涙の魚
ナット・キングコールの唄
教会音楽風な
神秘なブルー一色の
矢印〔の緑の一日→34(トル)〕
ぼくの不倫がつくる
麦畑へ
きみたちが火事をみちびく
ついでに〔けし→34ケシ〕の畑まで
灯る人家を焼き
密通した人妻の
幼女のマヌカンをぼくは抱くだろう?
糸杉の狂える夜ごと夜ごとを
きみがぼくを殺しにくる
ささやく泡のながれのなかから
ストロベリージュースの
甘い鼻の上
ソファーの灰色をけばだて
かれらがきみらを殺しにくる
ぼくの便秘が
きみたちの空腹へ通ずる朝まだき
かれらの石油くさい岸から
他国へながれでる河とニワトリ
子供は育ってはいけない
むしろ生れてはなお罰せられるんだ
妻が夫をうけ入れるとき
花火が凍る
闇の空
夜それとも真昼
ぼくらの終りの合図?
水時計のうごく水
漂う秒〔計→34針〕
唐草模様のうごく枯葉
ぼくは気も狂わないで生きている
きみたち・かれらも
ガラスの器のうごく蜜のように

ヒラメ(E・13)

初出は《凶区》1966年10月〔15号〕三九〜四一ページ「ゲスト作品」、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、51行、目次での標題は「ひらめ」。

ヒラメは海のなかで泳ぐ
信仰
たわむれに
捕えられるため
ぴくぴくうごく砂の浅瀬
貝がら類で
首までうずまる
老婆がちょっとほほえんだ
あれが合図なら
死ぬべきか?
生くるべきか?
波の下へ
老婆の腰巻が降りて行く
矢印の赤に沿って
反回転
ヒラメの両面が
すこしずつ滑らかになる
冷たく熱く
北から南から
ひきよせられて
二つの眼がひらかれる
ヒラメ
溺れる少年のばたばたする裸の脚
とてもガソリン臭い
射精のなかを
走るイカ
浮ぶストロー・ハット
浮ぶ涙
誰が死ぬのだろう?
この干潮の花の月の出
暗いトウフの半面
全体としては裂け目のふかいペルソナ
ぬげる黄色い水着
ぬけるマヌカンの手足
漂うコンニャク
ふたたび漂う
腰巻のなかへつきつける懐中電〔燈→34灯〕
はっきり見えた!
消防夫たち
役にたたない長いホースを
ひきずって行く
乾く海岸線
ヒラメは
平面な水墨世界で
ある種の口をひらき
ある種の毛をはやし
いよいよあいまいな形へ向う
岬の灯台のエロチックな光の下で
あいまいな心自体
そのとき
おそくとも夏は逝く

孤独なオートバイ(E・14)

初出は《三田文学》〔三田文学会〕1966年11月号〔53巻4号〕三五〜三九ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ21行1段組、102行。

海岸の砂地より少し高い平面を
廻っている
円形のコンクリートの床?
それは原色のヒトデのように
夏へ向う
青年の赤いマフラー
同心円が猛然と回転する
姙婦の多量発生の
春の終りへ感情移入!
よごれた個人の下着の見える
やがて夕暮れだ
機械の棒で操作される魂の中心を
一台のオートバイが走っている
一サイクルのスピードで
一サイクルのなかに
試みられる
円の癒着性!
孤独なオートバイの裸体
合成塗料のなやましい匂い
円の迷路へ
なだれこむ黄色いアネモネ
高鳴る水
〈くださいアスピリンを二錠〉
走る車輪
筒をぬける鳥
まず換気弁がぬれる
それから処女性のシリンダーが
潜在しているのがわかる?
機械がつくるさびしい関係を告知せよ
走る車輪の下のまだ青いバナナ
ささやくエンジンの愛
あるときは見える
検眼パネル
しゃべるしゃべるガソリンの口
しゃべらない沈黙の電気
走る気体
モーターの内部で
やわらかい真紅の絹はグラスをつつむ
白いヘルメットをかぶり
とてもたのしい衝突?
細いけむりが出る
精霊たちの裂かれるパンツ
そのはるか下を
四つんばいの父母の像
つるつるの頭の上で
読みあげる
孔の数
ベビーの死亡 出生率
貸借対照表
宗教の方眼紙の彼方へ
ばらまかれるレンゲの花
そして胆汁
抱きあった恋人たちが立ちさり
気まぐれな猫がはらみ
あるものが来る
あるものの他のものが見え
記号や畝のように
スタンドの青いサボテンのとげの絵
さかさまのサソリの鋏
ゆっくりひらき
切られる矩形の咽喉
すでにない前方から泡がこぼれる
ガラガラくずれながら
積まれてゆくビールの〔12罐→缶〕
全部叩かれる
男女の悲鳴〔!→34(トル)〕
水車に沿って
マンドリンの腹へ沿って
オートバイが走っている闇へ
次はマリンバや太鼓
まわる車輪へ白髪が発生し
ゴムのタイヤの象皮性を見せよ
ようするに破壊でもなければ
再構成でもない
空間を予想する
雨にぬれるオートバイ
グッドバイ
野獣のなかの締められたバルブ
少年の腰をだきたくなる
少女の脱脂綿にふれたくなる
孤独なオートバイのサドル
試みられる精神・金属の羞恥度
時間とはどんな白線?
同心円の反復から
停止する半円の透明度
出ていかないカニ
海岸へだれも近づくな!
走る心で
うしろへ戻って
ある日の暁まで廻るハンドルへ
美しい血が循環する
寒暖計
皮下溢血!
超スピードで出てゆくガラス
月光いっぱいにいま入ってくるイカ
女のオナニズムの
欲望のモーターの内部で
ホット・ケーキがつぶれるんだ
葬儀人夫の
わけのわからぬ連祷唱
テンテンテン………
孤独なオートバイが走る

恋する絵(E・15)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1967年2月号〔10巻2号〕二八〜二九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は小字)使用、五号1段組、42行。

造る生活
造られる花のスミレ
ばらまかれたあるものをはさむ
洗濯バサミ・洗濯バサミ
それは夜の続きで
水中の泡の上昇するのを観察する
恋する丈高い魚
白いタイルの上では
考えられない黒人たち
その歯のなかの蜂
雨ふる麻
ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている
肥えると同時にやせる蝶
ひろがると同時につぼまる網
ごぞんじですか?
ぼくの想像姙娠美
海へすすんで行く屍体
造られた塩と罪の清潔感!
幼時から風呂がきらいだ
自然な状態で
ぼくの絵を見ませんか?
病気の子供の首から下のない
汎性愛的な夜のなかの
日の出を
ブルーの空がつつむ
コルクの木のながい林の道を
雨傘さしたシナの母娘
美しい脚を四つたらして行く
下からまる見え
そこで停る
東洋のさざなみ
これこそうすももいろの絵
うすももいろのビンやウニ
うすももいろの耳
すすめ〔龍→34竜〕騎兵!
うすももいろの
矢印の右往左往する
火薬庫から浴室まである
恋する絵

静かな家(E・16)

初出は《現代詩手帖》〔思潮社〕1966年4月号〔9巻4号〕三八〜四〇ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、五号21行1段組、52行。

パセリの葉のみどりの
もりあがった形
ぼくたちに妻があることは幸せ
と叫んでいる男
それは洋服のなかにいるというわけではない
なおも酸性を求めて
高い青竹の幹の節々をとんでいる
クロアゲハの闇の金粉に
溺れているように見える
植物的人間
妻とはなに?
その食べている棚の上の
ママレードの中心
それぞれの夫の《ここに砂漠は始まる》
食事は始まる
詰りつつある壜のなかへ壜
しかも夕暮
息の上の
紅蓮の舌から見える
下る坂の鐘の舌は中世風に
まるまるとして
ひとつの十字架へ沿って降りて行く
ではニッキはどんな地上から
はこばれてくる?
愛する唇へ
ヴィクトリアのカエルまで雨でぬらす
子供二人を先頭にして
やってくるのだ
春の〔風→34嵐〕!
これがほんとの抒情的なのか?
母のうちなる柱
その毛の描写できない六拍子
森と同化している
集まる鳥の
うわむきに黒い細分化した
蹠のなかの苦悩
結局 妻とはバロック芸術の花飾り
ほとばしることが出来る?
建物の正面へ
再び生きかえるツタの葉が見えるかね!
宗教的なステンドグラスの
永遠保存が可能ならば
まばゆく開け
散り行く量のなかに
大麦の種子
あらかじめ受け入れねばならない
夫が刷画をする
絹を裂く朱塗りの小さな絵
スギの木の向うにある
川をながれながれて行く馬と兵隊の
世界の静かさ
女中が一人帰ってくる

――――――――――

《静かな家》は〈 〉と《 》を引用符号に使用している(山括弧はここでは会話や曲名、強調のためのもので、通常の国文の「 」や『 』に当たる)。本校異ではに倣って〈 〉と《 》に統一したが、にはこれらに加えて< >と≪ ≫が混在していて、数も多い(なお< >と≪ ≫は「かっこ」でWP変換されるが、本来、縦組用の約物ではない)。2種類の約物が存在する事態を「意図的な使いわけ」とする根拠は見あたらない、「校正上の不統一」としたのがの立場だろう。このような混乱はの約物を引き継いだ結果とも考えられるので、を引きくらべてみると、〈やさしい放火魔〉以外のすべての場合では等しい、つまり〈 〉も《 》も、< >も≪ ≫も、初出形と詩集掲載形が同じだったのである。校異の本文にこれらを加えると煩雑きわまりないので、以下に山括弧/ギュメが登場する詩句だけを抜き出して、の異同を照合して掲げる。

劇のためのト書の試み(E・1)
妹〔12≪→《〕わたしは飢えているわ〔12≫→》〕
兄〔12≪→《〕何があったのだろう この窓の外で
  〔……〕
  ぼくたちの罪じゃない〔12≫→》〕
兄〔12≪→《〕とにかくぬれないところ どこがあるだろう〔12≫→》〕

馬・春の絵(E・5)
《人間の幸福は各個人の生得のもの》

やさしい放火魔(E・9)
《→≪→《〕外出のときは 雨具をおわすれなく〔》→≫→》〕
  〔《→≪→《〕外出のときは 雨具をおわすれなく〔》→≫→》〕

春のオーロラ(E・10)
公害地帯の音楽は〔12≪→《〕マヘリアの祈り〔12≫→》〕
12≪→《〕柳よ泣いて〔12≫→》〕を歌いながら

スープはさめる(E・11)
12<→〈〕肉にかこまれた星〔12>→〉〕

内的な恋唄(E・12)
12≪→《〕そこにはたくさんの女がいる〔12≫→》〕

孤独なオートバイ(E・14)
〈くださいアスピリンを二錠〉

静かな家(E・16)
それぞれの夫の〔12≪→《〕ここに砂漠は始まる〔12≫→》〕

このことが指し示すのは、《吉岡実詩集》所収の《静かな家》の入稿用原稿は陽子夫人が筆写したものではなく、初出雑誌に掲載された印刷物だったのではないか、という疑いである。浄書稿であれば、〈 〉と< >、《 》と≪ ≫の混ざった組版があがっても、校正時に統一しやすい。これに対して、印刷物が入稿用原稿だと、意識的に使用活字を指定しないかぎり、先行する組版に引きずられて同じ約物を再現することになりがちである。山括弧とギュメの混植という組版上の些細な綻びが、逆説的に詩集入稿用浄書原稿が存在しなかったことを証明したといえようか。

吉岡実は次に引く〈三つの想い出の詩〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日)で《静かな家》に言及している(同書には《静かな家》から〈聖母頌〉1篇を収録)。吉岡は同文で〈静かな家〉を全行引用したあと、こう続ける。

 この詩篇は、一種の副産物のようなものだった。「沼・秋の絵」はすでに出来、その夜は、「修正と省略」に没頭していた。深夜一時ごろ、遂に完成した。ほっとし、茶でも淹れて貰おうと、隣りの部屋を覗くと、妻の姿が見えない。何時、何処へ行ったのだろうか。今までにないことなので、不安にかられた。私は所在ないまま、原稿用紙に向っていた。いやむしろ心を鎮め、気をまぎらわすべく、自動記述の方法で詩を書きはじめたようなものだった。
 それから、一時間ほどして、妻が帰って来た。丁度その時、私の詩も、「女中が一人帰ってくる」の一行で、成立しているのだ。「まあッ失礼ね、(女中が一人帰ってくる)なんて」、妻は照れかくしに、怒って見せた。気晴しに、渋谷まで足を伸ばし、街を歩いてきたとのこと。また、詩作に熱中している私の姿が、しばしば、部屋いっぱいに拡がり、とても側に居られないとも、言うのだった。「静かな家」は、私の作品の中でも、短時間で成立した異例の詩篇である。昭和四十三年の夏、ほかに十五篇の詩を収め、詩集『静かな家』は刊行された。(同書、二〇六ページ)

〈静かな家〉が詩集のタイトルポエムとなったことからは、「自動記述の方法で詩を書」く方向、つまり《僧侶》(1958)の対極を行こうとする意思が読みとれる。一方、詩型の面に目を転じれば、散文詩型の詩篇は《僧侶》では19篇中9篇(吉岡の詩集中最多)だったが、《静かな家》では16篇中ただ1篇である。高橋睦郎が前掲書の〈鑑賞〉で指摘しているように、《紡錘形》(1962)から《神秘的な時代の詩》(1974)までが「文体・発想法」の「過渡期十数年」(同前、四九ページ)なら、それは同時に散文詩型作品が減っていく過程でもあった(散文詩型の詩篇は《神秘的な時代の詩》でついになくなる)。吉岡が散文詩型を出て再びそこに戻ったとき、独身者の夢想を封じこめたこの矩形の箱に対する想いは消えていた。《サフラン摘み》(1976)に純然たる散文詩型作品はないが、〈タコ〉(G・2)三幅対の中央部分や〈ルイス・キャロルを探す方法〉(G・11)の〔少女伝説〕(とりわけK)、〈フォーサイド家の猫〉(G・17)の4節めなどにその高度な運用が見られる。1981年以降は、いわゆる《薬玉》詩型の階段状の行分け詩が中心となり、散文詩型の作品は吉岡実詩の表舞台から消える。《静かな家》を「初期吉岡実詩」の終焉と見る所以である。

〔付記〕
《土方巽頌》の〈日記〉1968年8月31日には笠井叡の舞踏を観たあと、寿司屋での小宴の席に思潮社から詩集《静かな家》の見本が届いたことが、同じく9月28日には大野一雄・土方巽・高井富子の舞踏を観たあと、日本料理店で親しい人たちに《静かな家》を配ったことが書かれている。実際に《静かな家》ができたのは、奥付の発行日(1968年7月23日)よりも1箇月以上後だったようだ。


吉岡実と《現代詩手帖》(小林一郎、2009年10月31日)

思潮社発行の月刊誌《現代詩手帖》は今年2009年、創刊50周年を迎え、6月には記念の特集号も編まれた。吉岡実が詩篇や散文を寄せた雑誌は数数あるが、同誌はおそらく最多掲載回数を誇る。詩集《静物》(私家版、1955)を書きおろした吉岡は、《新詩集》《今日》《季節》といった既存の同人誌に参加するいっぽう(前二誌は同人だったが《季節》は作品を寄せただけか)、《ユリイカ》《詩学》《現代詩》などの総合詩誌にも精力的に詩篇を発表し、それらをまとめたのが詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)である。1959年6月発行の《現代詩手帖》創刊号(版元は世代社)発表の詩篇とそれに付した散文以降、歿する前年1989年3月の鍵谷幸信への弔辞まで、吉岡が同誌に発表した詩篇・散文、アンケート、インタビュー・対談・座談会を初出の発表順に掲げる。

1959(昭和34)年
6月 遅い恋(未刊詩篇・7)、詩人のノオト(未刊)
11月 体の弱つた妻と心の弱つた僕と(未刊)

1961(昭和36)年
2月 アンケート「六一年度に期待する新人」(未刊)

1964(昭和39)年
4月 滞在(E・7)

1965(昭和40)年
3月 桃――或はヴィクトリー(E・8)

1966(昭年41)年
4月 静かな家(E・16)

1967(昭和42)年
2月 恋する絵(E・15)
10月〈特集・吉岡実の世界〉 立体(F・3)、模糊とした世界へ〔入沢康夫との対談〕(未刊)
12月 飯島耕一「見えるもの」・他(未刊)

1968(昭和43)年
4月 白石かずこ詩集▽白石かずこの詩(《「死児」という絵》)
11月 雨(F・9)

1969(昭和44)年
10月 わが馬ニコルスの思い出(F・16)

1972(昭和47)年
6月 ルイス・キャロルを探す方法――〔わがアリスへの接近〕〔少女伝説〕(G・11)〔《別冊現代詩手帖 ルイス・キャロル――アリスの不思議な国あるいはノンセンスの迷宮》〕

1973(昭和48)年
7月 サフラン摘み(G・1)

1974(昭和49)年
4月 草上の晩餐(G・13)
10月〔臨時増刊号〕 舵手の書(G・22)

1975(昭和50)年
1月 サイレント・あるいは鮭(G・25)
5月 思想なき時代の詩人〔飯島耕一・岡田隆彦・佐々木幹郎との座談会〕(未刊)
9月 新しい詩への目覚め――北園克衞『圓錐詩集』(《「死児」という絵》)

1976(昭和51)年
8月 楽園(H・1)

1977(昭和52)年
2月 挨拶〔高見順賞受賞〕(未刊)
5月 「想像力は死んだ 想像せよ」(《「死児」という絵》)

1978(昭和53)年
3月 吉岡実氏にテレビをめぐる15の質問〔インタビュー〕(未刊)
4月 形は不安の鋭角を持ち……(H・11)
9月 わが処女詩集『液体』(《「死児」という絵》)

1979(昭和54)年
2月 感想〔第九回高見順賞発表〕(未刊)

1980(昭和55)年
2月 感想〔第十回高見順賞発表〕(未刊)
10月〈特集・吉岡実〉 うまやはし日記▽昭和十三年(一九三八)、昭和十四年(一九三九)(《「死児」という絵〔増補版〕》、《うまやはし日記》)、一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〔金井美恵子との対談〕(未刊)

1981(昭和56)年
2月 感想〔第十一回高見順賞発表〕(未刊)
5月 藤と菖蒲(《「死児」という絵〔増補版〕》)
9月 竪の声(J・2)

1982(昭和57)年
7月 比類ない詩的存在〔大岡信・那珂太郎・入沢康夫・鍵谷幸信との西脇順三郎追悼座談会〕(未刊)

1983(昭和58)年
1月 春思賦(J・11)

1984(昭和59)年
6月 白狐(未刊詩篇・15)

1985(昭和60)年
1月 言語と始源〔オクタビオ・パス・大岡信・渋沢孝輔・吉増剛造との座談会〕(未刊)

1986(昭和61)年
2月 風神のごとく――弔辞(《土方巽頌》)
8月 叙景(K・11)

1987(昭和62)年
9月 休息(未刊詩篇・17)

1989(昭和64/平成元)年
3月 「善人」だったあなたへ(未刊)

上掲の初出作品の特徴を述べれば「詩篇の60年代」―「随想の70年代」―「対談・座談会の80年代」となろうか。初出のほかにも、他媒体発表の詩篇が毎年恒例のように年末の〈現代詩年鑑〉に再録されたし、吉岡の人物と作品に言及した文章も生前だけで80篇近く掲載されていて、吉岡実と《現代詩手帖》の縁は浅からぬものがある。そうしたなかで、1967年の全詩集的な《吉岡実詩集》と80年の初の随想集《「死児」という絵》(いずれも思潮社刊)に合わせた特集号の存在は特筆される。これらの書籍や雑誌特集号の総括的なありかたは、青土社の《ユリイカ》吉岡実特集号(1973年9月)が《サフラン摘み》(青土社、1976)を用意したのとは対照的で、興味深い。

《現代詩手帖》1967年10月号 《現代詩手帖》1980年10月号
《現代詩手帖》1967年10月号(左)と同・1980年10月号(右)

《現代詩手帖》は創刊(吉岡実が詩壇で頭角を表わしてきた時期に等しい)以来、吉岡の歿後も伴走した唯一にして無二の詩誌である(そこにこの半世紀間、同誌と思潮社を担いつづけた小田久郎氏と歴代の編集者の多大な貢献があったことはいうまでもない)。ちなみに《現代詩手帖》(《別冊現代詩手帖》を含む)に初出の吉岡実詩は20篇を数え、《ユリイカ》〔青土社〕の19篇をからくも抑えてトップであり、全詩篇284篇の7%に相当する。だが私は詩の数ではなく、中期吉岡実詩を代表する〈サフラン摘み〉一篇を掲載した詩誌として、《現代詩手帖》を永く記憶するだろう。

〔追記〕
《ユリイカ》〔青土社〕に初出の吉岡実詩19篇は以下のとおり。休筆明けの1970年代の作品は凄まじいとしか言いようがなく、《サフラン摘み》が青土社から出たのも頷ける。

1969(昭和44)年
8月 夏の家(F・13)

1972(昭和47)年
4月 葉(G・4)
11月〔臨時増刊号〕 タコ(G・2)

1973(昭和48)年
1月 マダム・レインの子供(G・5)
9月〈特集・吉岡実〉 田園(G・14)
11月 フォーサイド家の猫(G・17)

1974(昭和49)年
12月〔臨時増刊号〕 ゾンネンシュターンの船(G・24)

1975(昭和50)年
9月 示影針(グノーモン)(G・27)
12月〔臨時増刊号〕 あまがつ頌(G・30)

1976(昭和51)年
11月〔臨時増刊号〕 曙(H・8)

1978(昭和53)年
7月 蝉(H・3)

1979(昭和54)年
7月 詠歌(H・23)
11月〔臨時増刊号〕 円筒の内側(H・28)

1981(昭和56)年
11月〔臨時増刊号〕 巡礼(J・7)

1982(昭和57)年
7月 哀歌(J・13)
12月〔臨時増刊号〕 秋思賦(J・8)

1984(昭和59)年
12月〔臨時増刊号〕 聖童子譚(K・4)

1986(昭和61)年
12月〔臨時増刊号〕 産霊(むすび)(K・1)

1988(昭和63)年
6月〔臨時増刊号〕 銀鮫(キメラ・ファンタスマ)(K・17)

ちなみに《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕に掲載された吉岡実詩は〈僧侶〉(C・8、1957年4月)、〈死児〉(C・19、1958年7月)、〈呪婚歌〉(D・9、1959年10月)、〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10、1960年6月)、〈衣鉢〉(D・16、1961年1月)の5篇で、奇しくも毎年1篇ずつ発表されている。「雑誌〈ユリイカ〉通巻五十三号のうち、私は五篇の詩を発表している。これは多いとは言えないが、また少ないとも言えない」(〈「死児」という絵〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六九ページ)。


吉岡実〈〔自筆〕年譜〉のこと(小林一郎、2009年9月30日〔2009年10月31日追記〕)

吉岡実が《薬玉》刊行時(1983年10月)に脱稿した〈〔自筆〕年譜〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984年1月20日)について、私はかつて次のように書いた。
「〈年譜〉は唯一、吉岡実自筆の年譜。〈吉岡実詳細年譜〉(《ユリイカ》1973年9月号〈特集=吉岡実〉)を基本にしつつ、加えられた鑑賞記録が充実している。400字詰原稿用紙換算で約22枚。1984年1月31日付東京新聞夕刊の〈大波小波〉は「難解詩人はけっこう凡人でもあって、よろしい。この年譜、歯医者に通うことまで書いてあって、それが詩とどんな関係がある? といいたくなるが、やっぱりシュールな関係があるのであろう。/現代詩がひところの人気を取り戻すために、吉岡実なんかが歯医者通いまで含めた自伝小説を書くことを希望しておこう」(薬玉〈シュールな関係〉)と評した。「歯医者通いまで含めた自伝小説」は書かれなかったが、のちの《土方巽頌》はこの評を意識しているか」(〈吉岡実の年譜〉、前後のつながりを考慮して一部改変した)。
吉岡の詩篇を陽子夫人が浄書することは広く知られるところだが、散文に関しては夫人が原稿に目を通すことはあっても、清書することはなかったようだ。ちなみに《風景》1974年3月号に掲載されたまま単行本に未収録の随想〈父の面影――さがしもの〉の原稿は、吉岡の自筆で市販のコクヨ製200字詰め用紙2枚にわたって21行の本文が書かれている。

〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完)〔モノクロコピー〕
〈父の面影――さがしもの〉(《風景》1974年3月号掲載)の吉岡実自筆原稿(2枚完)〔モノクロコピー〕

〈〔自筆〕年譜〉は、吉岡自身の随想や日記をソースに執筆したものと思われる。逆にその記述をもとに随想化して発表したのが、次に引く〈昭和四十二年〉の後半の記載を展開した〈遠い『記憶の絵』――森茉莉の想い出〉(初出:《鷹》1988年2月号)である。〈〔自筆〕年譜〉は《土方巽頌》以前では最長の文章(書きおろし)だったためか、いくつかの誤記・誤植を残すこととなった。以下に、固有名詞を中心に問題箇所を校訂する形で「誤字や本人の勘違い」(陽子夫人)を掲げるが、旧字を新字で表わした『文学界』などは指摘しなかった(本サイトでは《文學界》や《文藝》と表記)。

 昭和十二年 一九三七年 十八歳
知人斎藤清(版画家)宅で見たピカソの詩(おそらく瀧口修造訳で『み〔ず→づ〕ゑ』に掲載された「詩を書くピカソ」)に啓示を受ける。

 昭和十四年 一九三九年 二十歳
仕事に疑問をもち、南山堂を退社。夢香洲書塾(佐藤宅)へ仮寓し、子供たちに習字を教える。〔これは前年、昭和十三(一九三八)年のことである〕

 昭和三十四年 一九五九年 四十歳
書肆ユリイカの「今日の詩人〔叢→双〕書」の一冊として、『吉岡実詩集』を刊行。

 昭和四十二年 一九六七年 四十八歳
夏、神田の喫茶店白門で、金井美恵子と初めて会う。十九歳、太宰賞候補になり来社。〔夏、→(トル)〕世田谷代沢の喫茶店邪宗門で、森茉莉と会い、自伝『記憶の絵』出版の相談をする。

 昭和四十八年 一九七三年 五十四歳
秋、『ユリイカ』で「吉岡実」特集号刊行。父母の三十三回忌の法事を、巣鴨真性寺でいとなむ。〔秋、→(トル)〕筑摩書房の創立者、古田晁急逝。〔……〕〔師走→夏〕、『魚藍』復刻版を深夜叢書より刊行。

 昭和四十九年 一九七四年 五十五歳
秋、山形県鶴岡市番田へ行く。「北方舞踏派」結成公演「塩首」を観る。東京の暗黒舞踏派が参加する。羽黒山を松山俊太郎と参詣する。〔これは翌年、昭和五十(一九七五)年「秋」のことである。《土方巽頌》の〈50 「塩首」〉を参照のこと〕

 昭和五十一年 一九七六年 五十七歳
春、英訳詩抄『ライラック・ガーデン』(佐藤紘彰訳編)シカゴレヴュー〔(ナシ)→プレス〕より刊行される。

 昭和五十六年 一九八一年 六十二歳
詩「巡礼」を『ユリイカ』〔別冊→臨時増刊〕(現代詩の実験)に発表。

 昭和五十七年 一九八二年 六十三歳
〔詩→散文〕「西脇順三郎アラベスク(追悼)」を『新潮』八月号に発表。

 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳
澁澤〔瀧→龍〕彦、三好豊一郎、種村季弘、池田満寿夫、鶴岡善久のいずれも夫人同伴。〔……〕草月会館の「〔龍→瀧〕口修造を偲ぶ会」で、中西夏之、池田龍雄、東野芳明、加納光於、巌谷国士らと談笑する。

〔付記〕
吉岡実の公刊日記と〈〔自筆〕年譜〉が同じ内容を扱っている例を、一組だけ挙げる。

昭和二十三年〕二月二十九日 姉に弁当を貰って芝の行本晋介のところへゆき、一緒に浅草へ出る。ロック座で全裸にちかいメリー松原をみて驚嘆、おおバタフライ。シュークリームとココア。弁当分けて食う。(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一〇ページ)

友人と浅草へ行き、ロック座で全裸にちかいメリー松原の踊りを見て驚嘆する。(〈昭和二十三年 一九四八年 二十九歳〉)

吉岡は〈郁乎断章〉(初出:《俳句研究》1983年7月号)でジプシー・ローズ(1934-67)に触れて「メリー松原、吾妻京子、キティ福田などの魅力あるストリッパーたちのうちでも、ジプシー・ローズは日本人離れのした肢体と、官能美をそなえていた。まだ秘処にバタフライを付けている懐しい時代。私は浅草の小さな劇場[こや]で、はじめてジプシー・ローズの踊りとその白い裸身をまぶしく、仰ぎ見たものだった。客演していた田谷力三の熱唱が終ると、同行した年長の知人がつかつかと舞台へ近寄り、花束を捧げたので、私はあっけにとられた。それからしばらく後、知人は自殺してしまった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三二九ページ)と書いている。これなど日記の記述をもとに膨らませたものに違いない。この「年長の知人」は「行本晋介」――〈〔自筆〕年譜〉では「友人」――とどういう関係なのだろうか。〈断片・日記抄〉の〈〔昭和二十二年〕十月二十五日〉には「「開拓新聞」の校正は七時までかかる。クラブ東京の地下室に住む行本晋介をたずねる。丁度夕食の時なので、丼一杯の彼のあやしげな手料理を食う。クラブではダンスをやっているのだろう、音楽が聞えてくる。コロナを吸う、孤独な男たち」(前出、一一〇ページ)と見えるのだが。

〔2009年10月31日追記〕
枝川公一《ふりむけば下町があった》(新潮社、1988年11月15日)を読んでいたら、「東京倶楽部」に関する文章があった(〈映画館「東京倶楽部」はかならず九時終映、の不思議〉)。

 これらの三つの劇場〔東京倶楽部、隣りの常盤[ときわ]座(現在休館)、その隣りの金龍[きんりゆう]館(現在浅草松竹)〕には、二階部分を渡り廊下で結んで、一つの窓口で入場料を払えば、三館の演[だ]し物が見られるシステムがあった。往年の浅草ファンには、「三館共通」として親しまれた。(同書、二五ページ)

これを読んだり、web上の写真を見たりすると、吉岡の「クラブ東京」は東京倶楽部(1913年開業・1991年閉鎖、台東区浅草1丁目にあった洋画専門の映画館。別名、浅草東京クラブ・東京クラブ)という気がしてくるが、残念なことに「地下室」の記述がない。吉岡の日記からは、61年前の土曜の夜、根を詰めた仕事に疲れきって、空腹のまま友人の住む建物(これがふつうの住居でないことは確かだ)を訪ねた独身者の姿が浮かんでくる。


下田八郎の〈吉岡実論〉と〈模写〉の初出(小林一郎、2009年8月31日)

詩人の下田八郎は詩誌《時間と空間》(時間と空間の会)36号(1996年1月)から45号(2000年7月)にかけて、9回にわたって〈吉岡実論〉を連載した(38号は休載)。《時間と空間》46号(2001年1月)の〈追悼・下田八郎氏〉によれば、氏は2000年7月11日に亡くなっており、〈吉岡実論〉はおそらくあと1回で完結の予定だったらしい。この未完の長篇評論(400字詰原稿用紙で約390枚)が、その後書籍としてまとめられた形跡はなく、今日広く知られているとは言いがたい(現に私も、村上精二さんのwebサイトの紹介文で知った)。先日、国立国会図書館所蔵の《時間と空間》を閲覧したので、下田八郎〈吉岡実論〉の概要を報告する。各回の標題を太字で表記(〔 〕内のローマ数字J〜Nは、原文になかったものを小林が補った):見出し、[ ]内に号数と発行年月、掲載ページを並字で、さらに行を改めて、本文中に引用された吉岡実の作品名を小字で掲げた。

吉岡実論〔J〕:歌集 魚藍/詩集 液体 [36号、1996年1月、51-63]

雪(B・14)、俳句「赤トンボ」「石垣の」「歯磨粉」「秋灯や」、短歌「横禿の」「縄とびす」「土葱を」、挽歌(A・1)、牧歌(A・10)、風景(A・19)、液体J(A・26)、液体K(A・27)、午睡(A・28)、短歌「やぶれたる」「唐黍の」「葦枯れし」、苦力(C・13)

吉岡実論〔K〕:詩集「静物」より [37号、1996年7月、70-87]

俳句「微熱ある」「ゆく春や」「黄梅や」「冬の日の」、冬の歌(B・8)、静物(B・1)、静物(B・2)、静物(B・3)、雪(B・14)、卵(B・7)、苦力(C・13)、讃歌(B・11)、静物(B・4)、犬の肖像(B・16)、樹(B・6)、夏の絵(B・9)、過去(B・17)

吉岡実論〔L〕:詩集「僧侶」より [39号、1997年7月、59-73]

僧侶(C・8)、告白(C・2)、聖家族(C・14)、喪服(C・15)、死児(C・19)

吉岡実論〔M〕:〈苦力〉 〈詩集 紡錘形〉 紡錘形(J)(K) [40号、1998年1月、87-100]

苦力(C・13)、喜劇(C・1)、老人頌(D・1)、下痢(D・3)、紡錘形J(D・4)、紡錘形K(D・5)、呪婚歌(D・9)、田舎(D・10)、巫女――あるいは省察(D・14)、首長族の病気(D・11)、冬の休暇(D・12)、修正と省略(D・22)

吉岡実論〔N〕:〈静かな家〉 [41号、1998年7月、71-83]

受難(D・17)、寄港(D・19)、模写――或はクートの絵から(E・4)、馬・春の絵(E・5)、滞在(E・7)、聖母頌(E・6)、桃――或はヴィクトリー(E・8)、やさしい放火魔(E・9)、沼・秋の絵(D・21)、劇のためのト書の試み(E・1)、孤独なオートバイ(E・14)

吉岡実論(O):「神秘的な時代の詩」へ [42号、1999年1月、79-88]

神秘的な時代の詩(F・11)、鎮魂歌(D・15)、受難(D・17)、寄港(D・19)、沼・秋の絵(D・21)、劇のためのト書の試み(E・1)、珈琲(E・3)、内的な恋唄(E・12)、恋する絵(E・15)、色彩の内部(F・4)、少女(F・5)、聖少女(F・10)、崑崙(F・8)

吉岡実論(P):〔見出しナシ〕 [43号、1999年7月、92-99]

低音(F・14)、劇のためのト書の試み(E・1)、わが馬ニコルスの思い出(F・16)、コレラ(F・18)、牧歌(C・7)、青い柱はどこにあるか?――土方巽の秘儀によせて(F・6)、葉(G・4)

吉岡実論(Q):「サフラン摘み」 [44号、2000年1月、101-111]

サフラン摘み(G・1)、織物の三つの端布(H・16)、葉(G・4)

吉岡実論(R):「サフラン摘み」以後 [45号、2000年7月、104-112]

葉(G・4)、タコ(G・2)、マダム・レインの子供(G・5)、わが馬ニコルスの思い出(F・16)、『アリス』狩り(G・12)、舵手の書――瀧口修造氏に(G・22)、示影針(グノーモン)――澁澤龍彦のミクロコスモス(G・27)

吉岡実最初期の俳句・短歌から詩集《サフラン摘み》(1976)すなわち私がいうところの「中期吉岡実」までを時系列で追って、各時期の特徴をとらえるスタイルは、通雅彦の《円環と卵形――吉岡実ノート》(思潮社、1975)や鶴山裕司の《詩人について》(四夷書社、1998)と同じである。まずは穏当な叙述方法といえようが、年譜的な予定調和の展開に足許を掬われる危険もある。下田八郎の吉岡実論はどうだろうか。詩集《静かな家》を論じた〔N〕の一部を引いてみる。

〔……〕詩集『静かな家』は決して平静な詩とは云えない。平常心へ向けての詩である。変形した檻に投げこまれて、詩人は四苦八苦している。

頭の上の尖った骨で光るのは ?
歴史的な楽園が見える ?

 この二行の疑問文は詩人が心の動揺をかくせずにいることを語っている。それは個人に関係なく始められ、個人の死で閉じられる。

わたしは祝祭してやりたいと思う
わたしは現在をさびしい時代だと思う

画家は彼らのために涙を流すと思う

テーブルの向うに山ごと氷る甲虫の卵
わたしはそれらが見えない
真紅な色の持続を望んでいる 〈模写〉

 この何ひとつ心を開こうとしない表現。それらしく見えるのは人間が言葉として存在している時だけである。〈クートの絵から〉という献辞〔ママ〕にある奇怪な魚たち、無残な死体の兵士たち等、どれをとっても、死体は生きものとしてゆさぶりつゞけられている。

死んだ少女の股までの百合の丈/赤粘土層のゆるやかな丘への駈け足/見ること 見えている中心は/不完全な燃焼の/ミルクゼリーと冷たい鉢 〈模写〉

 ここにはひたむきに下方志向へと実生活の根が張りつめている。戦争と背中合せの中世の歴史は、決してお伽話ではなく、現実の物語から死生観を換〔ママ〕起させる。人は死を選ぶのではなく、選ばさせられる。この作品だけでなく、これ以後の傾向として通称〔ママ〕名詞が頻繁に使われ始める。蛸、蟹、大砲、軍艦、ニンジン、キャベツ、蛇、甲虫 等々雑然とした風景である。〔……〕(《時間と空間》第41号、1998年7月、七四〜七五ページ)

これは〈模写――或はクートの絵から〉(初出未詳)を論じた箇所だが、独得の言いまわしで彩られた下田の解釈の当否は問わない。私が注目したいのは、同詩の出典である。〈模写〉に限らず、下田がここまでの本論で引いた吉岡実詩の典拠はおそらく《吉岡実詩集》(思潮社、1967)だが、そこでの本文が「テーブルの向うに山嶽 氷る甲虫の卵」である〈模写〉第45行の詩句が、下田文では「テーブルの向うに山ごと氷る甲虫の卵」となっているのは、初出形を引いたためだろうか。そうは思えない。クレジットのないことにもよるが、〈吉岡実論〉の展開そのものが初出形の登場を許さないのだ。上掲文中の吉岡実詩の引用には、転記ミスと思しいところが6箇所(「頭の上の尖った骨で光るのは ?」「歴史的な楽園が見える ?」、「画家は彼らのために涙をすと思う」、「わたしそれらが見えない」「真紅な色の持続をんでいる」、「ミルクゼリーと冷たい鉢」の下線部)もある。こうした文章を書く際、詩句の一字一句をおろそかにしない姿勢が求められる。細かいことを言うようだが、原文で隣りあっていない詩句を並べた引用は1行空けるべきだし、上掲引用にはない「紡錘形」にいたっては(具体例を挙げるのは控えるが)、正しい表記の方が少ないほどだ。吉岡がこれを見たらなんと思うだろう。いったい著者や編集部はちゃんと校正したのか。

――――

以下では〈模写〉の初出をめぐる最近の状況を述べる。先日、手許の吉岡実研究文献を整理していたところ、天沢退二郎・岡田隆彦・長田弘〔鼎談〕〈合評形式による現代詩人11人論K――吉岡実論〉(《現代詩手帖》1964年2月号)の

長田 抒情ということに関連して補足するが「裸婦」のなかのぼくは画家だから≠ニいう言葉をおもいうかべながら「模写」のなかの
 死んだ少年のむれ そのいたいたしい
 美しいアスパラガス
 画家は彼らのために涙をながすと思う
というところをオーバーラップさせつつ読むとね、吉岡実もかれらのために涙をながすのかなあと思っちゃってね。哀しいんだな。もっと冷酷であってほしいのにね。優しい人はやはりやさしくなってゆくしかないんだろうか。(同誌、三二ページ)

という発言を改めて読んで、長田弘による〈模写〉の引用は初出からだったのではないか、という考えがふいに湧きおこった。詩集《静かな家》(1968)には制作年代として「1962-66」と表示されていて、(1959年3月発表の〈無罪・有罪〉を例外とすれば)確かに1962年9月発表の〈劇のためのト書の試み〉から1967年2月発表(脱稿は1966年末か)の〈恋する絵〉までの、〈模写〉を除く全篇が詩集収録前に雑誌掲載されている。したがって、拙編《吉岡実年譜〔作品篇〕》

一九六七(昭和四二)年 四七〜四八歳 〔……〕/模写――或はクートの絵から(E・4、四七行)初出未詳〔◆この年一〇月までに発表か〕191

と記載した初出年次を(《静かな家》は単行詩集に先駆けて、1967年10月刊の思潮社版《吉岡実詩集》に全篇収録された)、上掲鼎談が行なわれたであろう1963年末を下限とすべく繰りあげることは、詩集の制作年代「1962-66」とも合致してまことに好都合である。だとすれば、初出探索の捷径は《僧侶》(1958)と《紡錘形》(1962)で吉岡実詩を掲載したことがある定期刊行物の1962年から66年までのバックナンバーをしらみつぶしに調べていくことかもしれない。そこでさっそく《詩学》に当たりなおしてみたが、予想していたこととはいえ、空振りだった。ただ、塚本邦雄が〈詩人について〉(1959年7月号)という文章で、左川ちかの詩〈死の髭〉を称揚しているのを初めて読むことができたのは、予期しない収穫だった。

〔付記〕
下田八郎は〈吉岡実論〉連載直前の《時間と空間》35号(1995年7月)に詩〈樹木祭〉を発表している。散文では、31号(1993年7月)に原田道子詩集《新宿・太郎の壕》(螻の会、1992)の書評、32号(1994年1月)に川杉敏夫詩集《芳香族》(詩学社、1993)の長文の書評、34号(1994年12月)に小津安二郎作品についてのエッセイを発表している。同誌の追悼文に依れば、下田には18篇から成る《半島》(下田八郎、1989年8月15日)という250部限定の詩集があるが、〈吉岡実論〉の連載中は詩を発表していないから、この〈樹木祭〉が最後の詩作品かもしれない。追込で引用しよう。

樹木祭|下田八郎

昔から樹木は/互いに/他の生物を追いかけ/追い越さねばならなかった/ああ 血なまぐさい丘をのぼりつめて

そのため/樹木は千年も、より速く出発して/幾世紀をも走りつづけた/更に千年よりはるか遠く/人類の先々に待伏せていた/地上に/         地下に/茨の間に手足を引きずってきた/進歩が澱み/沼地のなかに/何時も敵をつくり続けた/樹海深く/岩奨のクレーターに/けもの達を食い漁り/昆虫の飲ものを奪い

息のと絶えた道/樹海にとり残されて/枯れた腕 記憶の小指に/樹界の鳥たちは喉を焦し/鎮守の祭りは禁足を犯して/鍵のかかった空/蔦にからまれた出足の/果実は沼地に落ち/村境を奪はれ/烏瓜の燃える/空屋に首を晒してきた

千年を足止めされ/これから先の/千年を先取りするため/互いが距離をつめ寄った樹木は/古層時代から/走りつづけ/巨大な爬虫類を追い越し/巨獣を追い抜いた/今、人類を追いかけているのか/亜層世紀に埋まった樹木の/掘り返され、汲み上げられた/油田から/巨大なプラントが火を吹きあげている/埋葬された生の世界/ゴジラが復譬を始めたばかりだ/地球始まって以来の繁栄と貧困/地球始まって以来の格差が/地鳴りを呼んで

終わりから四つめの詩句の「復譬」は「復讐」の誤りだろうが、すべて原文のママである。本篇は吉岡の〈樹〉(B・6)を踏まえたものか。ちなみに下田は〈吉岡実論〔K〕〉で同詩を引用している。


ケッセルの《昼顔》と詩篇〈感傷〉(小林一郎、2009年7月31日)

吉岡実の詩篇〈感傷〉(C・18)は詩集《僧侶》(1958)にあって異色の、筋のある物語ふうの作品である。吉岡が金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉で「金井 でも、アリスの詩の時はわたしは嬉しかったな。何て言ったっけ、桃と少女の出てくる詩が土方さんも好きでね。「感傷」という詩ね。/吉岡 あれは意外な人に好かれてるのね。あれは、ジョゼフ・ケッセルの『昼顔』という小説をぼくは戦前から読んでいるからね。映画の影響ではない」(《現代詩手帖》1980年10月号、一一〇ページ)と語っているように、この詩を好む人は多い。土方巽の表明は「いかにも」と思わせるし、天澤退二郎はラジオの吉岡実特集番組で本篇を朗読している。一方、小説の《昼顔》(原著《Belle de Jour》は1929年刊行)は今日、ルイス・ブニュエル監督、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画《昼顔》(1967)の原作として知られるが、むろん映画とは別個の独立した作品である。吉岡が「戦前から読んでいる」のは堀口大學訳の長篇小説《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)に違いない。現在、本書をあまり見ないのは、大久保久雄編〈第一書房刊行図書目録〉が記す「(六月二十九日風俗を害する理由により発売禁止)」(林達夫・福田清人・布川角左衛門編著《第一書房 長谷川巳之吉》、日本エディタースクール出版部、1984、二七九ページ)という措置が影響したものか。ちなみに、国立国会図書館は本書の第一書房版を所蔵していない。

ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の表紙 ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の本扉
ジョセフ・ケッセル(堀口大學訳)《昼顔》(第一書房、1932年6月15日)の表紙(左)と同・本扉(右)

吉岡の《うまやはし日記》(1990)の「昭和十四年(一九三九)」には「五月二十二日/ケッセル『昼顔』。〔……〕」(同書、四二ページ)と見えるが、本書をいつ入手したのだろう。後に茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)を刊行早早の同月18日に入手している吉岡だが、《昼顔》を新刊で発禁前に購入したことは、13歳という当時の吉岡の年齢を考えれば、まずなかっただろう(日記の《昼顔》は、《指揮官夫人と其娘達》のときのように、出征を前に年長の友人から借覧したものか)。それならば、1958年8月8日に吉岡が〈感傷〉を脱稿したとき、第一書房版(もしくは後出の他の版)を手許に置いて詩作しただろうか。その可能性は低いと思う。吉岡が戦災でほとんどの蔵書を失っている点は度外視しても、〈感傷〉は「典拠の詩学」をもとに執筆したにしては生生しすぎる。上掲の対談からも、記憶のなかにある《昼顔》の女主人公の人物像を手掛かりに、想像力の赴くまま創作した様子がうかがえる。ここで《昼顔》の邦訳書をリストにしておこう。

  1. 堀口大學訳(第一書房、1932年6月15日)
  2. 堀口大學訳(八雲書店、1946年10月20日)
  3. 堀口大學訳(新潮社、1951年6月20日)
  4. 堀口大學訳(新潮社〔新潮文庫〕、1952年8月15日)
  5. 堀口大學訳《世界文学全集〔第1期19〕》(河出書房、1954年8月20日)
  6. 桜井成夫訳(角川書店〔角川文庫〕、1954年12月10日)
  7. 山崎剛太郎訳(三笠書房、1971年5月31日〔書誌にある1967年9月刊は未見〕)

3.から6.にかけての版で吉岡が再読していて不思議はないが、戦後の《昼顔》に関する言及がないので、詳しいことはわからない。ここで、1.の本邦初訳から詩篇〈感傷〉との対応がうかがえる〈プロロオグ〉を全文引用する。訳書でわずか2ページと短いながらも、《昼顔》のライトモチーフとして不可欠な一節である。それに続けて〈感傷〉冒頭の1を追込で掲げる。

 その頃八歳[やつつ]になつたセヴリィヌは、自分の室から母の室へ行くのに、長い廊下を通らなければならなかつた。彼女はこの途中を退屈がつて、何時も駈けて通ることにしてゐた。或る朝彼女は、廊下の中ほどまで来て、立ち止まつた。廊下のそこの所に、浴室へ通ずる戸口があつて、それが丁度開[あ]いたところだつた。一人の鉛管工が中から出て来た。身丈[せい]の低い、厚ぼつたい男だつた。彼の目なざしが、まばらな睫[まつげ]の間を洩れて、小娘のうへに注がれた。不断はもの怖[おぢ]しないセヴリイヌが、この時は怖れをなして、あとずさりした。
 この身振が男を決心させた。彼は素早くあたりを見廻して、さて、両手でセヴリィヌを抱き寄せた。彼女は身近[みぢか]に、瓦斯と精力の匂ひを感じた。髭[ひげ]の生えた二つの唇が彼女の首すぢを焼いた。彼女は抵抗した。
 職工は黙りこくつて肉感的に笑つて居た。彼の両手は着物の下で、やはらかい彼女の肉体を撫で廻した。急にセヴリィヌが抵抗しなくなつた。彼女は硬直して、まつ蒼になつた。男は彼女を床板にねかして、そのまま音も立てずに去[い]つてしまつた。
 家庭教師[ガヴアネス]が、倒れてゐるセヴリィヌを見つけた。家人は、彼女が滑つて転んだものと思つた。彼女もさう信じた。(同書、五〜六ページ)

鎧戸をおろす/ぼくには常人の習慣がない/精神まで鉄の板が囲いにくる/街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する/箱のなかに匿れた一人の男/便器にまたがるぼくをあざわらう/桃をたべる少女はうしろむき/帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む/少女の桃を水道で洗わせず/狭い蜜のみなもとを涸していったから/幼い袋の時代/大人の女の汗の夏を知らぬ/少女もいつかは駈けこむだろう/ぼくの箱の家/正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう/それまで休業だ/屋根から寝台まで縞馬を走らせ/ペンキを塗り廻る/すでに伽藍の暗さ

《昼顔》と類似の詩句は以下の節にはみられない。ここで想起するのは〈断片・日記抄〉《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)の「〔昭和二十三年〕三月三十日 知代ちゃんがきていた。昨夜、兄と一緒に妙義からきたのだ。私の書かれざる小説《或は桃の葉》の幼い少女もすっかり大きくなり、私より一寸も高い。女学校のバレーの選手」(同書、一一一ページ)という記述である。「桃の葉」としての幼女が《昼顔》の女主人公と交叉したとき、〈感傷〉の小説的世界が胚胎した、と思えてならない。さらに注目すべきは、吉岡がこの詩を書きおろしつつあったとき、実姉の米本政子が入院して8月29日に他界している点である(吉岡はかつて姉の幸薄き生涯を予見したかのように「雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく/女のたもとのながきもあはれや」と詠った)。1958(昭和33)年のその間の日記を、作品の執筆に触れた部分とともに引く(同前、一一七〜一一九ページ)。

昭和三十三年〕六月十三日 姉が病気との連絡、ビワ三百円一箱もって見舞にゆく。三年ぶりか。姉が衰弱しているのに驚く。セキズイカリエスらしい。
六月十五日 ユリイカ七月号出来。長篇詩〈死児〉掲載。失敗作かも知れぬが、独自な問題作と自負する。みずからを祝す。
七月二十八日 姉、雑司ケ谷の東大分院に入院。
八月五日 東大分院へ姉を見舞う。家とは雲泥の差、きれいなベッドにねていた。夫いまだ現われぬとのこと。
八月七日 朝から濃縮ジュースをもって姉の見舞。廊下はたくさんの患者と付添人たち。一種異様な臭がある。
八月八日 〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成。〔……〕

私は40歳の年に母を喪った。後半生は病とともにあった生涯だったが、入院して2週間ほどでの死は私にとっては「急逝」であり、日に日に衰弱していくさまを見るのは堪えがたかった。私は病室に母を見舞ってから帰宅すると、同人雑誌に準備中の文章をひたすら書きつづけた。そのときの自分の心理から推し量るのだが、吉岡実は〈感傷〉を書くことで姉の延命、さらにはその再起を祈念していたのではなかったか(吉岡は父母の死の知らせを戦地で受けとっている)。病床でひとり戦う者と密かに共闘するための秘儀としての執筆。いまのこの仕事をやりとげることができれば、病人は必ず復活する。そのとき、書く者の脳漿はふだんにも増して沸騰する。結果、その意識と無意識を総動員した他に類を見ない作品が出現する。それがこの、《僧侶》で最後に完成をみた詩篇の来歴である。書きおろしの詩篇〈感傷〉は6節99行から成り、詩集の最後から2番めに置かれた。作品の舞台設定は〈僧侶〉(C・8)や〈死児〉(C・19)に較べると世俗的である。そのため、「ぼく」は吉岡であると読もうとすれば、できなくはない。事実、独身時代の「奇妙な恋愛遊戯」(〈〔自筆〕年譜〉、《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三一ページ)を材料にしているふしさえある。だが実際のところ、その内側はどうなのだろう(先に引いた1からもわかるように、吉岡は本篇では主語を省略するなどして、意図的に動作の主体を曖昧にしているため、人物関係がわかりにくい)。ここではそれを探るための方策として、本篇を散文にしてみる。吉岡実詩を要約するというのも奇妙なものだが、物語的な展開の追跡ということでお許しいただきたい。

2 睡蓮の咲く夏、少女は変化している。花冠から袋に黒い汁を移しはじめるとき、ぼくの鼻毛の茂みを鳥がとおりぬける。棚の罎は痒走感におののきだす。ぼくはいかなる変化、交換を待っているのか。
3 喪服にいつわられた美しい肢体の女がぼくの寛容な肉情の下に在る。その肩の裏の可憐なそばかすの星雲がぼくの頭を捉える。女は病弱な夫でなければ麻袋をかるがる担ぐ情夫を殺してきたらしい。人でなければ、さんしょううおを。
4 ぼくは被告を裏切る。被告はすべて罰せられるにふさわしい陳述をする。ぼくは法廷につれこまれ、被告として黒服の者たちにとりまかれ、犯罪人の両肩を見せ下獄する。ぼくの弁護人は妻子と両親のために家へ急ぐ。不運な者は針金で養われ、暗い所にいる。
5 女の夫の海港技師は、熔接工を連れて海へ行く。熔接工はかにの形に歩く。夫は岸べで焚火をたく。女は食物をはこんできて泳ぐ。熱い砂の床は人の心を巻貝に変化させ、冷えた魚を跳ねまわらせる。三人の食事は危険だ。海は死んだ男でふさがれる。

6 ぼくは睡蓮の花を再びのぞく/転換が行われず/世界の女を巻く紐のすべてが解かれていない/蛙も挟まれる/花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる/ぼくは自分と不幸な女を救済すべく/女の腿へ手をのべる/喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ/あまつさえ時間がくると滑る/それから先のぼくはまじめな森番だ/くさむらのひなを育てようと決意する/水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く/法律や煤煙のとどかぬ小屋で/卑俗なあらゆる食物から死守され/ぼくだけが攻めている美しい歯の城/その他の美しい武器をうばう/落日は輝くもの/おえつするもの/女の髪の上に滝が懸けられて凍る/ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ/さてぼくは女には大変つくした/罪深い女は去らせよう/ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを/ぼくは久しく待つんだ

さすがに最後の6は要約不能で、追込で原文を引くほかない。「水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く」は注目の詩句だ。大作栄一郎《東京の野鳥》(東京新聞出版局、1981)には、鷭(ツル目クイナ科の水鳥)は東京地方では留鳥または夏鳥で、多摩川・隅田川・荒川沿いの湿地、休耕田ではまだかなりの数が見られるとある。1950年代末にも水辺の草叢でクルルと鳴く「鷭の笑い」が聞かれたはずだ(ひなは生まれてすぐに歩くことができるという)。ところで「ぼく」の職業はなんなのだろう。法律事務所に勤める弁護士見習いか。それが4で「被告」と入れかわる。「ぼく」の登場しない5では、犯罪の背景となった三角関係がほのめかされる。だが6の最初で、4と5のシーンが実際には起こっておらず、須叟のまどろみにおける出来事だったとわかるように書かれている。そのとき3の末尾の2行「人でなければ別のもの/頭の大きなさんしょううおを刺してきたのだ」は、前の詩集《静物》(1955)掉尾の〈過去〉(B・17)に登場する「赤えい」と「その男」の顛末を彷彿させながら、「女」の過去を寓する。昼顔ならぬ「睡蓮の花」――浄土を想起させる――を見ていた「ぼく」は、結局夫を失った(殺害した?)喪服の女との交情を断ち切って、桃の少女(のみならずガス管工夫との間にできたその子も)との結婚を待つのだ。〈感傷〉は《昼顔》のセヴリィヌの物語から遠く隔たった一人の男が、自身の新生を夢想する譚だった。


吉岡実歌集《魚藍》本文校異(小林一郎、2009年6月30日)

本校異では、吉岡実の〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉の短歌・旋頭歌(以下「初出」という)と《魚藍》の短歌・旋頭歌(以下「定稿」という)を比較・校合した結果を簡略に示す(J)。また〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉には、5首を除いて先駆形(歌稿〈歔欷〉)が存在するので、Jの本文校異に続けてKとして先駆形の詞書き・本文を掲げた。ただしKはJとの異同が多いため、校異の形をとらずに併記とした。

凡例
 底本には、初出:詩集《昏睡季節》(草蝉舎、1940年10月10日)、定稿:歌集《魚藍》(私家版、1959年5月9日)、先駆形:稿本詩集《赤鴉》(弧木洞、2002年5月31日)を用いた。《魚藍》は初刊ののちに、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日)、《魚藍〔新装版〕》(深夜叢書社、1973年8月28日)、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日)と三つの本文があるが、本校異では割愛した。
 行頭のアラビア数字は、今回の校異に当たって小林が仮に付した作業用の作品番号である。
 00番の短歌は、定稿では歌集の〈序歌〉であるため、01番の直前(対向ページ)に置かれている。一方、初出では詩集《昏睡季節》全体の〈序歌〉になっており、00番と01番とは〈昏睡季節〉を構成する20の詩篇で隔てられている。
 初出の短歌(01番〜44番)の改行〔「/」で表記〕は定稿ではすべて追込に変更されたが、煩雑になるため本校異では〔/→(追込)〕の表示を省略した。00番および45番・46番の本文は、初出→定稿で改行に異同はない。
 「//」は、詞書きのあとの改行を表わす。
 使用漢字は、初出:旧字、定稿:新字で、本校異では原則として新字に統一したが、定稿でも初出と同じ字体が使用されている場合はそれを採った(01番「鋪」、07番・41番「燈」、13番「灯」、16番「絲」、38番「繩」、45番「籔」など)。

J 歌集《魚藍》本文校異〔〈蜾蠃〔スガル〕鈔〉→《魚藍》〕/K 先駆形(歌稿〈歔欷〉)

00 序歌//あるかなくみ〔づ→つ〕を/な〔が→か〕るるうたかた/のか〔げ→け〕よりあはき/わかきひのゆめ
K 泡影抄//あるかなく水を流るる泡沫の影よりあはき若き日の夢 △

01 ゆきずりの女をしたうてさりかねし/白き鋪道に春もゆくめり
K 街角慕情//ゆきずりの女[ひと]を慕ふて去りかねし白き舗道に春はきにけり △

02 波とどろ岩根黝苔潮たれ/舟虫ひかり夏はきにけり
K 初夏//波とどろ岩根黝苔潮垂れば舟虫ひかり夏はきにけり

03 葉脈に四月の朝の風かをり/犬と女は丘をかけゆく
K 丘//葉脈に四月の朝の風かをり犬と女は丘をかけゆく

04 やぶれたる紙風船は草の中/夕焼小焼/子らかへりゆく
K 野みち//やぶれたる紙風船は草の中/夕焼小焼/子等かへりゆく

05 すみだ川//川上は水もはろけく春がすみ/いつしか鴎もみえずなりけり
K 川上は水もはろけく春がすみいつか鴎も見えずなりけり

06 さみしさは黄なる真昼に/眉をひく娼婦の乳房の/つかれたるいろ
K 敗日//さみしさは黄なる真昼に/眉をひく娼婦の乳房の/つかれたるいろ

07 夜の蛾のめぐる燈りのひとところ/めくりし札はスぺードの女王
K 骨牌占ひ//夜の蛾のめぐる燈りのひとところめくりし札はスペードの女王 △

08 白孔雀しづかにねむる砂の上/バナナの皮の乾きたる午後
K 〔(先駆形ナシ)〕

09 唐黍の毛に夕風のわたる頃/汽車は駅へとカーブしてゆく
K 休日//唐黍の毛に夕風のわたる頃汽車は駅へとカーブしてゆく

10 唇のかたくかわきし/たそがれの青きけむりよ/泣かまほしけれ
K 唇のかたくかわきしたそがれの青きけむりよ泣かまほしけれ

11 薊咲く道ひとすぢに晴れにけり/妙義の山の秋ふかみつつ
K 秋薊//薊咲く道ひとすぢに晴れにけり妙義の山の秋ふかみつつ

12 秋ひらく詩集の余白夜ふかみ/蟻のあしおとふとききにけり
K 秋のおと//秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり △

13 駒形橋暮吟//白鷺の一声啼きてよぎりゆく/薄暮の橋に灯のとぼりたる
K 駒形橋//白鷺の一声すててよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる

14 窓硝子に干物影のあはくゆれ/母咳多く冬となるかも
K 窓硝子に干物影のあはくゆれ母咳多く冬となるかも

15 鳰鳥の夕葛飾の水ほとり/蘆の花ちり雁わた〔りゆく→る見ゆ〕
K 鳰鳥の夕葛飾の水ほとり蘆の花ちり雁わたる見ゆ

16 灰皿に莨のけむりゆらぎをり/金絲雀さへづる春のひととき
K 灰皿に莨のけむりゆらぎをり金糸雀さへづる春のひととき

17 蚕飼ふ家の白壁正午ちかし/矢車の花の影ゆれてゐて
K 春の影//蚕飼ふ家の白壁正午ちかし矢車の花の影ゆれてゐて

18 夕光る鏡の上の/チヨコレートのうすき歯のあと/夏はきたりぬ
K 初夏//夕ひかる鏡の上のチヨコレートのうすき歯のあと夏はきたりぬ △

19 手紙かく少女の睫毛ふるふ夜/壁に金魚の影しづかなり
K 手紙かく少女の睫毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり △

20 ゆ〔(正常)→(右に90度転倒)〕く秋や古き水車のしづくちる/その草の辺を鶺鴒のとぶ
K ゆく秋や古き水車のちるしづくその草の辺を鶺鴒のとぶ

21 旅愁//夜の駅の時計の針のうごくのを/ふとみしあとのあはきかなしみ
K 旅愁//夜の駅の時計の針のうごくのをふとみしあとのあはきかなしみ

22 雪風や/女あんまの笛とほく/聞える夜半を炭つぎにけり
K あんま笛//雪風や女按摩の笛遠く聞える夜半の炭つぎにけり

23 厨川//霜柱ひきくだきつつ馬車きゆる/駅の裏道北斗かたむく
K 北国//霜柱ひきくだきつつ馬車きゆる駅の裏道に北斗かたむく

24 飾窓の朝の硝子に秋の蚊の/顫えさみしく雨ふりそめ〔な→ぬ〕
K 〔(先駆形ナシ)〕

25 〔(ナシ)→姉に//〕雨の夜をみしらぬ家にとつぎゆく/女のたもとのながきもあはれや
K 〔(先駆形ナシ)〕

26 軽井沢//夏野ゆく金髪少女の横顔を/かすめる影あり落ち葉なりけり
K 軽井沢//夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり △

27 秋たけて/〔(2字アキ)→(トルツメ)〕林檎の香り歯にしみる/〔(4字アキ)→(トルツメ)〕うすきいたみも/〔(1字アキ)→(トルツメ)〕恋知りそめて
K 初恋//秋闌けて/  りんごの香り歯にしみる/     薄きいたみも/ 恋知りそめて △

28 葦枯れし入江に/泊り襁褓干す船の夕餉の/煙しづけし
K 葛飾//葦枯れし入江に泊り襁褓干す舟の夕餉の煙しづけし

29 黒猫のかげひきよぎる宵の町/犯人は手錠はめられてゆく
K 夜のパントマイム//黒猫の影ひきよぎる宵の町犯人は手錠をはめられてゆく

30 窓に凭り指で硝子に字などかく/昼の春雨ひとの恋しき
K 春雨//窓に凭り/指で硝子に字などかく/昼の春雨/人の恋しき △

31 上野広小路//夜の街を素足の女がもとめゆく/おもかげ皿絵もなつかしき初夏
K 〔(先駆形ナシ)〕

32 六角の鉛筆の影夜ふけて/馬追虫めぐり秋となりぬる
K 初秋//六角の鉛筆の影夜ふけて馬追虫めぐり秋となりぬる △

33 土葱を抱へもどれる母親に/まつはる子らや夕枇杷の花
K 土葱を抱へもどれる母親にまつはる子らや夕枇杷の花

34 爪をかむうつろごころのひねもすを/障子あかるく蠅のとびゐし
K 春の雪//爪をかむうつろごころのひねもすを障子あかるく蠅のとびゐし

35 蝸牛の触角ぬめぬめと草にのび/裏山畑の雨は霽れたり
K 蝸牛の触角やはらかく草にのび裏山畑の雨は晴れたり

36 横禿の男が笊で売りあるく/青き蜜柑に日の暮れそめぬ
K 〔(先駆形ナシ)〕

37 人妻の乳首の紅のにごりゆく/夜のさみだれの寝ぐるしさかな
K さみだれ//人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝苦しさかな

38 繩とびす少女の腕あせばみて/青く血脈〔(ナシ)→の〕ふくるる朝なり
K 夏の庭//縄とびす少女の腕あせばみて青く血脈ふくるる朝なり

39 水辺愁吟//みつみれはなせか/うれひのひえひえ/とこころなかるる/あきのゆふくれ
K 秋のみづ(水愁口吟)//水みればなぜか愁ひの冷え冷えと心ながるる秋の夕ぐれ

40 朝曇り/川空ひく〔ゝ→く〕鳶啼き/広告気球は街に昇れる
K 都//朝曇り川空低く鳶啼きアドバルーンは街に昇れり

41 繊き雨けむる窓べに燈をともし/花ちかく女は手套をぬぐ
K 青い絹手袋//繊き雨けむる窓べに燈をともし花ちかく女は手套をぬぐ

42 青バスの女車掌の/ひらめけるスカートの影に/夏ちかき街
K 青バスの女車掌のひらめけるスカートの影に夏ちかき街

43 姪〔(全角アキ)→(トルツメ)〕葉子生れし日に//木々の芽の青みふくらむ公園の/砂場の砂に雨しづかなり
K 錦糸公園//樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり △

44 M夫人に//人妻の頬のほてりもかなしけれ/花はくづほれ夕雷とほし
K 春雷//人妻の頬のほてりもかなしけれ花はくづほれ夕雷とほし

45 〔妙義山 (旋頭歌二首)→旋頭歌二首/妙義山〕//籔ふかく里の子らは筍さがすらむ/花桐に暮るる深山の鶯のこゑ
K めうぎやま//藪ふかく里の子らは筍さがすらむ花桐に暮るる深山の鶯のこゑ

46 瀬のちかき籬に蝶のねむる春日や/ほのぼのと新茶いる香のたちそめにけり
K 緑金沙(貝鐘抄)――(旋頭歌)///瀬のちかき籬に蝶のねむる春日やほのぼのと新茶いる香のたちそめにけり

L 《うまやはし日記》掲載形

K先駆形(歌稿〈歔欷〉)で△印を付けた11首(作品番号00・01・07・12・18・19・26・27・30・32・43)は、表記が微妙に異なる場合もあるが、《うまやはし日記》(書肆山田、1990年4月15日)に登場する。以下に同書の本文を引き、△印に続けて掲載ノンブルを、( )内に日記の年月日を略記する。先の初出・定稿および先駆形と《うまやはし日記》掲載形を比較検討すれば、日記と歌稿の間、歌稿と詩集と歌集の間にあって、作品がどのように生成していったかをたどることができるだろう。

43 樹々の芽の青みふくらむ公園の砂場の砂に雨しづかなり(姪葉子生れし日に) △22(1939・3・25)

30 窓に凭り指で硝子に字などかく昼の春雨ひとの恋しき △29(1939・4・22)

18 夕光る鏡の上のチョコレートのうすき歯のあと夏はきたりぬ △40(1939・5・15)

01 ゆきずりの女をしたうてさりかねし白き舗道に春もゆくめり △62(1939・7・29)

32 六角の鉛筆のかげ夜ふけて馬追虫めぐり秋となりめる △71(1939・9・4)

00 あるかなく水を流るる泡沫の影よりあはき若き日の夢 △72(1939・9・4)

26 夏野ゆく金髪少女の横顔をかすめる影あり落ち葉なりけり(軽井沢) △72(1939・9・7)

27 秋闌けて/  林檎の香り歯にしみる/    薄きいたみも/ 恋知りそめて △73(1939・9・10)

12 秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり △77(1939・9・28)

19 手紙かく少女のまつ毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり △92(1939・11・24)

07 夜の蛾のめぐる燈りのひとところめくりし札はスペードの女王 △96(1939・12・7)

〈吉岡実の短歌〉で述べたように、1938年から40年の初めにかけて吉岡の作った和歌は、〈歔欷〉の標題のもと、短歌200首・旋頭歌9首の計209首を数える。そこから序歌1・短歌44・旋頭歌2を採った作者の心延えを本校異を通して改めて感じた。なお、00番の〈序歌〉と39番の短歌の手入れに触れた〈《吉岡実全詩集》巻頭作品〉(〈「恋する幽霊」――吉岡実詩集《神秘的な時代の詩》評釈(12)――〈蜜はなぜ黄色なのか?〉〉の〈K 蜜と水〉)も、併せてご覧いただけるとありがたい。


詩篇〈銀幕〉と梅木英治の銅版画(小林一郎、2009年5月31日)

吉岡実の詩には、出典・著者名の表示のない引用句が数多く含まれる。典拠を用いた作詩法の起源は、詩集《紡錘形》(1962)執筆期の〈首長族の病気〉(D・11)や〈波よ永遠に止れ〉(未刊詩篇・10)まで遡ることができるが、今回は最後の詩集となった《ムーンドロップ》(1988)の〈銀幕〉(K・9)で吉岡が引用したスルスを挙げ、併せて詩篇の発表媒体である梅木英治銅版画集《日々の惑星》について考察しよう。まず〈銀幕〉の定稿を掲げる(詩句行頭の数字はライナー)。

銀幕|吉岡実

01             場末の映画館の夏の終り
02 「スクリーンの隅のほうに
03             なにやら
04 鰐らしきものが見えたわ」
05             乳母ガブリエルが叫んだ
06 しかしぼくにはそれが
07           「西瓜を食う水兵」のように見えた
08 「すべての(光)を
09          吸収する(青)」
10                  そんなかわたれ時
11 上衣を脱ぎ
12      裸になる乳母ガブリエルの
13                  「人体のもっとも
14 不可視的な(器官)が紅潮する」
15                そこからぴんぴん
16      (翼)が生えたように
17 ぼくには見えた
18        「透明光線となってほとばしる」
19    (アウラ)
20        「暗い籠のなかに在る
21         マッシュルーム」
22 それを数え それを
23          (布地[テイシユ])ペーパーで包み
24 ぼくは成長してきた
25          葦の葉や浮木の漂う
26 (汚れた岸)から
27         ボートをこぎ出す
28                 ぼくは礼装の一人の男
29 真夜中のみずうみの上で
30            「届く言葉と
31             届かない言葉を」
32 ぼくは識別して
33        不眠の眼を光らせる
34                 (強度の表面)
35 「軽金属と合成樹脂で
36           組み合わされた」
37     (惑星)にも
38           「スクリーンのように
39            無数の傷が付いている」

〈銀幕〉の02〜05行の典拠は、四方田犬彦《映画はもうすぐ百歳になる〔水星文庫〕》(筑摩書房、1986年5月30日)の次の箇所だろう(同書、一九ページ)。

 ルノワールがはじめて映画に触れたのは、一八九七年、乳母ガブリエルに連れられてパリのデュフェイエル百貨店を訪れたときだった。
 「私たちが腰を降すとすぐ、辺りはもう真っ暗になった。怖るべき機械が、暗闇を凄まじくつんざいて流れる一条の光をほとばしらせた。スクリーンの上には、私には何がなんだかさっぱりわからぬ映像が現われる。しかもそれがみんな、一方ではピアノの伴奏と、もう一方では悪魔の機械が発するドンドンという音響を伴っていたのだ。私はお定[さだ]まりの悲鳴をキーッと上げた。(……)その映画は大きな河を写したもので、スクリーンの隅の方には、何やら鰐[わに]らしいものが見えた、とガブリエルは言うのだった」 (西本晃二訳『ジャン・ルノワール自伝』・みすず書房)

四方田氏が引いているのは、ジャン・ルノワール(1894-1979)の自伝(《MA VIE ET MES FILMS》、1974、邦訳は1977)の第2の章〈デュフェイエル百貨店〉の末尾で、そうなると02〜05行の典拠が四方田本ではなくルノワール本だったことも考えられる。上掲引用文で四方田氏が省略した(……)部分を同書で補えば、以下のようになる。

こうなってはもう私を連れ出すより他はなかった。当時このマルタ・クロスのキリッキリッと廻る音が、後になってみれば、この上なく快い音楽となって私の耳に響くであろうなどとは、思ってもみなかった。当時の私には、カメラと映写機にとって必要不可欠なこの部品、これなしには映画そのものだってあり得ないことになってしまうこの部品の重要性はサッパリわからなかったのである。
 というわけで、私の偶像[アイドル]「映画」と私自身との最初の出会いは、完全な失敗に終ったのであった。ガブリエルは、おしまいまでホールにいられなかったのを、しきりに口惜しがっていた。(西本晃二訳《ジャン・ルノワール自伝》、みすず書房、1977年7月5日、一九ページ)

両書を比較するに、吉岡が拠ったのは「乳母ガブリエル」が見える四方田文ととるのが理に適っている。おそらくこういうことだろう。梅木英治銅版画集のために40行の詩を依頼されていた吉岡は、四方田氏から映画をめぐる新刊を贈られ、その思考に身をゆだねて「場末の映画館の夏の終り」という第一行をもつ詩を書いたのだ。史実に照らせば、「乳母ガブリエル」はジャンの生母の従妹ガブリエルで、父オーギュスト・ルノワール(1841-1919)の絵のモデルも務めた、幼少のジャンにとって「あらゆる善き物を秤[はか]る尺度だった」(同前、四二ページ)娘である。だが、〈銀幕〉に父ルノワール晩年の裸婦像を導入することは、「日々の惑星」でDCコミックの《デイリー・プラネット新聞》を想起する理由がない以上に、無用と言うべきだ。13〜14行で吉岡は、ルノワールを含めたあらゆる画家が描くことのできなかった部位を定着した。それは(絵画ではなく)場末の映画館で観られた映画だというのが本篇の基調であり、言うまでもなくその支持体となったのが「銀幕=スクリーン」である。かつて吉岡は《薬玉》(1983)と《サフラン摘み》(1976)で

「雪は犬の伯母」という 江戸諺語がなつかしい
暑い街を 犬が走ることもない 現世の夏

  「夢みられるものの肉化」そのもの
  場末の映画館で
  父は老衰し
  妹は孕み
  「ガルボは鉄の戦車」だとわたしは讃え(〈竪の声〉J・2)

砂漠近くの映画館で
われらは観測する
地上の星・ガルボ!(〈舵手の書〉G・22)

と書いた。吉岡実の全284篇の詩作品で、「映画」「映画館」が登場する7篇中2篇にグレタ・ガルボ(1905-90)が現われるのをどう考えればよいのか。ジャン・ルノワールは、D・W・グリフィス作品のクローズアップは驚異であり、リリアン・ギッシュ、メリー・ピックフォード、グレタ・ガルボのそれは映像として生涯、脳裡に焼きつけられたと語っている(前掲書、五四ページ)。ジャンより25歳年下の吉岡にとって、事情は少しく異なる。クローズアップではなく、裸体としてのガルボ。

 ジョセフ・フォン・スタンバーグの名作「嘆きの天使」で一躍花形になったマレーネ・ディトリッヒは「モロッコ」「間諜X27」で、私たちを魅了し、それから四十五年後の現在までも、多くの人々に愛され、真にスクリーンの女王でありつづけている。それにひきかえ、もう一人の神秘の女王グレタ・ガルボは、あまりよい作品に恵まれなかったのではないだろうか。初期の伝説的映画「喜びなき街」とか「肉体〔の→と〕悪魔」は、どうしても私には見る機会がなかった。わずかに「彩られし女性」「グランド・ホテル」「アンナ・カレニーナ」「椿姫」「クリスチナ女王」ぐらいなもので、私のなかに深い印象をのこしているのは、女間諜を描いた「マタハリ」であった。ディトリッヒの「間諜X27」と対になっているのも面白い。作品としては、「マタハリ」のほうが通俗的であるが、劇中劇の舞台で巨大な仏像の前でマタハリがエキゾチックな祈りの舞いをしながら、最後に一糸まとわぬ姿態になる。その暗転の一瞬の無音。神聖なるカルボの真白い裸体をかいま見たとまどいでハッと息をのんだものである。(〈懐しの映画――幻の二人の女優〉、《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七〜一八ページ)

オリジナルの銅版画集《日々の惑星》(ギャラリープチフォルム、1986年12月3日)は誰でも観られるものではないので、梅木英治幻想画集《最後の楽園》(国書刊行会、1992年9月20日)につけば、〈日々の惑星〉は6ページにわたって11作品が掲載されている。すなわち〈Armour in Space〉、〈時の舟〉、〈惑星〉、〈月光餐〉、〈Recital〉、〈望郷〉、〈旅路〉、〈酩酊〉、〈Fortune Teller〉、〈音楽〉、〈Magic〉である。作品の絵柄は同書で確認いただくとして、〈惑星〉(17.5×22.5 メゾチント 1986)が「「西瓜を食う水兵」」(07行)の、〈望郷〉(17.5×22.5 メゾチント 1986)が「(汚れた岸)から/ボートをこぎ出す/ぼくは礼装の一人の男」(26〜28行)のスルスであることは見やすい。吉岡の詩篇だけを《ムーンドロップ》や《吉岡実全詩集》(1996)で読むときにはわからないが、初出の《日々の惑星》で読めば、これらの詩句が梅木版画への讃であることはまぎれもない。版画と讃とが切りはなされて、讃が讃だけになったとき、吉岡の「典拠を用いた作詩法」は「引用詩」へと姿を変える。このとき、引用は引用符「 」の有無と関係ないばかりか、引用符内の章句が吉岡自身の手になることも充分に考えられる。「吉岡 ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね」(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)。
ときに、01行は吉岡実の詩でただ一篇、字下げを伴った冒頭行である。字下げを@・A・Bのように簡略化すると(〈大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉〉を参照されたい)、02:@、03:A、04:@、05:Aで、01が、他の《薬玉》詩形の第1行がそうであるようには「天つき=字下げなし」では始まらずに、03:Aと並行しているのは、この行があとから挿入されたことをうかがわせる。吉岡は「「夢みられるものの肉化」そのもの」(〈竪の声〉)の鰐を走らせるために、標題〈銀幕〉と「スクリーン」(02行)の間にこの12字下げを伴う「            場末の映画館の夏の終り」を置いて、印刷(文字)、刷画(版画)、映写(映画)の各行為を支持体上の無数の傷と結びつけたのである。

〔追記〕
《最後の楽園》の一一ページには〈銀幕〉が再録されており、末尾に

[初出『日々の惑星/梅木英治銅版画集』一九八六年]

なる注記があるが、再録されたテキストは初出形ではなく《ムーンドロップ》所収の定稿形である。ちなみに、初出形と定稿形の間の異同は2箇所。変更は「そんなかわたれ[、、、、]時」(10行め)の傍点を取りさり、4字下がりだった「届かない言葉を」」(31行め)を30行めと同じ字下げに揃えた(下げた)だけで、語句への手入れはない。


大竹茂夫展と詩篇〈壁掛〉(小林一郎、2009年4月30日)

吉岡実の詩篇〈壁掛〉(J・5)は、大竹茂夫の個展(青木画廊、1982年3月27日〜4月10日)のパンフレットに発表された。大竹氏の最初の著書《アリストピア》(文・天沼春樹、画・大竹茂夫、パロル舎、2000年5月25日)の〈著者紹介〉によれば、この個展はグループ展を除いた初の展覧会で、その後、同画廊での個展は1986、90、91、95、98年、眼展は1984、86、87、90、93、94、95、96、98年と、毎年のように開かれている。大竹氏は青木画廊との出会いを問われて「芸大の先生の紹介です。私は京都市立芸大だったのですが〔大竹氏は1979年の卒業〕、その頃前田常作先生が教授で来ておられたんです。その前田先生は青木画廊と以前からお付き合いが有ったので紹介して頂けたのですが、青木画廊は紹介を基本的には受けないらしいんですよね。それでも作品を見てもらったところ、気に入ってもらった様なんです。それからですね青木画廊との付き合いは」(〈アートを身近に![ リブ・アーツ ]スペシャル・インタビュー〉)と答えている(ちなみに、吉岡の未刊詩篇〈スワンベルグの歌〉雑誌発表時のイラストは前田常作である)。吉岡が最初の個展以前に大竹氏の作品を知っていたか不明だが、青木画廊の執筆依頼を受けて大竹絵画を(改めて)観たことは間違いない。 残念ながら、大竹茂夫画集は本稿執筆の時点で存在しないので、前掲《アリストピア》、グリム兄弟(天沼春樹訳)《赤ずきん〔絵本グリムの森 6〕》(パロル舎、2005)、《TAROT[タロット]》(序文・寺山修司、画・大竹茂夫、ピエ・ブックス、2005)などの書籍や、大竹氏自身が作成するwebサイト《Secrets of Plant Worms House〔冬虫仮想館の秘密〕》で渇を癒すほかない。それもあって、本稿では〈壁掛〉と大竹絵画の対応はあえて詮索せず、詩篇の初出形と定稿形を比較し、併せて標題の「壁掛」をどう読むかについて考えてみたい。まず初出形を引こう。

壁掛〔初出形〕|吉岡実

乙女たちは遊んでいる
  善き遊びから 悪しき遊びへ
     割れ竹で蛇を挟み
ときめきつつ叫ぶ
        この世は汚物で満ちよ
「オンパロス」へ供えられた
       かたつむり
            鱈の頭
               紅い糸ぐるま
ここは売買の市場から遠い
            聖なる胎内くぐり
内側には橙色の絹が張ってあり
          五段の石段だってある
  蓬髪の白い老人に抱かれ
         乙女は恥しい花鉢を濡らす
他の部屋へ廻れば
むらさき色に手を染め
二人の乙女も遊んでいるようだ
  琺瑯引きのバケツの中へ
             犬釘 小鳥 仮面 胞衣
             死者の金歯も投げ入れる
春のひととき
   まるで美しい壁掛[タピストリー]が織られてゆくように
建物の屋根から霞がかかって来る

字下げ(空白)を□、詩句を■で表わすと、初出形の冒頭3行はこうなる。

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この詩が収められた《薬玉》(1983)の階段状の詩形、〈くすだま〉の言を藉りれば「ことばの塊りをいわば「楽譜」のように散りばめた、いってみれば「言譜」のようなもの」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、二九七ページ)に慣れた目には、初出形の字下げはなんとも奇妙、というか中途半端に映る。吉岡は詩集では詩句のユニットを次のように統一しているからだ。

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便宜的に最初の詩句を@、第二の詩句をA、第三の詩句をB、第四の詩句もB(これがない場合もある)、第五の詩句をCと表わせば、@は天ツキで始まり(第1行)、Aは@の文字数分の空白後に始まり(第2行)、Bは@とAの文字数分の空白後に始まり(第3行・第4行)、Cは@とAとBの文字数分の空白後に始まっている(第5行)。――以上のいずれも、詩句冒頭・末尾の括弧類は半角にカウント。この、いわゆる《薬玉》詩形が〈壁掛〔初出形〕〉では厳格に守られていないのだ。本稿では、初出形を定稿(詩集収録)形と校合するにあたって、字下げの異同を簡略化するため、次のように表わすことにする。双方の間で字下げに変更のない場合は、詩句の丸中数字を[ ]で括る([@]、[A]等)。一方、変更のある(つまり手入れの結果、上記の《薬玉》詩形となった)場合は、詩句の丸中数字を【 】で括る(【@】、【A】等)。こうすると、異同は以下のようになる(行頭の数字はライナー)。

壁掛〔初出形→定稿形〕

01 〔乙女→娘〕たちは遊んでいる[@]
02   善き遊びから 悪しき遊びへ【A】
03      割れ竹で蛇を挟み【@】
04 ときめきつつ叫ぶ【A】
05         この世は汚物で満ちよ【B】
06 「オンパロス」へ供えられた[@]
07       〔かたつむり→百合根〕【A】
08            鱈の頭【B】
09               〔紅い糸ぐるま→胞衣〕【C】
10 ここは売買の市場から遠い[@]
11             聖なる胎内くぐり〔(ナシ)→だ〕[A]
12 内側には橙色の絹が張ってあり[@]
13           〔五→十六〕段の石段だってある【A】
14   蓬髪の白い老人に抱かれ【@】
15          〔乙女→一人の娘〕は恥しい花鉢を濡らす【A】
16 他の部屋へ廻れば[@]
17 〔むらさき色→はなだいろ〕に手を染め【A】
18 二人の〔乙女→娘〕も遊んでいるようだ[@]
19   琺瑯引きのバケツの中へ〔(ナシ)→交互に〕【@】
20              犬釘〔(全角アキ)→や〕小鳥〔(全角アキ)→や〕仮面〔(全角アキ)胞衣→(トル)〕【A】
21              死〔者→人〕の〔金歯→櫛〕も投げ入れる【A】
22 春のひととき[@]
23    まるで美しい壁掛[タピストリー]が織られてゆくように【A】
24 〔(ナシ)→正面の〕建物の屋根から霞がかかって来る[@]

冒頭5行の字下げを見ると、初出形が@・A・B(前述のように、この3行はほぼ、であって完全、ではない)・@・Aなのに対して、定稿形が@・A・@・A・Bなのは、文意からいっても穏当な手入れである。語句の変更では、17行めの「〔むらさき色→はなだいろ〕に手を染め」が興味深い。この修正は〈秋思賦〉(J・8)4〜11行として初出時から組みこまれた〈断想〉(《CURIEUX――求龍》4号、1978年11月)の第1行「むらさき色に手を染めあげ」を優先するための措置だろう。吉岡は《薬玉》を編むとき、はじめてこの類似に気づいて変更したと考えられる。おそらく〈壁掛〔初出形〕〉に「むらさき色に手を染め/二人の乙女も遊んでいるようだ」と書きしるした時点では、〈断想〉の冒頭行を忘れていたのだろう。逆に言えば、「むらさき色に手を染め(あげ)」という詩句が先導する水死者のイメージは、吉岡にとりついて離れないオブセッションだったのである。次に、初出の印刷物に吉岡が手を入れた状態を再現して掲げるが、語句と字下げの変更指示が混在していて、新たに清書した方がいいほどの煩雑さであり、ここから仕上がりを想定することは難しい。詩集用の原稿作成の際は、常のごとく、吉岡の手入れを(執筆時と同様)陽子夫人が浄書したことだろう。

吉岡実の手入れ〔初出形→定稿形〕を小林一郎が赤字で再現した詩篇〈壁掛〉(〈大竹茂夫展〉パンフレット、青木画廊、1982年3月27日)
吉岡実の手入れ〔初出形→定稿形〕を小林一郎が赤字で再現した詩篇〈壁掛〉(〈大竹茂夫展〉パンフレット、青木画廊、1982年3月27日)

詩の標題の「壁掛」だが、詩篇本文(最後から2行め)では「タピストリー」とルビが振ってあるので、〈壁掛[タピストリー]〉と読みたくなる。しかしながら、《薬玉》を構成するほかの詩篇がすべて漢字表記で――例外は最初期の詩篇〈竪の声〉(J・2)のみ――、読みも和語か漢語であることを勘案すると、「かべかけ」と読むべきだと思われる。よって拙編《吉岡実全詩篇標題索引〔改訂第2版〕》(文藝空間、2000)でも「かべかけ」と読んでおいた。次の詩集《ムーンドロップ》(1988)での吉岡だったら、〈寿星(カノプス)〉〈青空(アジュール)〉〈銀鮫(キメラ・ファンタスマ)〉のごとく、〈壁掛(タピストリー)〉としたかもしれないが。

〔追記〕
青木画廊の展覧会のパンフレットに発表された吉岡実の詩は4篇。それぞれの「絵によせて」書かれ、奇しくも《サフラン摘み》(1976)から《ムーンドロップ》までの4詩集に1篇ずつ収められている。なお、セリエントの〈異邦〉と小沢純の〈グロヴナー公の兎〉は、《私のうしろを犬が歩いていた――追悼・吉岡実》(書肆山田、1996)の〈吉岡実の小さな部屋〉にカラーで図版が掲載されている。

  1. 〈自転車の上の猫〉(G・15、18行、〈松井喜三男展〉パンフレット、1974年4月13日)、初出詞書「マツイ・キミオの絵によせて」
  2. 〈異邦〉(H・5、31行、〈ヘルマン・セリエント展〉パンフレット、1977年5月31日)、初出詞書「セリエントの絵によせて」
  3. 〈壁掛〉(J・5、24行、〈大竹茂夫展〉パンフレット、1982年3月27日)
  4. 〈秋の領分〉(K・5、32行、〈小沢純展〉パンフレット、1985年9月17日)


吉岡実詩集《紡錘形》本文校異(小林一郎、2009年3月31日)

吉岡実詩集《紡錘形》は1962年9月9日、妻の吉岡陽子を発行人として草蝉舎から刊行された。ただし版元の「草蝉舎」の表示はフランス装の表4と機械函の表1だけで(函の表4には装飾化された「SSS」、「SohSenSha」の略が見える)、扉まわりや奥付にはない。発売は思潮社。詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)でH氏賞を受賞後初の詩集として注目された《紡錘形》は、22篇を収め、〈老人頌〉(1959年1月)から〈修正と省略〉(1962年3月)に至る全篇が本詩集以前に雑誌や新聞に発表されている(〈吉岡実年譜〔作品篇〕(《紡錘形》制作期間)〉参照)。この校異では、 雑誌・新聞掲載用入稿原稿形、 初出雑誌・新聞掲載形、 詩集《紡錘形》掲載形、 《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、 《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、からまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《紡錘形》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたか、たどることができる。本稿は印刷上の細かな差異(具体的には、漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「瀆」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「涜」や「祷」を使用している点を諒解いただきたい。最初に《紡錘形》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌・新聞掲載用入稿原稿:〈裸婦〉の写真版を除いて、詩集掲載用入稿原稿とともに、2009年3月の時点で未見。

初出雑誌・新聞:各詩篇の本文前に記載した。

詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962年9月9日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰13行1段組。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。

《紡錘形》の原稿は《僧侶》と同様、漢字は新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(後出〈裸婦〉原稿の写真版とその解説を参照されたい)。ひらがな・カタカナの拗促音は、最終形を収めた全詩集で小字に統一されたこともあり、初出形がこれと異なる場合も全詩集に合わせて小字表記とした。なお〈老人頌〉と〈果物の終り〉の2篇は《紡錘形》に収録されるまえ、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)に〈M未刊詩篇〉として収められている。同書における2篇の本文は、初出雑誌掲載形とも詩集《紡錘形》掲載形とも微妙に異なるので、《吉岡實詩集》掲載形をとして、の順で校合して異同を掲げた。底本の組方の概略は次のとおり。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰18行1段組。

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《紡錘形》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌・紙名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

老人頌(D・1、46行、《季刊 批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕)
果物の終り(D・2、57行、《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕)
下痢(D・3、24行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕)
紡錘形J(D・4、12行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕)
紡錘形K(D・5、13行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕)
陰画(D・6、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)
裸婦(D・7、19行分、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)
編物する女(D・8、19行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕)
呪婚歌(D・9、70行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕)
田舎(D・10、25行、《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕)
首長族の病気(D・11、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕)
冬の休暇(D・12、14行分、《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕)
水のもりあがり(D・13、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕)
巫女――あるいは省察(D・14、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕)
鎮魂歌(D・15、25行、《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕)
衣鉢(D・16、39行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕)
受難(D・17、20行、《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕)
狩られる女――ミロの絵から(D・18、26行、《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕)
寄港(D・19、19行分、《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕)
灯台にて(D・20、33行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕)
沼・秋の絵(D・21、23行、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)
修正と省略(D・22、26行分、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)

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老人頌(D・1)

初出は《季刊 批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕一二七〜一三〇ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は並字)使用、五号15行1段組、47行。

さびしい裸の幼児とペリカンを
老人が連れている
病人の王者として死ぬ時のため
肉の徳性と心の孤立化を確認する
森の木の全体を鋸で挽き
出来るだけゆっくり
幽霊船を組立てる
それが寝巻の下から見えた
積〔み→Y234(トル)〕込まれたのは欠けた歯ばかり
痔と肺患の故国より
老人は出てゆく
皮の下から続く深い波のうねりへ乗り
多毛の妻をうつぶせにする
黒い乳房の毒素で
人の心もさわがしくみだれ
くらげの体も曇っている
老人は腹蔵なく笑う
ばんざい
ばんざい
一度は死も新しい体験だから
蝶番のはずれた境界を越える夜〔(ナシ)→Y234は〕
裂〔1Y2(ナシ)→34か〕れぬ魚の腹はたえず発光し
たえず収縮し
そのうえ恐しく圧力を加えて
エロチックであり
礼儀正しい老人を眠らさぬ
ガーゼの月のなまめかしさで
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱の〔なか→Y234ため〕に
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させ〔(ナシ)→Y234ようとす〕る
果ては→Y234(トル)〕
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃り〔1Y上→234あ〕げる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

果物の終り(D・2)

初出は《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕二三〜二六ページ、本文新字新かな使用、9ポ19行1段組、57行。

つねに死ぬ人のまわりにある羽毛の潮のながれ
けばだつ意識の外面ではじかれる
孔雀の血の粒
その真新しいくちばしの喚びの深層で
内的独白をくりかえす
死ぬ人の幼年期の肖像を見た
つまれた菓子の間を疾走し
母の情事のゆえに下痢する
独楽の廻るスピードで失われてゆく微熱の時間
羞恥のセックスで靴下を穿く
幼女のまるいくるぶしへの侮蔑とともに
紋切型の父の心理的倒産があり
黒と白の斑の犬の轢死が少年の視線を転化する
秘密写真へ
柔かい曲線のおびただしい泥沼へ
未熟な杏から
すわりよい梨のしりのくぼみに
都会うまれの少年期の遅い恋の始まり
ばらいろの繭を持つ従姉に教育され
るいれきのある肥った叔母の冷感で戦慄する
肉への廻り道
霧隠才蔵への入信と改宗
とかげの磔刑
また別の少女へのやさしい折檻
反抗と洪水はたえず少年の身の丈をせりあげる
後世の砂漠のなかに
父の無智と兄の無力な家の柱を回避する
オペラ館の極彩色の舞台の予言の歌手たち
仮象で生きる喜劇役者たち
ガルボの秘蹟の遠近感
アナ〔1Y・→234(トル)〕ベラの絹の唇の触媒
永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される
トンネルの闇で死滅した
家畜の臓物の臭いをかぎつけ
投影した少年の精神が氷の河を引き入れる
ついでに把握しがたい月の運行を
充分な死の恐怖の伝承と
繁る小麦の畑の生への集積の怒り
少年は孤独の肩をあらわにし
物の固い角を経験しはじめた
消えたランプの発端から終焉までを告発する
発生する癌の戦争
大砲の車輪のひと廻りする時
無意味に穴のふさがる時
多くの人類の死・猿にならねばならぬ無声の死
下等な両棲類の噛み合う快感の低い姿勢
横たわる死・だんじて横たわる死
古代の野外円形劇場の太陽の下の醜悪な消却作業
一人だけの少年は哭きわめく
粥状の物質の世界で
コップの嵐のなかで
まさに逆〔(ナシ)→Y234さ〕まだ
偶像は
いま死ぬ人の半生の透視図
肖像の少年は模倣するだろう
大人の習慣のぬれた羽毛をたらす死を
歩みよる曙光の拡がり

下痢(D・3)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕八〜九ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰1段組、26行分。

ぼくは下痢する のぞむところでなく 拒む術もなく 歴史の変遷と個人の仕事の二重うつしの夜にまぎれて ぼくは下痢する 紅いろの花と 薄明の空をそめる痰の吐かれる地下室の水 それはぼくだけの現象だろうか 今日もそれをする昨日もしたんだ 考えれば昔の記憶のなかの青い膚のとうがんの内房を覗きながら 下痢はぼくらの日常の習慣 洗いたての世界の便器が集められる ぼくの下痢はぼくの精神を飲みくだし 他人の多くの心へ伝達され 飢えの大衆の糧を腐らせてゆく そのときから寝そべる老若男女のむれ そのささやかな声 そのいじらしい手足の運動 それらの生きている証拠の排泄の愛 誰もが流木の位置 ぼくはどこかもう少し高いところから 直接灰をかぶる 被虐的な食事をするため 馬や犬の経験もしないであろう 滑稽な形而上の下痢をする 力なくむしろ生きることを認証する 痛みの導くところ 雷の格闘の終りの空間に聳える塔をみる ぼくの死すべき肉体の鳴りひびく殉教の血のながれの高まる時 ぼくは下痢する 耕される傾斜の土地に 汲まれる泉の絶えざる岩や石の下に 永久に心の内乱の契機の腸を断つ ぼくは忘れられる ぼくは人と物を忘れる 仮設のなかにめぐりあった交友だから 寒冷な下痢する近代の醜悪なかがまる催眠状態をぬけ 回復する驚異な暗が次元を替える 中心に自然の光の接触をくりかえす 二十世紀の庭に ぼくは〔12綜→34総〕合体として健康な男の一人になる ま〔じ→234ず〕梨から食いはじめる ここに新しい関係・対話がはじまる

紡錘形J(D・4)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕四〜五ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰1段組、13行分、標題は「紡錘形1」。

首のまがった母それはまだ女であり 見えない骨の走る小さな父それは男であり 窓の外の地に死ねない人々がめいめいの貧相な手で罎をつみ 蠅をむらがらせ 哄笑と泪声で 二人の男と女に寝床の時を与える 夜が鋭い角をもつならば 他の人は畳の下へ沈む 火事は血を浴び 母の子宮へ移りつつ燃える 父はもうつるつるの猿として自己の枝へつりさがり叫ぶ 水を水を 母は鍋の尻と箒で接がれた一つの化物に変り 襖の世界へ入ってゆく 父は朝早くから桶のなかへ鍬形の手を涵し 労働にたえる熱い鉄を打ちすえる 刻まれた鑪の目が万の錐の尖をとがら〔す→234し〕 それらすべてが陰気な畳を突き刺す それが生活であり 金銭であり 父はふいごの著しく長い腹をよこたえる 母は障子の内側で孕みつつある

紡錘形K(D・5)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕二ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号25字詰1段組、14行分、標題は「紡錘形2」。吉岡は1960(昭和35)年3月9日の日記に「昨夜できた〈紡錘形2〉を朝みる。まずよし、陽子に浄書してもらって、〈鰐〉へ送る」と書いている。

わたしの生きている今 わたしは触っているのだ それはずいぶん過去の年月の愛と羊水の水圧に抑えられたまま 小さな袋での一囲いの卵として 水平にねむり 立った勢いでわたしは自分の足の爪を噛んだ わたしの信仰はそれから高まる 朝夕にくりかえされる食物の固形の時 わたしはそのたび聴いた母性の甘い嘔吐を もしかしたら立ちあがれるかも知れない ずいぶん狭い伽藍だと思いながら 裸の姿で いなむしろ裸以前のろうそくの形で 自分の投影を前後左右の壁に映しだす これがこれが犬でないもの 鳥けものの羽を与えられぬもの 呼称・父 呼称・母の夢みてる可憐な塑造の者 夜の香料薬科のなかの血のアーチをくぐり出る 召命されたエキス 木造の首都で一市民のつづらのふたひらく四月 真綿をかぶり老婆が沐浴している

陰画(D・6)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕〈「裸婦」他四篇〔〈陰画〉〈裸婦〉〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉〕〉一二〇〜一二一ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、35行、「カット・伊原通夫」。

光りへ抽きだされ
いままで沈んでいた卵の類
いっせいに動きだす
蠅にとび廻られ
甘美な恋人たちの死相の沼をわたり
偶然奏でられた木の葉の音楽に感応して
ばらいろに輝く
半面は磁気を発しながら
卵の類
まんべんなく転る
呪術の生活の逃避所から
英雄の暗殺された武器の市を通りぬけ
鏡の前へ
うつろいやすい女たちの腿を
一つ一つの卵は閉じこめてゆく
疑いもない眠りの支配だ
かぎりなく暗い水をながす
あでやかで精神の交合をうばわれた浴室
夜ごとに連繋をくりかえす死人らの眼と舌の羅列
この眺望に愛と死の共存がありえようか
いくつかの卵が他の卵をのりこえる
符合しない ひどい変容
死人のおびただしい口が明瞭に見えぬ
健康な男女の歯が開かれる時まで
陰をひく卵の類
観念の世界へ寝返りできないのだろうか
やわらかい海の藻の敷物のうえ
すさまじい通過を見せる
軸もない卵の類
策略のない彼岸を探す
光熱のない平面
だめならしばらく
冷血な肉の裡へ拘留される
毟→234むし〕られた卵の類
たちまち仮借ない天体を頂く

裸婦(D・7)

吉岡陽子夫人の手になる〈裸婦〉の雑誌掲載用入稿原稿
吉岡陽子夫人の手になる〈裸婦〉の雑誌掲載用入稿原稿(〈吉岡実の詩稿〈裸婦〉〉参照)
出典:青木正美(保昌正夫監修)《近代詩人・歌人自筆原稿集》(東京堂出版、2002年6月10日、二〇三ページ)

雑誌掲載用入稿原稿で注目すべきは、1行の字詰めである。32字×20行の原稿用紙を、行頭は4字アキで書きおこし行末は2字アキで折りかえす26字詰めで書かれており、すべての刊本の27字詰めとは、わずか1文字の違いだが、異なっている(散文詩型はこの26字のほかに、20字・22字・24字・25字・27字で組まれているが、原稿の字詰めが初出形の字詰めと等しいかは不明)。用字用語は、本稿の初めでも触れたように漢字は新字、かなは新かな(拗促音はひらがな・カタナカとも小字)で、結果的に本原稿の表記法は、「瀆」を含めて、の《吉岡実全詩集》掲載形と完全に一致している。
初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕〈「裸婦」他四篇〔〈陰画〉〈裸婦〉〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉〕〉一二二ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ26字詰1段組、20行分、「カット・伊原通夫」。

ぼくがあらゆる白痴の世界から奪い出そうとする 秘すべき現実 たくみに毛皮の内部へ吊るされた卵 ぼくはその時からぼくの創造の初夜を涜す そこにはゼラニュウムの花の色で幾度も照らされ 触れ方によってはゆるやかにうわむく美しい乳房 和解しよう 目的もなく水平線をたどり 砂へ君臨する肉の全身 そこに極度に熟する苺が置かれた ぼくは否定して離れる だが遠近のない岸をひとまきして吹きだされる 髪と藻の暗いみどりの輝き ぼくはあざやかにその寒色で染められる 水へ沈むように少しずつ解放されて そのときというより今 誰であれ〔視透→234透視〕することはできぬだろう ぼくの立っている吃水度から急に沈み 海の貝類の上で発光する腿や腰部 それからいっそう波はうねる 夏なお冷寒の氷山の特質をさとった ぼくの主張まで変える強力な組織体 遠くは反響せず 停止と同時に浮動し ぼくでは計量できないマッスとその過剰な陰 その歓待 たしかに侮蔑されよう ぼくは画家だから 実体を他に移す破服の施術者にすぎぬから ぼくは数ある血管を張りめぐらし 或は押出して 複数の眼と口をもつ女を創る 未来が予測できるならば ぼくの眠った大事業の後 女の白い像が大胆にものを食べる

編物する女(D・8)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕六〜七ページ、本文新字新かな使用、9ポ27字詰1段組、19行分。

たっぷりと畝編みにしたプルオーバー 今夜の料理には玉葱を使おう 彼女はじぶんのからだから何を編みだすのかしれたものではない 大きな衿はタートルネックの変り型 彼女は砂の力で一人の男を愛そうとした ジャージーでピンクなら彼も大胆にさわれる 太陽の網目のなかの苺をつぶす愉悦の日々 男の住所をどこへ控えたか思いだそう 秋だからブルー グレーなどで模様を変え 袖口をゴム編みにして 男が独身者の血は冠の毛をぬらすと 二〔123ケ→ヶ〕月前にもらした重大な口説 裏うちは三十糎幅の同色の布をはって横になる しわにならぬから 男の部屋へは猫しか通わぬ秘密をかぎつける 裾は折返しを深く 男とこの夏は波の下へ すべったことが忘れられぬ 単純なメリヤス編みですっきりさせよう 男の肉〔身→234親〕・父・母・不具な姉を呪い ドレス・ヤーンでなければ上手に仕上らぬ 長い胴のシルエット 男は貧しいから好色な壁画を描く たくしあげて彼女が着るときココア色のスラックスが似合うと 老裁縫師にいわれた もう冬だからやぼになる 船の底の貝の冷たい光りがとどく 彼女の眼に入る男は彼女にとって象牙色の魚形のハンガーだ 本当に死ぬならばセーターを脱ぎたいと彼女は考える

呪婚歌(D・9)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕二四〜二七ページ、本文新字新かな使用、9ポ21行1段組、70行、題辞は「われら今夜というこの時/この黄教の馬の放中せる陰茎を/中心にして/雨の地に拝跪した/〈ラマ僧の呪祷より〉」。

わたしたちの今夜というこの時
この日という雨と春
おごそかな寺院の偶像を骨ぬきにした後
卓子をゆくりなく円いものと感じて
その下に集る脚の空間に
なやましい川のながれを見た
ふれるならば刑罰されて死んだ犬猫
つかむならば炎える夥しい藁の束
わたしたちは斜の板へともに並んで寝て
にんじんを噛みながら流れる
大勢の人の微笑
またはまれなる憎悪と風
わたしたちの皮膚のつめたいことを
たがいの欺むかぬ証しとせよ
手と手 腸と腸から
つねにはみだすオレンジ
その果肉の濡れに導〔び→234(トル)〕かれて
測り知れぬ愛
観念から行為へ
暗転する太陽その次は薄明
わたしたちの氷る全身に浴せられた
花は死ぬものの嫉妬
しばらくは香気を放ちやがては窒息をねがう
黙示の寝床
われた蛇の卵 麦粒
紡がれた陰毛の糸車
かぶさる毛布類
つもる塵 のびる植物勢
むらがる蜂の針を女の肉へ打つ
否 否
加えるものは
わたしたちの小部屋を彩る
謀術はないのか
パンと牛乳のほかには
純粋な浪費の舞踏する幻のかまきりたち
如露の世界に閉じこめられた
わたしたちの後宮の庭
他人のさわがしい子供が集る
ちんば めっかち 象皮病
それらの眼の油はたぎり
大理石の柱のかげからのぞく
禁欲の衣を次々と沈める海溝
わたしたちに飛躍があるだろうか
華美なさかだち
慈悲ふかい骸骨の抱擁の果に
富を抛棄して貧を養う
それ以外のなにが与えられよう
ともに裸の秤
共犯とはかかる状況
かかる矜りのむなしい愛であり
つきすすむ水路の星座
その吸盤の邦で
甘い罪のながい涎を
わたしたちは飲みつづけた
近代装飾の洞穴のおくふかく
裂かれた兎を耳からつるす
この高揚の月の出
わたしたちも同時に
吟味され照らされる
わたしたちの立ちあがった場所
つねに灰いろの綿毛を舞い上らせて
わたしたちの心と肉の陰画
わたしたちの半面頭に
ねずみ泣きのねずみを二匹棲まわせて
予言される
一人の男として煉瓦をつみ上げ
一人の女として水をかき廻す
悪夢の絵具にくまどられて生きると
永遠がなければ次永遠に
蓋せられた音楽

田舎(D・10)

初出は《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕六六〜六七ページ、本文新字新かな使用、9ポ1段組、26行。

納屋であくびをくりかえす
幽霊の見物人
にんじん畑のうっとうしい舞台裏
三つ廻れる爪先踊り
むらがる白鳥を扇形に分け
一つしか廻れぬ〔偏→234扁〕平足で
跳ね出る夜行性の馬
むらさきいろに照明されて
山へ心臓を食べにゆく
子供の泣き声
川底を漂う肌着のなやましい挑発
めかくしされた魚
屍体の白鳥には深いおじぎをさせ
男の食肉的ずうずうしさで
大股びらきの洗濯女を抱えた
覆面の馬
いななきながら
三つ廻れる爪先踊り
一度の倍の六つ廻りの爪先踊り
子供が鼻血をながす瞬間
なまぐさい蝶が柵へむらがる
拍手 口笛 ステッキを叩く音
発作的にとまり
古典美の権化として
にんじんを食う馬
自然に心の膿も見えた→234(トル)〕

首長族の病気(D・11)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕六〜七ページ、本文新字新かな使用、五号25字詰1段組、24行分。吉岡実がクリアファイルに保存していた新聞の切り抜きに、本篇のスルスと思しい記事がある(〈〈首長族の病気〉のスルス〉参照)。

或る新聞記事で首長族のことを改めて知った いまでもビルマのカレンニ地方に二千人も住んでいるとのこと 写真も載っているのでつくづく見た すべての女が首輪をはめ いたいけな幼女も立っている ここでは罪人でなく美人の矜持を重い枷として ぼくは思いだした少年の頃 外国の地理風俗事典で見たことを 彼女たちは体の成長と同じに真鍮の輪をつぎつぎとふやし あごをつきあげるまで重ねる でも人間の首にも制限があるから それらの形態をふみ外さない枠で止める それ以上長くしたら危険だ 鹿・狐と同じ動物に変化する 或は死ぬだろう ぼくは想像力がとぼしいから 彼女たちの交合の夜の闇までみとおせない 真鍮の輪と輪のかちかちという軋み その無機質の冷たいささやきがたえず 首長族の男の肉性を刺戟し その満月の狩を唾や汚物でまつる 火のなかに彼女たちは沈む臼 ともあれぼくには別のことが気がかりだ たまたま彼女たちが病気になった場合だ 三つの部落に一人の首輪の技師がいるらしい 首長族の女は庭の大きな樹にしばられて泪をうかべる 一番上の輪から外していく それを木の枝にかける 最後の大きな輪をかけたときさしもの太い生木も裂けた〔という→234(トル)〕 技師はそのときはじめて 日に当ったこともなく湿り 白く長い軟体物が 自分の丈より高くぬうっと突き出た実感に思わず吐瀉し 手当料をとらず森へかけこんだ〔そうである→234(トル)〕

冬の休暇(D・12)

初出は《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕1面、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、新聞用活字一倍(正角)22字詰1段組、18行分。吉岡は1960(昭和35)年2月27日の日記に「詩篇〈冬の休暇〉出来」と書いている。

そこでは灰色の馬と灰色でない馬とがすれちがう 灰色の馬が牝らしく毛が長く垂れさがり 別の馬は暗緑の牡なのだろうはげしく躍動する たがいのたてがみも尾も回転する毛の立体にまで高まって 少女にはそれが見える 完全な円のふちから ときどきはみ出るものがオレンジ色に光り 中心はもう時間が経過したので黒い 或晩にお父さんとお母さんがのぞかせた一角獣のように恐ろしく 少女は自身の腿に熱を浴びる まだすれちがっている馬たち ピエロでない赤い帽子の男は 少女が気づいた時から人ではなく だれもが持っている共犯のはにかみの心 テントの底が深くなればなるほどゆっくり 馬の方へちかづく 命令するために非常に細長い棒をふりおろす 電光もひきあげる街の看板の方へ 今夜は充分泣けると少女は思う 灰色の牝馬のすんなりした腹に〔(全角アキ)→234(ベタ)〕異父弟が宿ったから このみじかい冬の休暇が終るとともに

水のもりあがり(D・13)

初出は《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕二〜三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号20字詰1段組、29行分。

水のながれは止る その全面の硬い量の上をすべる 女と魚 たえずまくれるスカートのなかの鱗で飾られた脚 くらい鏡の割目からもりあがってくる水 ときどき血もまじえて 空気を吸いに魚が想像外に恐しく大きな顔を出す 嗤っているのでなければ 絹の肌の半身を出刃でくすぐられている不安定な口つき 女のもろい曲線の波を他の魚がとびこえる 夜から朝への細い出口 ばら色とむらさき色は女の好きな色 魚の背骨をいつまでも包みこんでいる休息の色 核と愛の危機 もうすこし経過したら腐る滞水時間 ちょうど魚の眼のなかに沈みながら女は眠り その女の髪〔と→234の〕毛の巣で 再び健康体になる魚 もりあがる水 もりあがる肉 溺れる蝉の悲鳴を聞く さかさまの樹木 さかさまに降る雨をしばらく 未建築地で眺めよう 水の下の陸地 水晶体に結晶されゆく 火事と黒いけむり さだかではなく女は藁でなでられ 魚は氷の角で押えられて 美しい離別 衝撃のつづく小宇宙 作曲家の望んでいるメロデイがうまれた 深い水をくぐりぬけ〔(全角アキ)→234(ベタ)〕再びもりあがってくる水 その中心の雨傘の宙がえり 心中する男女 しばしば魚が男の身替りをする 受身の風景へ船を置き 寝台を準備したあとで 水がもりあがる 単なる外形ではなく 酒〔12罎→34壜〕にさびしい砂地が閉じこめられる 死骸は実物大の女と魚 音の変質する彼方 どこまでも連続する水のもりあがり

巫女――あるいは省察(D・14)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕一〇一〜一〇三ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ23行1段組、35行。

北欧的な濃霧のうすれるころ
わたしはベンチに腰かけて洟をかむ
プラトニックな逢びきのため
箒のような白髪のおびただしい樹木と
そこには観念の孤独な公園のぶらんこのひと揺り
見たらだれでもが不覚にも笑う
おそろしく肥った女
それは肉体の輪郭ではなく
彼女の内在するプリズムが着物を下から脹ましている
彼女の腕や腿を肉眼でみては失礼だ
なでたりさわると退屈する
ふたたび自己省察をこころみ
わたしは高みから暗い滑り台をすべりつづける
いまにはじまったことではなく永遠に
彼女は歩きすぎるので
夜半はよく坐る
氷柱のなかに
建築物の上に
はじらいもなく
わたしの食べかけの西瓜の上にまたがる
もしかしたら今夜は出会えぬ
彼女はデリケートな儀式を行いにいったのだろう
死人の上の石をどける音楽
波がもちあげる処女性の夏
プールの跳板の空中で
肥った彼女の胴体が中心部でずれる
同時にあらゆる記念碑の土台の大理石が食違う
わたしは謙虚に新しい壁をぬり
わたしの機能力では明確に捉えられないが
標的のような円をならべて
彼女の肖像を描く
しばらくわたしは別れていよう
他の人にとっても彼女は必要だから
彼女は節度をもって導かれている
生命のドラマの→234真新しい〕解剖図の上へ

鎮魂歌(D・15)

初出は《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕一八〜一九ページ、本文新字新かな使用、8ポ(二分アキ)1段組、25行。

ぼくは知っている
夏の美しい雲への歩みを
夜をむかえる前のしばらく
いくつもの柱がつらなっている
どの一つもがひとかかえもあり
垂直に立って円みをもち
ぼくは恐れているのだ
人妻はすべて裸であったという
記憶を幼時から忘れてはいないのだから
大胆な四つの柱は今なお
砕かれずに上も下もなく
雨にぬれている
そこから馬は出発して行き
ぼくは他人の寝室の青空をかいまみる
折れた櫂の海もともに
高みへ次々と重く閉められて
王室のひきだしは音を立てる
細い首を挟まれて
死せる鴎
髪のたなびく春
ぼくはこんな大人になっても
柱という柱にふれる
ひきだしというひきだしを開く
冬がくるまでに
自己没入の過程を了るために

衣鉢(D・16)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕五六〜五七ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、39行。

たたみの黄いろ
わたしたちの皮膚のハアモニイ
わたしたちの四角い腰が坐る
始祖から今にいたるまで
たたみの疥癬性
夫婦が這う
赤ん坊が這う
もう少し這えば海へ出る
ざるをかざせば
さるすべりの紅
赤ん坊は力つきそこから先は老人が這う
火事の構造する障子の世界
つなみの礎石する瓦の空
老人は這う
黒い胴巻
老人は耳をたらして呟く
家紋と太い柱は遠い
げんげの畠を去るつめたい水
飲食の国は魂の岩の中
老人は力つき骨が這う
スピードがおちる
やわらかな苔の上では
もう夕暮ちかく
ぴかぴかの鎌形の月
如露できれいに洗うしらみやうじ
骨の美しいカーヴをくっきりと
初冬の道のべで
顕彰するために
ここからまたつづく
泥と水をまぜ細い竹を編みこんだ
囚れの矢来のような壁
そこでわたしたちは見る
夜叉の女たちが茶釜を叩き
琴を鳴らす爪の受菜のときを
走る天井
停るたたみ
わたしたちは家に入る
一匹のむかでを殺すため
泣き笑いの能面の伝統のうちに

受難(D・17)

初出は《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕一〇〇ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ1段組、20行。

雪の下にねむる釘
考えられる!
造船所の裏の〔堀→234掘〕割で
子供と昆虫が暗号だけの愛を
試みている半世紀も前の事
憎しみは鋏や石臼のひびき
人びとの死面の格子
ぼくの次にだれが吠える
リンネルの空の下で
みせかけの海の波へ
ぼくが溺死したあとだれが泳ぐ
なぜ月が出る
トマトの山を半分かくし
伝統→234現世〕の受難の野に
もう少し歩いて行けば
ぼくは死ぬより無関心になろう
拷問道具のうしろに
砂丘がおどろくほどぴんと張っている
信じられる!
髪の毛の下にうごく櫛

狩られる女――ミロの絵から(D・18)

初出は《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕四六ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ2段組、26行。

偶然の配色の緑や黄のもやから
一人の女が生まれる
一本の紐を波うたせながら
ぼくの心に火の円を描く
その女の腰から左右に突きでる
棒の両端にとまる鳥
それはいつも子供のように哭く
すっかり肉付が了るまで
月に真横を見せ
挑戦する
闇の空に
野菜籠の下の海にもまた
容器が世界を変える
その内容が腐りかかった茶色から
黒くなる
小さな半島
スペインの内乱
歴史の霜の中の血
夏みかんを狩る
その蜜の〔頭→234脳〕髄のながれ
もしかしたら
ぼくは見すごしているかも知れぬ
驚愕にみちた砲身の地より
方向転換して
飛ぶ美しい婦人帽を
ふたたび太陽が正面に輝くならば

寄港(D・19)

初出は《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕六六〜六七ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号24字詰1段組、22行分、末尾に「1961・4・14」。

ぼくの肉体の延長がつづく うごき廻る火や女の尾冠の頂へ 旧世紀の溶ける雪の束の間 ぼくは主張できるだろうか ぼくの認識のために船が赤道へ進み 下着の内側で美しいくらげが熱のために干される つまりぼくの愛が鴎のくちばしを紅色に染めるまで すべての杏やりんごは熟さないだろう 綿が屋根を包み ぼくが目指す港の全景をしずかにかくす 唾液は念入りにたれる 帆柱からまっすぐに集り 薄明の湾の中心へ 音楽が命ぜられる ぼくの眠りを縛る幾条かの綱が太くなり ぼくの笑いは充分卑屈だ 亀の甲の下で もしやさしい女がいるとしたら 明るい旋風が港へ帰ったのだ 絞首台の上に皿や野菜が置かれて 末つぼまりの鉛管の家 ぼくには新しい航跡がない ぼくの心が変ったと他人がいったら ぼくは静脈のなかで変ったのだ それからゆっくりはじまる悪疫と浸水 ぼくの生理がなまなましく感じる 夜の波の下のおびただしい繃帯の魚 賠償をとどこ〔う→234お〕りなくするために ぼくは今日みつけだすだろう 陸地の雨と羊の頭を囲む柵を そして家具の山が燃え上り 鎖骨がゆっくり外れた市 狭いところに 首尾よくなにが残りなにが残らないのか? ギターの内臓をさらす港へ ぼくは近〔ず→234づ〕く

灯台にて(D・20)

初出は《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕一二六〜一二七ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ1段組、33行。吉岡は本篇の〈作品ノート〉に「「灯台にて」は、詩に倦怠をおぼえはじめた時期の作品で、たいへん難儀をしながら書いた記憶がある。主題は、一言でいえば、戦争のために、青春期を失った一人の男の心の姿である」(《日本詩集1962》、国文社、1962年12月15日、二〇四ページ)と書いている。

  教授はいう〈異った生き方の苦しみ――〉

ゆっくり煙が止る
道化帽子の下で
分割された軍艦の心臓部まで
真赤なベッ〔ト→234ド〕の覆い布がたれる
鷹の中の迷える石の魚雷
ぼくには今それだけしか感じられず
コンクリートの泡の〔穴→234孔〕しか見えない
裸の巴旦杏をたべる少年時がなかったんだ
女の栄光の血と夜明けの水域も泳がずに
ぼくは灯台をさがす
ロマンチックな肋のいかだを組み
産婆のように冷笑して
一段一段高まる海を行く
両極から子宮を挟む
大きなレンズが南から北へ廻る
もう一度聞きたい陸からの咳を
さかさにかざされた懐中電灯
夏なお寒い便所の下の闇で鴎は汚される
ぼくの魂の粗相じゃない
それは生きて〔(ナシ)→234い〕るための誤解
中庭にコスモスが咲く桃色と白
投網が閉じられるまで
ぼくの能力が保障される
二重にも繃帯を捲かれた塔
その艶消しの内陣
中年の薄明ゆえ宗教もなく悟性もなく
ぼくの現在は何と合体することか
低い棚ではへちまがつらなる
そこから別の色彩
別の風景が装置されるとしたら
チーク材の船の底に花嫁が死んだように
美しく生きている
ポーズを変えることなく

沼・秋の絵(D・21)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕二四〇〜二四一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、10ポ1段組、23行。吉岡は〈三つの想い出の詩〉に「「沼・秋の絵」は、美術雑誌で見た、シュルレアリスムの女流画家レオノール・フィニの絵を題材にしたものだ。いってみれば、言葉で模写したようなものである。霊気の立ちこめる薄明の沼で、水浴している「わがアフロディーテー」と、解して下さってもよい。「わたしはいつ愛撫できる?」と、思慕し、願望しているのだ」と書いている。

女がそこにひとりいる
乳房の下半分を
太藺や灯心草と同じように
沼へ沈め
陸地の動物のあらゆる嘴や蹄から
女のやさしい病気をかくして
微小なえびのひげに触れている
野蛮な深みに立ち
罰せられた岩棚で
わたしはいつ愛撫できる?
鋸をもつ魚の口
蟻のひと廻りする一メートル半径の馬の頭蓋
それが侮辱されて骨へ代るとき
わたしは否でも愛を認識できる
いつでも曖昧な人間の死がくりかえされ
水はうごく岸べから岸べへと
わたしの尿や血が悪化するまで
もし幻覚でなければ臨床的に
女はぬれた髪の毛をしぼられ
いっそう美しく空へ持ちあげられる
なんの歪みもなく
そこに数多く
死んだ猛禽類の羽毛が辷りつづける

修正と省略(D・22)

初出は《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕二四二〜二四三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ26字詰1段組、27行分。

装飾模様に用いられたらしい わたしの統一体としての人間 いちじくは皿の中心でとがる といったずっと自然な内腔への愛 それはいつでも〔ぼく→234わたし〕の考えている 支那の幼児の食べる物を想像させる 氷山の家で菱の実が煮られる夜へ その生命の内なる青い骨が分ちがたく見える すさまじいお伽噺をきかせよ 岩肌へ開示される歴史や長い竜のひげが垂れる そこでは小さな文明と刃傷沙汰が終り ダイナミックな月の出まで 砂に噛まれたひらめをうごかす 五人の女の優雅な遊戯のうちに 波の力を感じる そのすみやかな帆の移動をさとる わたしは指摘できるか? 犯行者の持つ大きな模様 その鮮明な赤や黒の縞がとぐろまく地図の上を 向き合った人 向き合った動物 笑えば恐しく長い歯を現わす 外部から把えられた肺のなかの病気 やがて本質的に肉のない世界を見つけられる? 板のような静かな直線の深い竪溝の走り高まるまで ゆっくり死んだ女の完成された肩をベッドで見る それがわたしの希いであり 偉大な試みといえよう 新しい壁から食肉主義の細密画を外し すなわち主題の女の上へ乗る 四方の平面から豊饒な葡萄の漏水があるまで この情況証拠! このつつましいデザインをわたしは自己に許容する あきらめの冷たい響き 水彩でぬられた世界のうすめられた血の実景 サイズの零 多孔質の自己陶酔 秩序のない単細胞の存在がうたがわれる時 ひとつの器具の意志がより大きく自転する わたしは判断できる ありあまる野菜の山を噛みながら 見方によれば みごとな老人へと修正される喜びを 正当な理由でなく 堅固な俗世の障害物をとり〔のぞ→234除〕き 図案のように美しく省略される 増大するべく

――――――――――

吉岡実は1980年4月28日の日付を持つ《「死児」という絵》(思潮社、1980)の〈あとがき〉で「それにしても、《紡錘形》や《神秘的な時代の詩》、それから《サフラン摘み》などの詩集の生成の記録がないのは、今にして考えれば残念なことである」(同書、三四四〜三四五ページ)と書いた。その後《サフラン摘み》には触れなかったが(1979年発表の〈画家・片山健のこと〉がある)、次に引く〈三つの想い出の詩〉(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984)で《紡錘形》に言及した(なお同書の本文には《紡錘形》から〈紡錘形J〉〈紡錘形K〉〈田舎〉の3篇が、〈三つの想い出の詩〉には引用の形で〈沼・秋の絵〉全行が収録されている)。

 この「沼・秋の絵」は、昭和三十七年の『文芸』復刊第一号(三月号)へ発表したものだ。それまでの五年間、『文芸』は休刊状態であった。発行元の河出書房はもちろん、編集責任者の坂本一亀も、『文芸』復刊には並々ならない決意と熱情を以って事を進めていた。私が詩を依頼されたのは、前の年の十一月末ごろだったように思う。なにしろ、二十一年前のことである。私はその好遇に応えるに、ふさわしい作品を書かなければと、気負った。それがかえって災いし、締切日が過ぎても、詩はなかなか出来なかった。また勤務先の宣伝関係の仕事も、多忙をきわめ、私は身心ともに疲労していた。年の瀬の街は慌ただしく過ぎていった。営業畑から編集担当者になった青年は律義でたびたび、滝野川の団地のわが家に催促に現われた。
 私は正月の休日をすべて費やして、二篇の詩をどうにか書き上げた。本来なら一つの長い詩篇が望ましいのであろうが、気力が続かず、二篇の小品に分けてしまったのだった。ちなみにもう一つの詩は、「修正と省略」という散文形のものである。この年の秋に刊行した、詩集『紡錘形』の末尾にこの二篇を収めている。(同書、二〇一〜二〇二ページ)

《紡錘形》の22篇中、2作同時に発表というケースがふたつある。〈陰画〉〈裸婦〉と、〈沼・秋の絵〉〈修正と省略〉である。「本来なら一つの長い詩篇が望ましいのであろうが、気力が続かず、二篇の小品に分けてしまった」という言は、〈陰画〉と〈裸婦〉にも当てはまるか(〈陰画〉〈裸婦〉の後に続けて〈僧侶〉〈喪服〉〈単純〉が再録されているのは、書きおろし詩篇の行数が増減しても対応できるバッファーの意味もあったに違いない)。H氏賞受賞後の吉岡は、文芸ジャーナリズムばかりか、創刊間もない《鰐》の要請にも同人として応えなければならず、《紡錘形》の制作期間中、のちに拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)に収められる作品(6篇)だけでなく、生前未刊行に終わった詩篇(4篇)や次の詩集《静かな家》(思潮社、1968)に回された2篇も発表している(最新の〈劇のためのト書の試み〉は《紡錘形》の刊行と同時期)。結局、吉岡は《僧侶》制作期に割愛した詩(4篇)よりも多くの詩(12篇)を捨てて《紡錘形》を編んだ。想像を巡らすなら、吉岡実詩における最長詩篇〈波よ永遠に止れ〉が本書の巻末に収められていたら(ちょうど《僧侶》における〈死児〉のように)、詩集《紡錘形》は今とはよほど違った、ユニークな作品集になったことだろう。

〔付記〕
武満徹が1958年に作曲した〈黒い絵画――レオノール・フィニーによる(語り手と室内オーケストラのための)〉――3部構成の詩と音楽から成るNHKラジオ放送番組〈言葉と音楽のための3つの形象〉の第1部――の音源で、秋山邦晴作の詩〈黒い絵画〉の朗読が聴ける。全9節から成るこの秋山の詩の冒頭2節を、同曲がCDに収録されている《武満徹全集 第1巻 管弦楽曲》(小学館、2002年12月10日)の解説書から引く。

夜は 野獣の若々しさ
紡ぎ女が冷たい手つきで
夜を昼に変える 母親の涙が
赤い着物のなかに 夜を隠す
しかし撫でられた鬣[たてがみ]から
血に染った欲望がにおう
夜がにおう

  おまえのただひとつの愛のイマージュは
  おまえをつつむ神秘な黒い水
  石のなかに眠っている夜だ(同書、二四ページ)

同書にはフィニーの〈世界の果て〉のモノクロ写真が掲載されており、その説明に「下のフィニーの絵は、秋山がインスピレーションを受けたもの」(同前、二五ページ)とあるところを見ると、フィニ作の〈世界の果て〉(〈終末〉とも)は吉岡実の詩〈沼・秋の絵〉だけでなく、秋山邦晴の詩〈黒い絵画〉(と、それを受けた武満徹の曲〈黒い絵画――レオノール・フィニーによる〉)にも霊感を与えた絵画ということになる。

…………………………………………………………………………………………………………

吉岡実年譜〔作品篇〕(《紡錘形》制作期間)

  1959年から1962年末までに発表の詩篇のみを抜粋(〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉の記述を一部改めた)

●1959(昭和34)年 39〜40歳
1月 老人頌(D・1、46行、《季刊 批評》〔現代社〕1959年1月〔春季・2号〕)
3月 無罪・有罪(E・2、*印で4節に分かつ48行、《現代詩》〔飯塚書店〕1959年3月号〔6巻3号〕)
6月 遅い恋(未刊詩篇・7、12行分、《現代詩手帖》〔世代社〕1959年6月号〔1号〕)、果物の終り(D・2、57行、《同時代》〔黒の会〕1959年6月〔9号〕)
7月 唱歌(I・4、17行、《朝日新聞》〔朝日新聞東京本社〕1959年7月26日〔26404号〕)
8月 下痢(D・3、24行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年8月〔1号〕)
9月 紡錘形J(D・4、12行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年9月〔2号〕)、夜会(I・5、11行分、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕9月28日〔29776号〕)
10月 編物する女(D・8、19行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年10月〔3号〕)、呪婚歌(D・9、70行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1959年10月号〔4巻10号(38号)〕)、夜曲(未刊詩篇・8、14行分、《近代詩猟》1959年10月〔27号〕)
11月 陰画(D・6、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)、裸婦(D・7、19行分、《文學界》〔文藝春秋新社〕1959年11月号〔13巻11号〕)、首長族の病気(D・11、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1959年11月〔4号〕)
12月 田舎(D・10、25行、《同時代》〔黒の会〕1959年12月〔10号〕)

●1960(昭和35)年 40〜41歳
1月 斑猫(I・6、30行、《詩学》〔詩学社〕1960年1月号〔15巻1号〕)
2月 哀歌(未刊詩篇・9、35行、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年2月〔6号〕)
3月 紡錘形K(D・5、13行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年3月〔7号〕)、7日 冬の休暇(D・12、14行分、《日本読書新聞》〔日本出版協会〕1960年3月7日〔1043号〕)
5月 水のもりあがり(D・13、22行分、《鰐》〔書肆ユリイカ〕1960年5月〔8号〕)
6月 波よ永遠に止れ(未刊詩篇・10、11節257行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1960年6月号〔5巻6号〕)
11月 巫女――あるいは省察(D・14、35行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1960年11月号〔14巻11号〕)

●1961(昭和36)年 41〜42歳
1月 衣鉢(D・16、39行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1961年1月号〔6巻1号(52号)〕)、受難(D・17、20行、《近代文学》〔近代文学社〕1961年1月号〔16巻1号〕)
2月 鎮魂歌(D・15、25行、《風景》〔悠々会〕1961年2月号〔2巻2号〕)
5月 狩られる女――ミロの絵から(D・18、26行、《詩学》〔詩学社〕1961年5月号〔16巻6号〕)
7月 寄港(D・19、19行分、《秩序》〔文学グループ秩序〕1961年7月〔9号〕)
10月 灯台にて(D・20、33行、《文學界》〔文藝春秋新社〕1961年10月号〔15巻10号〕)、霧(I・7、13行、《讀賣新聞〔夕刊〕》〔読売新聞社〕1961年10月5日〔30512号〕)

●1962(昭和37)年 42〜43歳
3月 沼・秋の絵(D・21、23行、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)、修正と省略(D・22、26行分、《文藝》〔河出書房新社〕1962年3月号〔1巻1号〕)
6月 晩春(I・8、4行、《いけ花龍生》〔龍生華道会〕1962年6月号〔26号〕)、塩と藻の岸べで(I・9、22行、《花椿》〔資生堂出版部〕1962年6月〔7月号・13巻6号〕)
9月 劇のためのト書の試み(E・1、39行、《鰐》〔鰐の会〕1962年9月〔10号〕)


吉岡実と片山健(小林一郎、2009年2月28日)

吉岡実の詩集《サフラン摘み》(青土社、1976)は、片山健の装画によって詩篇の魅力を最大限に発揮した――が言いすぎなら、吉岡の自装になる単行詩集に親しんだ者にとって、片山の絵と切りはなして《サフラン摘み》を想いうかべることは難しい。「アングラ芸術」に耽溺していた1960年代末、吉岡は画集《美しい日々》(幻燈社、1969年12月10日)で片山健と出会った。

 古びた木造の小学校の便所や校庭を背景にして、少年少女の夢と現実を、甘美に、また残酷に描いた、片山健の画集《美しい日々》を見て、私は衝撃をうけたものだった。半ズボンの裾から回虫を垂らして、校庭を歩く男の子や新聞紙をからだに巻きつけて、放尿する女の子の姿態を見ていると、〈男生徒女生徒〉と呼ぶのがふさわしい時代の雰囲気がそれは色濃く《美しい日々》のなかに漂っていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六三ページ)

この〈画家・片山健のこと〉の初出は《文學界》1979年9月号だが、吉岡は同年9月10日から銀座の画廊・かんらん舎で始まった片山健個展の二つ折りリーフレットの案内状に5行の詩(初出時に標題なし、題名の〈生徒〉は詩集《ポール・クレーの食卓》収録時に付けられた)を寄せている。

木造の古い小学校の便所の暗がりで/女生徒は飛びあがりつつ小水をするんだ/もし覗く者がいるなら それは虎の假面をかぶった神/男生徒は夏の校庭を影を曳きながら 歩きまわる/半ズボンの間から 回虫を垂らしつつ 永遠に

片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の外面 片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の中面
片山健個展案内状(かんらん舎、〔1979年9月〕)の外面(左)と同・中面(右)

原口黎子は「『美しい日々』に充満する猥褻さは、くっきり描破された少年や少女たちの性器、おびただしい排泄行為のその姿態にもまして、硬直しきった様々な後ろ姿の中にこそ、ぎっしり隠し込まれ抑え込まれている」と幻燈社の〈出版案内〉に書いた(刊記はないが、1978年ころか)。私はこの文から松浦寿輝の〈後ろ姿を見る――『サフラン摘み』の位置〉(《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991)を想起せずにはいられないのだが、《サフラン摘み》のジャケットの絵(〈「無題」1973〉。詩集刊行当時吉岡の所蔵で、《現代詩読本》の口絵写真に吉岡とともに写っている)の少女は二人とも尻を見せているものの、少年は全員(函の絵の少年も含めて)尻を見せていない。

吉岡実は《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)が最後の詩集になるのではないかと惧れた(同書あとがきの「〈猿〉、〈ツグミ〉の二篇は、現在の詩境の作品である。ここしばらく詩を書くことも、まして詩集一巻を世に問うこともないので、あえて繰り入れ、末尾を飾ることにした」という発言は、そのように読まれるべきだ)。退路を断つために刊行した拾遺詩集の表紙と函に《美しい日々》の巻頭作品(別丁本扉の次の罫囲みだから、同画集の口絵か)を使っていることには、《サフラン摘み》の装丁に対する自負以上に、片山健の絵への愛着を見たい。吉岡実は片山健の鉛筆画を寿衣のように詩集に纏わせることで、《サフラン摘み》に代表される自身の中期までを締めくくったのである。

片山健画集《美しい日々》(幻燈社、1978年2月30〔ママ〕日)の函と巻末の絵〔装丁:山村梗子〕
片山健画集《美しい日々》(幻燈社、1978年2月30〔ママ〕日)の函と巻末の絵〔装丁:山村梗子〕

〔付記〕
吉岡実の随想には日記の記述を素にしたものが見られるが、ここに好個の例がある。初めが〈画家・片山健のこと〉の最終段落、次が「一九七九年六月十七日」の〈日記〉だ。〈日記〉に後年の手が入っていないという保証はないが、吉岡実の文章作法の要諦を見るには充分だろう。

 今年の六月の一夕、私と妻は早稲田の銅羅魔館へ行った。暗黒舞踏界の妖精堀内博子の独舞〈リジィア〉を見るためであった。陶酔の二時間のあと、二階の喫茶室で、私たちは、大野一雄や中村文昭と舞台の感想を話し合った。化粧をおとした清楚な堀内博子を拍手で迎えた。しばらくして、見知らぬ若い女性に声をかけられた。それが片山夫人であり、堀内博子と共に、笠井叡門下であるのも、奇縁というものである。夫人と帰り路いろいろ話をしたが、片山健は秋ごろ開く個展のために、息子中蔵の肖像ばかり油で描いているそうだ。私はそれでは色気がないと思ったので、奥さんの肖像とか若い女の顔なんか、描いていませんかと聞いたら、幾つか女をモチーフにした絵を描いていますが、それが妊婦ばかりでと言って、ほほえんだ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六五〜一六六ページ)

 夕方、陽子と早稲田の銅羅魔館へ行く。狭い小屋で、堀内博子の独舞〈リジィア〉を観る。冷房装置もなく、二つの扇風機が廻っているだけで、汗がふき出る。彼女は色彩のちがうローブを幾重にもまとう。その裾はずたずたに裂けて、まるで襤褸のように見えた。うずくまる姿態がかんまんに起き上り、気だるく踊るだけだ。この世の人でなく、美しい妖精のごとく。陶酔の二時間であった。二階の喫茶室で、大野一雄、中村文昭とくつろいで雑談。化粧をおとした清楚な堀内博子を拍手で迎える。
 帰りみち、突然、若い女性に声をかけられる。なんと、それが片山健夫人であり、堀内博子とともに笠井叡門下であるのも、奇縁というものであった。舞踏はあきらめ、詩を書いているとのこと。片山健は秋ごろ開く個展のために、幼い息子中蔵の肖像ばかり油で描いているそうだ。私はそれでは色気がないと思ったので、奥さんの肖像とか若い女の顔なんか、描いていませんかと聞いたら、幾つか女をモチーフにした絵を描いていますが、それが妊婦ばかりでと言って、ほほえんだ。(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一一四〜一一五ページ)

吉岡陽子編《年譜》の〈一九七九年(昭和五十四年)六十歳〉の六月には、「堀内博子エンゲルタンツ公演〈リジィア〉を観る」(《吉岡実全詩集》、筑摩書房、1996、八〇二ページ)とある。


吉岡実とリルケ(小林一郎、2009年1月31日)

1959年6月、四〇歳の吉岡実は自らの幼少年期に材を採った詩篇〈果物の終り〉(D・2)に「永遠の視点はジイドとリルケの書から俯瞰される」と書いて、生涯を通じてただ一度、自身の詩句に詩人の名を刻んだ。その直後、吉岡は初めてリルケの《ロダン》に言及した(〈救済を願う時――《魚藍》のことなど〉、初出は《短歌研究》1959年8月号)。

 昭和十六年の夏、私は出征することになった。リルケの《ロダン》と万葉集と《花樫》がとぼしい私の持物だ。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、六八ページ)

さらに初出時に「軍隊時代とリルケ」と見出しが付けられていた〈読書遍歴〉(《週刊読書人》1968年4月8日号)では茅野蕭々訳《リルケ詩集》も挙げている。

〔……〕堀辰雄の文章から、たぶんリルケをわたしなりに発見したのではなかったか。浅草仲見世の清水屋書店に行き、茅野蕭々訳の『リルケ詩集』を求めたときの感激を、今も忘れられない。リルケの詩とジイドの小説などがその頃の枕頭の書といえようか。
 昭和十六年八月から満洲へ出征し、朝鮮済州島で終戦を迎えるまでの、四年六ヵ月、わたしは果してどんな本を読んだか、その多くを記憶していない。軍隊の悲惨な日々の中で、ひそかに日記と詩を書きながら、折にふれて、岩波文庫のリルケの『ロダン』を読んでいた。内務検査の時、わたしはいつも厩舎の寝藁の中へ、七、八冊の翻訳書を匿したものだ。ゲーテの『親和力』もその数少い私物品の一つだった。
 リルケの『ロダン』の手仕事の精神が、戦後のわたしの詩作へ大きく影響しているといえる。朔太郎の詩、茂吉の短歌も戦後はじめて、むさぼるように読んだものだ。遅い出会いゆえ、その愛着は今でも深い。(同前、五七ページ)

吉岡は〈うまやはし日記〉(初出は《現代詩手帖》1980年10月号)に「〔昭和十四年〕六月十八日 浅草仲見世の清水屋書店で、渇望の茅野蕭々訳『リルケ詩集』を買う」(同前、二五九ページ)と新刊入手の感慨を書いているものの、リルケの本格的な影響は戦後10年を経た詩集《静物》(私家版、1955)に至ってようやく現われた。その間の事情を知るには、吉岡の〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉(初出は《東京新聞〔夕刊〕》1982年4月19日)を読むに如くはない。

 私は長いこと、新しい詩の方向を模索していた。既成観念では、陳腐な作品しか生まれないからだ。私は再び、岩波文庫のリルケ『ロダン』(高安国世訳)を手に入れ、読みはじめた。そしてある啓示を受けた。「再び」とは、以下の経緯があったからである。それは昭和十六年の夏、私は満洲へ出征した。携帯を許された、わずかな私物のなかに、数冊の書物を持って行った。翻訳書は、ゲーテ『親和力』とリルケ『ロダン』の二冊であったが、軍隊の内務検査のとき見つかり、この二冊は没収されてしまった。
 リルケの詩や『マルテの手記』を愛読していたが、深遠すぎて、詩作のうえでは、影響を受けなかった。まだ私は本気で、詩を書くことを、考えてはいなかったようだ。遊戯するように、超現実風の詩を、少しばかりつくったにすぎない。それらの詩を収めた、私の処女詩集『液体』が知己の手で、出版されたのは、大東亜戦争の始まった年の冬であった。
 さて、リルケの『ロダン』であるが、巨匠ロダンへの詩人の純粋な魂が、いかに傾倒していったかの、告白の書である。しかし、私にとっては、ロダンの偉大さは、どうでもよかった。透明な空間へ鋳こまれたような、リルケの言葉――肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根からのぼって行く、重くみのった葡萄のように房なす形象――というような陰影深い詩的文体に、私は魅せられた。

この石にさす光はその意志を失う。光はこの石の上をすどおりして他の物へ行くことができない。光はこの石に身を寄せ、ためらい、とどまり、この石の中に住むのである。

 ロダンの大理石の群像を、叙述した文のほんの一節だが、事物をみごとに捉えた、まさに一篇の詩である。『ロダン』一巻は、リルケがロダンの精神と彫刻を讃美しながら、自己の「詩論」を展開しているように、私には思われた。だが真の啓示を受けたと、いえるのは次の章句である。

何物かが一つの生命となり得るか否かは、けっして偉大な理念によるのではなく、ひとがそういう理念から一つの手仕事を、日常的な或るものを、ひとのところに最後までとどまる或るものを作るか否かにかかっているのです。

 この言葉はおそらく、ロダンの言葉であると同時に、またリルケの理念といってもよいのだろう。私は一つの方向を指示された思いだった。それからは、詩を書くときはつとめて、職人が器物をつくるように、「霊感に頼ることなく」、手仕事を続けてきたのである。それらの詩篇が、詩集『静物』へと生成していったのであった。(同前、二八七〜二八八ページ)

吉岡はこのあと、〈静物〉(B・2)を全行引いて同文を締めくくっている。「夜の器の硬い面の内で」と始まる〈静物〉(B・1)でないことに驚く向きがあるかもしれない。だが、書きおろしの《静物》の印刷用原稿作成の時点でこの「夜はいっそう遠巻きにする」が巻頭詩篇であったことを顧みるなら(〈吉岡実詩集《静物》稿本〉参照)、本作こそリルケの《ロダン》に学んだ吉岡が「新しい詩の方向を模索し」た結果の、おそらくは最初の一篇だった。ここで書誌的なことを述べれば、リルケの《ロダン》は吉岡の出征直前の昭和16(1941)年6月10日初版発行で、1960年9月発行の9刷で改版(改訳)されている。上掲文を読むかぎり、出征前に新刊本を、復員後に同じ訳文の一本を購入した模様だ。しかるに〈リルケ『ロダン』――私の一冊〉に引用されている訳文は改版(改訳)後のそれであり、吉岡は本文引用のために新たに同書を入手したものと思しい。ついでだから、吉岡が満洲の地で密かにひもといた初版の訳文から、漢字を新字に改めて引く。( )内は掲載ノンブル。

肉体の鎖、螺条、蔓。罪の甘露が痛苦の根から登り行く、重く実つた葡萄のやうに房なす形象。(42)

此の石に射す光はその意志を失ふ。光は此の石の上を素通りして他の物へ行くことが出来ない。光は此の石に縋りつき、躇らひ、止まり、この石の中に住まふのである。(73)

何物かが一つの生命となり得るか否かは決して偉大な想念によるのではなく、人がさういふ物から一つの手仕事を、日常的な或る物を、人のところに最後まで止まる或る物を作るか否かにかかつてゐるのであります。(87)

ここからだけでも《静物》に至る吉岡の足取りを推測することは可能だが、リルケの《ロダン》には興味深い章句が満ちている。改版(改訳)本から引用する。

 物(Dinge)
 この言葉を私が言ううちに(お聴きでしょうか)、或る静寂が起こります。物のまわりにある静寂。すべての運動がしずまり、輪郭となり、そして過去と未来の時から一つの永続するのものがその円を閉じる、それが空間です、無へ追いつめられた物(Dinge)の偉大な鎮静であります。(79)

戦時下の中国大陸で、そして戦後間もない東京で自身の詩を模索していた吉岡を、リルケの《ロダン》は霊感に頼らない「手仕事の精神」で鼓舞した。若き日に彫刻家を夢みていた吉岡が本書を手にしたのは、あるいはロダンへの関心が主だったかもしれない。しかし結果として、ロダンの「彫刻」よりも、さらにはリルケの「詩」よりもはるかに大きなものをもたらしたこの評伝は、吉岡の詩的出発を促す糧となったのである。

リルケ(高安国世訳)《ロダン〔岩波文庫〕》(岩波書店)の初版(1941年6月10日)と同・改版(1974年10月20日の22刷)
リルケ(高安国世訳)《ロダン〔岩波文庫〕》(岩波書店)の初版(1941年6月10日)と同・改版(1974年10月20日の22刷)

それでは、リルケの「詩」はどうだったのだろうか。吉岡実は〈手と掌〉(初出は《イメージの冒険3 文字》、河出書房新社、1978年8月)で次のように書いている。

 私が二十歳ごろ愛読したものに、茅野蕭々訳の《リルケ詩集》がある。このなかの、高名な〈秋〉という詩が好きだった。手元にこの本がないので、高安国世訳を借りる。

  木の葉が散る、遠いところからのように散る、
  どこか空の遥かな園が冬枯れてゆくように。
  木の葉は否むような身振りで散ってくる。

  そして夜々、重い大地は
  星々の間から寂寥の中へ落ちてゆく。

  私たちはみな落ちる。ここにあるこの手も落ちる、
  そうして他の人々を見るがいい。落下はすべてにある。

  だがこの落下を限りなくおだやかに
  その手に受け止めてる一人のひとがある。

 詩を書きはじめた者に、最初に思いつく魅力的なモチーフは〈手〉であると思う。しかし私は、リルケのこの詩を読んだ時、〈手〉の詩を書くことを断念したように思う。それとともに、世に〈手〉や〈掌〉をうたった詩歌が多すぎるように感じていたからでもある。〈手〉や〈掌〉の内在する象徴性にもたれかかって、安易に成立った作品を見ると、私はやりきれない気持になる。(同前、八五〜八六ページ)

高安国世の訳はおそらく《リルケ詩集〔講談社文庫〕》(講談社、1977)あるいは同じ訳文の《リルケ詩集〔世界文学ライブラリー〕》(講談社、1972)だが、吉岡はなぜ《日本の詩歌28 訳詩集》(中央公論社、1969)の茅野蕭々訳〈リルケ詩抄〉を引かなかったのだろう(《日本の詩歌27 現代詩集》には吉岡の詩4篇が収録されている)。同集の生野幸吉の〈鑑賞〉にこうある。「蕭々の訳は、やや硬くてぎごちないが、真率な語調をもち、奇を弄するところがないだけに、かえって原詩の真新しい断面を見せるところが多い。それはことに、つぎの「秋」においてそうである。//「秋」(Herbst)は一九〇二年の初秋にパリで書かれたもの。同じころ書かれた「秋の日」とともに『形象詩集』のなかでもっともすぐれた詩に属するとともに、もっともポピュラーな詩である」(同書、二七九〜二八〇ページ)。茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)から〈秋〉を掲げる。

葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。

さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。

我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他のものを御覧。総べてに落下がある。

しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく両手で支へる者が。

蕭々訳は《リルケ詩抄》が2008年4月、岩波文庫に入って読みやすくなったが、吉岡が執筆した30年前は入手しにくかっただろう。《ロダン》の訳者・高安国世のこなれた訳が気に入ったのかもしれない。どちらにしても、〈手と掌〉の根底にあるのは蕭々訳のリルケ詩に対する敬愛であり、吉岡がリルケから学んだのは、現実の「物」と対峙する詩精神のありかただった。戦争を挟んで初読から十数年を経て、《リルケ詩集》もまた《ロダン》とともに吉岡実の詩的出発を準備したといえよう。

茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)と同《リルケ詩抄〔岩波文庫〕》(岩波書店、2008年4月16日)
茅野蕭々訳《リルケ詩集》(第一書房、1939年6月10日)と同《リルケ詩抄〔岩波文庫〕》(岩波書店、2008年4月16日)

吉岡が戦前に読んだ《マルテ》は、堀辰雄訳によるその断章か大山定一訳の《マルテの手記》(白水社、1939)だろうが、おそらく戦災で焼失し、次に引く戦後の日記に出てくる《マルテ》は、1946年1月20日初版発行の望月市恵訳の岩波文庫版ではないだろうか。

〔一九四六年〕一月十五日 朝、リルケ《マルテの手記》を少し読む。(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》5号、1990、三三ページ)

昭和二十四年〕十一月十七日 〔……〕リルケ《マルテの手記》(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

前者は新刊を購入直後、後者は何度めかに読みかえしたときか。手許の《マルテの手記〔岩波文庫〕》の三版本(1974年3月30日:25刷)から、吉岡の琴線に触れたであろう箇所を引く。

 今では知るべのいない故郷の家を思うにつけて、僕は以前は死がまだこんなではなかったにちがいないと考える。そのころはだれもが、果実の種を秘めているように、自分の内部に死を秘めているのを意識して(または、感じて)いたにちがいない。(14)

 僕は恐怖に対して手段を講じた。朝まで寝ずに書くことにした。(20)

 見る目ができかけている今、僕は仕事を始めなくてはと考える。僕は二十八歳になるが、まだほとんど仕事らしい仕事をしてはいない。(22)

忘れていた恐怖が残らずよみがえっていた。〔……〕寝衣の小さなボタンが僕の頭よりも大きくはないか、大きくて重くはないかという不安、(66)

 この静けさのなかに音楽が聞こえずにいたろうか。今までにもかすかにいつも聞こえてはいなかったろうか。(131)

彼〔聖ジャン・ド・ディユ〕も断末魔の苦悶の孤独のなかで、庭で縊死したばかりの男のことを不思議にも聞き知り、臨終の床から跳ね起きて、その男の首からあやうく綱を切ったのであった。(169)

かれらの部屋には宿のない猫が夜ごとに訪れ、かれらをひそかに引っかき、かれらの上で眠るのである。(212)

 灯の下にひとりすわっている彼は、そういうことを瞑想し認識しながら窓前のベンチの上に果物を盛った皿を認める。彼は無意識にその皿からりんごを一つ取り、それを前のテーブルへ置く。彼の生活はその完成した果物をどのようにとりまいているのだろう、と彼は空想する。完成したもののまわりには、実現されなかった世界が常に上昇し高まるのである。(237)

リルケ(望月市恵訳)《マルテの手記〔岩波文庫〕》(岩波書店、1974年3月30日:25刷)とリルケ(手塚富雄訳)《ドゥイノの悲歌〔同〕》(同、1974年2月20日:17刷)
リルケ(望月市恵訳)《マルテの手記〔岩波文庫〕》(岩波書店、1974年3月30日:25刷)とリルケ(手塚富雄訳)《ドゥイノの悲歌〔同〕》(同、1974年2月20日:17刷)

吉岡実が最後に言及したリルケの作品は《ドゥイノの悲歌》だった(茅野蕭々訳《リルケ詩集》には、《リルケ詩抄》に追加する形で、〈ドゥイノ悲歌〉の第一・第四・第八悲歌が訳載されている)。

金井 吉岡さんはさっき、ずっと詩人でいなくてもいいとおっしゃっていたでしょ。この間会った時は、やっぱり詩を書くことがあるかも知れないっておっしゃっていて、あの時わりと感動しちゃったんですけど。
吉岡 高揚していましたね。だからあの時美恵子に言ったのは、これはすごく僭越なことなんだけど、リルケの『ドゥイノの悲歌』を模倣したものがぼくにできたらいいな、という願望があったわけ。ただ、ぼくなんか宗教的に悩みも何もないでしょ、無宗教で。だけどリルケのああいう中にはそうとう深くはいっているんじゃないかと思ってね。とてもそういう厚みのあるものはできないけど、将来長い詩が書けたら『ドゥイノの悲歌』の模倣的なものでもやってみたいなと考えているけれど……。〔……〕相当休んで、将来もし考えがまとまれば、そういう長い詩をやってみたいという気持ちが全然消えているわけではない――。(金井美恵子との対談〈一回性の言葉――フィクションと現実の混淆へ〉、《現代詩手帖》1980年10月号、一〇五ページ)

生涯をしめくくったであろう長篇詩は生まれなかったが、《薬玉》(1983)、《ムーンドロップ》(1988)と続く後期詩篇群を書きはじめる直前、吉岡実はリルケの思想的圧縮点を示す《ドゥイノの悲歌》に対抗すべく、一度は20世紀後半における「現世をテーマの長篇詩」を奏でようとしたのだった。


〈わたしの作詩法?〉校異(小林一郎、2008年12月31日)

〈吉岡実の装丁作品(62)〉で吉岡実装丁の《詩の本 K 詩の技法》(筑摩書房、1967)を紹介して、同書に収載された吉岡の詩論〈わたしの作詩法?〉に触れた。そこでは冒頭部分の否定辞を中心に吉岡の作詩法に対する基本姿勢を述べたが、今回は〈わたしの作詩法?〉の四つの掲載形の間の異同を調べた。結果を要するに、:《詩の本》(初出)の本文はほぼそのまま《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)に収録され、定稿化すべく手の入った《「死児」という絵》(思潮社、1980)の本文は、生前最後の版となった《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に原則保持されている。本校異ではの本文を最終形と見做して、間で異同のあるセンテンスのみ挙げた(歿後刊行の《吉岡実散文抄〔詩の森文庫〕》(思潮社、2006)の本文はと同形)。なお、の校正紙は未見。最初に〈わたしの作詩法?〉各本文の記述・組方の概略を記す。

:《詩の本 K 詩の技法》の印刷用原稿は、2008年12月現在未見。

:《詩の本 K 詩の技法》(筑摩書房、1967年11月20日、二五七〜二六五ページ)掲載形は、本文9ポ44字詰17行1段組、129行(空白行は行数に算入しない)。以下も、本文表記は基本的に漢字は新字体、かなは現代かなづかいで拗促音は捨て仮名。

:《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968年9月1日、一〇〇〜一〇五ページ)掲載形は、本文8ポ25字詰18行2段組、205行。

:《「死児」という絵》(思潮社、1980年7月1日、一三〇〜一四〇ページ)掲載形は、本文10ポ39字詰15行1段組、148行。

:《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988年9月25日、八七〜九四ページ)掲載形は、本文13級44字詰19行1段組、136行。

:《吉岡実散文抄――詩神が住まう場所〔詩の森文庫〕》(思潮社、2006年3月1日、七九〜八八ページ)掲載形は、本文13.5級41字詰15行1段組、141行。

《詩の本》(筑摩書房、1967)、《吉岡実詩集》(思潮社、1968)、《「死児」という絵》(同、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)、《吉岡実散文抄》(思潮社、2006)
《詩の本》(筑摩書房、1967)、《吉岡実詩集》(思潮社、1968)、《「死児」という絵》(同、1980)、《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)、《吉岡実散文抄》(思潮社、2006)

〈わたしの作詩法?〉は400字詰約12枚で、各掲載形とも真中に詩篇〈苦力〉(C・13)全篇、そのまえに8段落の文章、そのあとに同じく8段落の文章という構成になっている。これを踏まえて、詩篇を除く文章の各段落に(01)から(16)までの番号を振り、本文の異同箇所を示すためのアドレスとする。漢字の字体やルビの体裁の相違など、細かなものを除いた主な異同は次の10箇所である。

1. (03)或る絵画が見える〔12、→34。〕女体が想像される〔12、→34。〕亀の甲の固い物質にふれる。
2. (05)推敲〔12[すいこう]→34(トル)〕は一見、作品を磨くという行為であるが、又反対に、常識的に、平板なものに改悪する危険がある。
3. (06)だれにでも詩のなかで使うことばで、好きなのと嫌〔12(ナシ)→34い〕なのがある。
4. (08)それは、見〔12え→34(トル)〕るもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。
5. (〈苦力〉)黄色い砂の〔12龍→34竜〕巻を一瞥し
6. (〈苦力〉)徒労と肉〔12慾→34欲〕の衝動をまっちさせ
7. (09)〔(1字下ゲ)→23(天ツキ)→(1字下ゲ)〕ここに、「苦力」という一篇がある。
8. (09)つぎの日は、〔123かえ→帰〕った。
9. (11)「瓜のかたちの小さな頭」とは、彼らの頭が小さいわけで〔12(ナシ)→34は〕ないが、裾の長い藍衣を着ているので、そう見える。
10. (12)これは誤りであるが、わたしにとって、餌食する≠ヘジショクする≠ナなければならない〔が、→234。〕今〔(ナシ)→234で〕は別に餌食[エジキ]する≠ナよいと思っている。

以上の異同の内実と背景について考えてみよう。

1. 読点2箇所を句点に変更したのは、動詞を現在形で止めて短文を連ねた方が(03)の「意識のながれ〔……〕を停止すること」の実態に沿うている、と判断したためだろう。
2. 「すいこう」という読み仮名を吉岡が付けたとは考えにくい。掲載時に《詩の本》の編集部が付したものか。おそらく(03)の「泛[うか]」も同様だろう。
3. 「嫌」を「いや」と読まれるのを避けた手入れか。
4. 「実在」=「手にふれられるもの」=「重量があり、空間を占めるもの」という同格だから、最終形の「見るもの」ではなく、初出と〔現代詩文庫〕の「見えるもの」を採りたい。「見るもの」だと、「見る物」としての対象なのか、「見る者」としての主体なのか、意味と映像の両面で濁りが生じる。これが吉岡の手入れか、組版上の手違いか迷うところだ。ちなみにの〈日記抄――一九六七〉の小見出し「六月二十日」(二四ページ)がでは脱落しており(一三ページ)、の校正作業が鉄壁ではなかったことをうかがわせる。
5と6. 〈苦力〉の漢字2箇所の変更は、残っていた旧字を新字に統一した措置(なお〈吉岡実詩集《僧侶》本文校異〉の〈苦力〉を参照のこと)。
7. で天ツキとなったのは、おそらく組版上の手違いであり(の当該箇所がちょうどページの最終行で、1字下ゲであることがわかりにくい)、で旧に復していることからも、吉岡による手入れではないと思われる。――とで校閲機能が働いているのを目の当たりにすると、先ほどの言に反するが、4.の「見〔12え→34(トル)〕るもの」が吉岡の手入れのようにも思えてきて、本文決定上、悩ましいところである。
8. 「返」ではなく「帰」であることを明確にした手入れ。(12)に「その帰り豪雨にあい、」とある。
9. 意味からいっても、語調からいっても、妥当な手入れ。
10. 「……が、……が、……。」と接続助詞の「が」が重なることを避けた手入れだろう。

ここでもう一度振りかえると、吉岡による手入れ(もしくは組版上の改変)のなかった段落は、前半が(01)〜(02)、(04)、(07)で、後半が(10)、(13)〜(16)である。ところで、(01)〜(16)の本文全体から重要な段落をひとつ選ぶとすれば、多くの人が(08)を挙げるに違いない。大岡信は吉岡との対話〈卵形の世界から〉で(08)を朗読しているので、その発言を引く。

大岡 きみが書いてる文章でね、吉岡実の詩的宣言みたいなものとして、すごい完璧な文章があるんだよ。筑摩書房の『詩の本』に載ってる『わたしの作詩法?』。これのなかで、「或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う」というところから始まる一節ね、ここはもう、詩についてどう思うかっていわれたとき、きみは安んじてここだけ切り抜いて渡せばいい部分だね。たとえばそのあとつづいて、「もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。詩は感情の吐露、自然への同化に向って、水が低きにつくように、ながれてはならないのである。それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである。だから形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が必然的に要求される」。このあたりは実に見事な散文だね、それから「能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」という、ここも素晴しいんだけどね。「だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの支点をつくり複数の中心を移動され〔「せ」の誤植〕て、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」。まさに吉岡の最高の散文詩ですよ。詩論として、わずか一枚半ぐらいの文章だけどさ。(《ユリイカ》1973年9月号、一五六ページ)

対談の原稿や校正を出席者がチェックするのは当然だから(編集部や校正者は朗読された「 」内の原文をもしくはで確認しただろう)、吉岡は大岡の発言の「それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである」を目にしていたはずだ。つまり、この時点で「見えるもの」はスルーだった。もっとも、いくら自分が書いた文章でも、対談相手の朗読内容に手を入れることはしないだろうから、これをもって吉岡が「見えるもの」を容認したと断定することはできない。いずれにしてもここは、著者を含めた誰にとっても1973年の夏までは「見えるもの」だったのだ。それが1980年の吉岡初の随想集で「見るもの」となったのは、いかなる理由によるのか。謎というほかない。

〈わたしの作詩法?〉は吉岡の詩論としては唯一の文章だが、同様の主旨はこれ以前、入沢康夫との対談〈模糊とした世界へ〉(《現代詩手帖》1967年10月号)で公にされている。同対談での吉岡の発言(と略記する)とそれに対応するの本文(段落を番号表示する)を以下に掲げる。

D ぼくは詩についての方法とか何とかについて語れないし、語りたくないというか、ぼくは詩について論理的に語れない。〔……〕だから自分の詩なんか、はっきり語れないんですよ。
(01) わたしに作詩法といえるものが果してあるだろうか、甚だ疑問だと思っている。いかなる意図と方法をもって詩作を試みたらよいのか、いまだよくわからない。

D 詩というものは一回平面に書いてみて、それから斜[はす]に見た点で書いて、横から書いて、それらを組み入れていって果してできるかどうかやったけど、結局できなかった。意識的にはできない。
(08) だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼をもつことが必要だ。

D 〔……〕ぼくのなかに形態のあるようなものは確かにあるんですよ。表面張力を絶えずもっているものをやはりつくっているわけだ。それがやはりぼくが求めているものなんだね。
(08) 能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる。

 ぼくが子供の頃、漠然と夢見たのは彫刻家ですね。いろんな事情で彫刻家が駄目になり、絵かきも駄目で、それで詩を書いてしまった。書く場合にも、手にとれるものが欲しい。
(08) 或る人は、わたしの詩を絵画性がある、又は彫刻的であるという。それでわたしはよいと思う。もともとわたしは彫刻家への夢があったから、造形への願望はつよいのである。

 誰にも言葉の意味ということがあるでしょう。ぼくの詩には、稀れにはあるかもしれないけれど、「彼」とか「きみ」とか「おまえ」とか、そういう観点が出てこないんだ。
(07) それから、「きみ」とか「あなた」とか呼びかける二人称を使って詩の構造を複雑にする方法をとっていない。「きみ」「あなた」とは、神であり、社会であり、そして肉親、恋人、そして未知の人である、一種のあいまいさが、わたしにはどうしても納得できなかったからである。

 それから、ぼくが詩に使っていない言葉は「言葉」とか「文字」とか「活字」とか「紙」とか、本につながるものは意識的に使わないですね。使うことに耐えられない。それはどういうことかわからないけど。
(06) だれにでも詩のなかで使うことばで、好きなのと嫌いなのがある。わたしの場合、使わぬ文字がいくつかある。例えば「活字」「紙」「頁」「言葉」「文字」。これで一つの性格が読みとれると思う。それらは、本、新聞、雑誌類に関係した言葉である。精神的に嫌悪しているのだ。詩は「文字」・「言葉」であるゆえに、直接にわたしは自己の詩の中に持ちこまないのである。

 ぼくは手帳はいっさい持たないんですよ。それから思いついて書くとか、いわゆるインスピレーションは信じないんです。やはり、詩は書くべきだという姿勢から始める。
(03) だからわたしは手帖を持ち歩かない。喫茶店で、街角で、ふいに素晴しいと思える詩句なり意図が泛[うか]んでもわたしは書き留めたりしない。それは忘れるにまかせることにしている。わたしにとって本当に必要であったら、それは再び現われるに違いないと信じている。

 勿論推敲はないとは言えないけど、例え未熟であっても、リズムのなかから出てきた言葉がさめてはいけないし、そのまま生かしたほうが生き生きとしたものになるんじゃないかという感じがありますね。歌でも俳句でも詩でも、よく推敲を重ねる人はあるけど、ぼくとしてはそういう方法はとらない。詩は冷静じゃなくて、ある狂気の状態のなかでできるわけで、それを冷静に判断して切っちゃったらつまらないですよ。まして後年手を入れたら全然駄目だと思います。
(05) わたしは自己のなかで一応出来た詩篇はできるだけ手を入れないことにしている。推敲は一見、作品を磨くという行為であるが、又反対に、常識的に、平板なものに改悪する危険がある。或る混沌から生まれた内的なリズムとエネルギーを冷却させる悪作用をおよぼすからだ。過去の作品にたえず手を入れる作家たちを良心的な態度と見る弊習が世にある。わたしの知るかぎり改悪の例が多いと思う。推敲は本来、いくらやってもしすぎるということはないといえる。しかしそれは習作のうちに、未完成なうちにやるべきであり、まだ公表すべきものではないのである。発表したら作者は引き下って読者にいさぎよく作品をゆだねるのがわたしはすくなくともよいと思っている。

 だから、ぼくの場合は「死児」はテーマがあったけれども、あとはあまりテーマなしで白紙の状態で始める。
(02) わたしは詩を書く場合、テーマやその構成・構造をあらかじめ考えない。白紙状態がわたしにとって、最も詩を書くによい場なのだ。

対談での吉岡の発言(土方巽の「舞踊」や日本の古典文学への言及もある)がすべて〈わたしの作詩法?〉で展開されているかといえば、否である。

吉岡 だから、シュールとか夢とか言われることがあるけど、ぼくはリアルだと思うし、リア〔リ〕ティがなければ駄目だと思っている。一行一行で見れば、リアルなことしか書けない。「コップが人を飲む」なんてことは書かない。現実主義でやってきたと、ぼくは思っています。成り立ちというか方法からああいう詩になっていても、夢でなくて、現実を描いているつもりです。だから、一行一行分析してみれば、そんなに唐突なことは書いていないですよ。意識的にやった妙なものもなかにはあるけれども、リアリティのあるものの積み重ねを努めてやっているわけです。ぼくは夢を見る人間ではないと自分で思っています。自分で振りかえってみて、やはり一つの日録というか日記に近いものにぼくのなかではなっていますよ。西脇先生のこの頃の詩が或る日記であると同じように、ぼくも振りかえってみて、その時代その時代の日録に近いものになっていますね、他人から見たらわからないと思うけど。(《現代詩手帖》1967年10月号、六〇ページ)

「意識的にやった妙なもの」は(12)の「餌食[ジショク]する」や(14)の「万朶の雲が産む暁」の自解を想わせるが、自分の詩が「その時代その時代の日録に近いもの」だという所信は、吉岡実にとっての「リアリティ」の至上性とともに、傾聴に値する。

〔付記〕
佐藤紘彰訳の英訳詩抄《Lilac Garden: Poems of Minoru Yoshioka》(Chicago Review Press、1976)所収のJ. Thomas Rimer〈Introduction〉も件の「それは、見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在――を意図してきたからである」を引用している。

Poetry is planned to be something visible, something you can touch, that has weight, that occupies space -- that has actuality.(同書、xiiiページ)

註に「“What Is the Way That I Write Poetry?”(watashi no sakushiho?), Yoshioka Minoru shishu, No. 14 in the series Gendaishi bunko published by Shichosha, Tokyo」とあるとおり、底本は:《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》(思潮社、1968)で、「something visible=見えるもの」となっている。


吉岡実詩集《僧侶》本文校異(小林一郎、2008年11月30日)

吉岡実詩集《僧侶》はちょうど50年前の1958年の11月20日、伊達得夫の書肆ユリイカから刊行された。20世紀後半・昭和後期の日本を代表する詩集といっていいだろう。《僧侶》は全19篇から成る。うち5篇が書きおろしで、本書以前に雑誌に発表された詩篇は〈告白〉(1956年4月)から〈聖家族〉(1958年7月)に至る14篇を数える。本校異では、雑誌掲載用入稿原稿形、初出雑誌掲載形、詩集《僧侶》掲載形、《吉岡実詩集》(思潮社、1967)掲載形、《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996)掲載形のうち、雑誌掲載の14篇はからまでの、書きおろしの5篇はからまでの詩句を校合した本文とその校異を掲げた。これにより、吉岡が詩集《僧侶》各詩篇の初出形本文にその後どのように手を入れたかたどることができる(印刷物の校正紙が見られないのは残念だが)。本稿は、からまでの印刷上の細かな差異(具体的には漢字の字体の違い)を指摘することが主眼ではないので、シフトJISのテキストとして表示できる漢字はそれを優先した。このため、ユニコードによる「瀆」や「蠟」や「禱」の代わりに、不本意ながらシフトJISの「涜」や「蝋」や「祷」を使用している点をご諒解いただきたい。最初に《僧侶》各本文の記述・組方の概略を記す。

雑誌掲載用入稿原稿:詩集掲載用入稿原稿とともに、2008年11月の時点で未見。入沢康夫〈国語改革と私〉には「吉岡さんの場合は、自分から進んで、『僧侶』以降は「現代かなづかい」に切り替へた」(丸谷才一編《国語改革を批判する〔日本語の世界16〕》、中央公論社、1983、二二八ページ)とある。

初出雑誌:詩集に初出の書きおろしも含めて、各詩篇の本文前に記載した。

詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組。

《吉岡実詩集》(思潮社、1967年10月1日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰14行1段組。

《吉岡実全詩集》(筑摩書房、1996年3月25日):本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、10ポ27字詰19行1段組。

肝心の《僧侶》の原稿だが、漢字はおそらく新字、かなは新かな(拗促音は小字すなわち捨て仮名)で書かれたと考えられる(この表記スタイルは、吉岡の晩年に至るまで変わらない)。ひらがな・カタカナの拗促音は最終形を収めた全詩集で小字に統一されたこともあり、初出形がこれと異なる場合も全詩集に合わせて小字表記とした。なお初出雑誌掲載形のひらがな・カタカナの表示は、各詩篇の本文前に記載した組方の概略に基づいて、再現[リヴァース]することができる。

吉岡実の手入れを小林一郎が赤字で再現した詩集《僧侶》のファイル〔全初出詩篇のモノクロコピー〕
吉岡実の手入れを小林一郎が赤字で再現した詩集《僧侶》のファイル〔全初出詩篇のモノクロコピー〕

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《僧侶》詩篇細目

  詩篇標題(詩集番号・掲載順、詩篇本文行数、初出《誌名》〔発行所名〕掲載年月(号)〔(巻)号〕)

喜劇(C・1、21行分、《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕)
告白(C・2、16行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕)
(C・3、13行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕)
仕事(C・4、20行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕)
伝説(C・5、11行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1956年〕)
冬の絵(C・6、21行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1956年〕)
牧歌(C・7、27行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕)
僧侶(C・8、9節84行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕)
単純(C・9、22行分、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕)
(C・10、32行、《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕)
固形(C・11、24行分、《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕)
回復(C・12、20行分、《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕)
苦力(C・13、39行、《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕)
聖家族(C・14、21行、《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕)
喪服(C・15、29行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕)
美しい旅(C・16、19行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
人質(C・17、28行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
感傷(C・18、6節99行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日〔執筆は1958年〕)
死児(C・19、Q節189行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕)

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喜劇(C・1)

初出は《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕五三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ23字詰15行2段組、25行分。

台所の隅で 背中を裂かれた卵が泛び上る 長い夜の岸に近く 眠っていた一人の男が立ちあがった 肩に一匹の帽子をかぶった猫をのせて 男は死んでゆく妻のために穴をほる 食物と金をつんだ手押車が反対に出てゆく その道筋をふさぐ寝台の脚と什器類 男が哭きながらな〔12ぜ→34で〕るため 猫の咽喉から葡萄状にねずみの姿は溶け 正面の月を消す 遠くから向きをかえる森の樹 やがて雪をかぶり 小さな部屋へ男と斜視の眼の猫を呼び戻す だが歩くことはない 元から煖炉の前で男はグラスに酒を注ぎ 猫は屋根裏を走っていたのだから 寒がりの男は脱毛する猫をねらう 完全な裸の猫のまぶしさに男は眼をふせる その夜の窓をのぞく鳥はどれも 死んだ妻の髪のかたちをするので射ち落す 男はおもむろに猫の四肢を解く その波の手の没するのは黄色を増したバターの壺 危険な培養に魅了され〔る→234(全角アキ)〕医者の髯をつけ男は汗をながす 思わず猫はグラスを砕く その時たしかに男は救われたのだろう 噴霧器のなかの指はアミーバの昂進を止め 人間の手に退化したのだから そのうえ破片の間から輝く血をながした 重い物を支えたくなったのだろう 男はあたりを見まわし 鋏や固い家具にとりまかれていたのに驚く それからは傷つかぬ部分 足や顔や性器を急に大切に取扱う 丈夫な皮の袋から 男は二度と現われぬ

告白(C・2)

初出は《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕三一ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は並字)使用、8ポ24字詰16行2段組、18行分。

わたしは知らないことは 他の人に告げぬ また他の人の声が造る石膏のまわりを歩かぬ わたしはただ全体の力のあつまる 短い斧でふれようとあせる 立っている物なら たおれるまで石の上で押す 横たわる物ならとびのる 回転する物なら手で捲く わたしの黒い肉に喰い込んでくるまで そして淋しく出てゆく蛾や血管の列に通路を譲る それが女なら眼のなかに突き戻す 十全なしなやかさと冷たい湖を湛えるまでわたしはしんぼうづよく待つのだ 食べ物なら吐く 壜や容器の沈んでいった〔デ→234テ〕ーブルの下の暗のうちに 次々と魚と鳥の首を切りおとしながら 役立つ物と不要の物を分類する だが間違いはあり得るのだ その時は羽毛とうろこの泡を拭き 窓のガラスの外の出来事を見ようとする 子供の縄とびを ひとつの夜を生む煙突のマッスを 果ては木理の層にねむる樹の叫びで わたしは走り出す 一人の裸の形をして 習練と忍耐を具現した黒い像として 雨にぬれてゆく ここでのこの事実は他の人に告げられる

(C・3)

初出は《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕四九ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、8ポ24字詰16行2段組、14行分。

(全角アキ)→234(天ツキ)〕島へ上り 男は岩角でみつける 獣や魚の大きな弓なりの骨片の類 自転しながら太陽が晒した くろい蛸のあたまの収縮図 徐々に水平になってゆく男の眼の岸は 鋭角的な月の出だ 忘れよう 今ひじょうな鮮明度で 海鳥の卵が迫る こんな時どうして音楽が聴かれないのだろう それが不眠性の弧を形づくるとき 男のなげだした遠い手足がわずかにうごく そのたび下の端から 島の面積が狭〔ば→234(トル)〕まりだす ここはたしかに明日の落日の巣だ 飛び立たぬ幻の鳥たちのために 男のかたわらに拡大される はげしく光に曝された卵の全面 どこを探しても冒険ずきの人間の爪の痕ひとつ見あたらぬ 選びはしない このアトラス 男はやせた胎内から 少しの声と血をしぼりだす 絶縁体に沿うて向う側を冬の波がすべり続ける

仕事(C・4)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕八ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ13行2段組、20行。

荷揚地は雨だ
玉葱と真昼のなかで
その男はいつも重い袋の下にいた
仲間は盲目の者ばかり
船からおろす荷の類
すべて形が女にちかいので
愉快にかついでゆく
ありあまる植物の力
はげしい空腹と渇き
やみから抽き出された
一つの長い管を通りぬけ
坐りこんだ臓物
その男は完全に馴致された
だが習性の眼は観察をあやまたぬ
見えていた百本の煙突が陸地から姿を消す
その男はいそぎ足で家路へ向う
独りの食事を摂り
卑猥な天体を寝床に持ちこむため
臭いシャツの背中を星が裂く
その男は川に平行された

一九五六・九・一五→234(トル)〕

伝説(C・5)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)一六〜一七ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号27字詰13行1段組、11行分。執筆は1956年。

椅子の上から 跳びおりてゆく 猫の毛のなかの跣足 刹那のことだが 大写しになり 花の深いひだに 吸いこまれた 誰でもが初めてのことだと驚く 木製の四つの脚 床をしばらく跛行し 部屋の隅で急に停止し 椅子は伝説化された 事件を知らぬ男 かぶった毛布から現われ 椅子にこしかける 流通する熱と臭気をぬきながら 肛門につながる管をけんめいにたぐり出す 抑えきれぬゴムの状態で かさばりはじめ 部屋中を占めてのたうちまわる ものの鼓動 快楽の伸縮 夜のため その男は久しい前から 猫と顔をならべ 管にかこまれたまま 暗くなってゆき 息をころしてゆき 消える間際で 火事だと叫んだ

冬の絵(C・6)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)一八〜一九ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組、21行分。執筆は1956年。

他人には見えないものが いくつかぼくの部屋にある たとえばベッドの脚と壁との間に 一週間前からぼくがぬいだ長靴が置かれている ひとつはたおれて折れ 片方は立っているにすぎない ぼくの記憶のあいびきの雨のなかでのみ濡れ ぼくの悪癖のベッドの下でのみ乾き ひびわれる 下宿の女主人はただ一つの理由でしか ぼくの部屋をおとずれぬ 猫が子を産みにくる時だ 毛の太い束の尾が床をこする 夜から朝へ女主人は黒い箒をうごかす ぼくは病気になりきり 毛布の下でえびの真似をしている 女主人は陸に棲む人 スリッパをはき 藻のゆらめき 岩かげの海の湿ったひとでの開閉の兆しもさとらず ボール函に六匹の生れた猫をつめて出てゆく ぼくは夜へ向く出窓を少しあける それが一番大事な日課だ 女主人は脱衣し 川へ沈んだ六匹の猫の子の体温と弾力をよみがえらせ 浴槽から湯水を溢れ〔出→34さ〕す ぼくには危険だ 上も下もある階段の途中は ぼくは見つける 壁に立てかけた 自殺した画家のカンバスを ぼくの持物のうちで それだけが光に耐えよう 女主人の臀部のばら色の地震から その絵がぼくをまもってくれる唯一のものかもしれぬ 貧しい画家であった男が存分に描いた 怒りの構図 とおくに或はちかくに 落ちこんだ深みから やたらにのりだそうとする 困憊した石のトルソたち

牧歌(C・7)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕九ページ、本文新字新かな使用、9ポ15行2段組、27行。

村にきて
わたしたち恋をするため裸になる
停る川のとなりで
眠らぬ馬をつれだす
飼槽の水と凍る星の角に
かさばる女の胴体と同じ重さの
こわれる物を搬ぶ
桶の底をはいつくす
なめくじやむかでの踊り
わたしたちすばやく狩りたてる
羽毛のない鳥やゴムの魚
朝啼いて夜だまる可憐な獲物を
枯れた藁と茜いろの雲のあいだで
しきりに移動したえず噛むもの
小屋にとじこめ
窓から月を押しだし
火をおこす
食物にならぬ四つの腿の肉をやき
飲料にならぬレモンをしぼる
小屋の主人は行方不明
マダムは心中未遂
子供は街の学校の便所のなか
にぎやかな運命
わたしたちここに停るもの
わたしたち裸のまま
火事と同時に消えるもの
多勢の街の人々が煙を見にくる

僧侶(C・8)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕三七〜四一ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、9節84行。なお、節表示のアラビア数字やローマ数字の位置は、が二字下がり、が天ツキ、が三字下がりだが、本稿では天ツキに統一し、数字の表示内容に異同がないため、を含めて校異の対象としなかった(以下同)。

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
か→234こ〕うもりが叫〔け→234(トル)〕ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自涜
一人は女に殺される

四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ
聖人形をおろし
磔に牝牛を掲げ
一人が一人の頭髪を剃り
死んだ一人が祈祷し
他の一人が棺をつくるとき
深夜の人里から押〔(ナシ)→234し〕よせる分娩の洪水
四人がいっせいに立ちあがる
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

四人の僧侶
夕べの食卓につく
手のながい一人がフォークを配る
いぼのある一人の手が酒を注ぐ
他の二人は手を見せず
今日の猫と
未来の女にさわりながら
同時に両方のボデーを具えた
深毛→234毛深〕い像を二人の手が造り上げる
肉は骨を緊めるもの
肉は血に晒されるもの
二人は飽食のため肥り
二人は創造のためやせほそり

四人の僧侶
朝の苦行に出かける
一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
一人は街から馬の姿で殺〔りく→234戮〕の器具を積んでくる
一人は死んでいるので鐘をうつ
四人一緒にかつて哄笑しない

四人の僧侶
畑で種子を播く
中の一人が誤って
子供の臀に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ
洗濯物は山羊の陰〔のう→234嚢〕
洗いきれぬ月経帯
三人がかりでしぼりだす
気球の大きさのシーツ
死んだ一人がかついで干しにゆく
雨のなかの塔の上に

四人の僧侶
一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
一人は世界の花の女王達の生活を書く
一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
一人は死んでいるので
他の者にかくれて
三人の記録をつぎつぎに焚く

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足〔(全角アキ)→234(ベタ)〕生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気
石塀の向うで咳をする

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

単純(C・9)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕三〇ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ25字詰15行2段組、24行分。

警戒もされずにその男は死んだ 尾〔底→234骶〕骨のいちじるしく突起した男に 妻は憎しみしかもたず 眼のわりに舌がつめたくかがやくので 乳房のゆたかな女である妻にはたえられぬ 食事するとき以外は うごきが非常にかんまんだ むしろないといえる ことに就寝するとき 植物の花をつけぬ部分を感じさせ その男はくもの巣のいとにひっぱられて 地に伏してゆく陰惨な形態をとる しかし死んだ妻にはそれはどうでもよい ただ毎日たえず波うつ手で 壁の向うに飼っている犬に餌を与える その偽証が心から妻を死なせないのだ じぶんの美質をうけつぐ猫が屋根で雪をかぶり 生きていることがはがゆい もしじぶんの蛇腹が暗の裡から充分のび 男の歩きまわる部屋へ突き戻せたら 勝目はある 石膏の胎児を孕めるから 犬は男の身のまわりのせわをやき 困らせたり笑わせる それからさきの甘美な操作はできぬ 男は生きるためには 死んだ妻の猫を塵ばかりふる屋根から呼び戻して 芸を仕込まねばならぬと考える 世俗的な事柄でなく 美しい女に仕立てあげ 最初の夜は寝台であたためて 溺死者の好む月をのぼらす 裸の女の姿勢と葉の下に息づく桃の半熟の羞恥を えとくさせるべく大声をだした 夏がきた稲妻の紐をたらして 男は人間である証拠のゆえに死ぬのか 頭は犬の血をさわがせ 下半身は猫の毛に蔽われたまま 汗の強国から 肌寒い一寒村へと葬られた

(C・10)

初出は《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕六二〜六三ページ、本文新字新かな(カタカナの拗促音は並字)使用、9ポ19行1段組、32行。

(Y・W に)→234Y・Wに〕

蝋びきの食物の類をみて歩く
女たちの腋毛は甘い先験の夏を輝かせ
肥満家族は跳ねまわる
ぼくは恥ずべき小さな西瓜をもつ男
タイヤ型の夕方の海岸にきて
赤と灰色の縞をつけたテントの入口を探す
ぼくと同じ不具性の女を求め
一廻り二廻り
紡錘形の骨格のうえにタオルを巻き
みじめなシステムの砂に穴をあける
ぼくは吃るばかりだ
次の水死者を慰める不揃いの藻の毛を撫〔12ぜ→34で〕
ぼくの精神の塩を波が引いてゆく
毎年ぼくを冒涜する夏
夜の砂の情事
間近〔か→234(トル)〕にみる果実のフォルム
夥しい未成年の魚の裸体
そのうえ外観から収縮してゆく氷
ぼくの凌辱本能がぼくの眼から
全ての生物へ伝染し
実用の陸地を見失わせる
ぼくは女を触覚し
子供用の浮袋を首へ徐々にはめこむ
いまこそぼくは笑う
心の帆の傾むく支柱へ向き
ぼくのプライドを砕き
ぼくの肉声と大脳を晒しつづける
内省の夏の海
暁の板の海
違い段の沖へ
ぼくは生臭い風を受け
自己の血を狩りに出る

固形(C・11)

初出は《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕三四〜三五ページ、本文新字新かな使用、9ポ25字詰18行1段組、26行分。

ぼくの偏見は多くの人をこまらす ときに植物の茎という茎へ剃〔刀→刃→34刀〕を当てる 切口から展開される 悲劇的なばら色の育たぬ家族を見つける 水ものまず 光も咥えることのできぬ 薄い膜の男女 かすかな交接のひびき 花粉は壁や寝具を汚す さわると固いざらざらの粒に近い それゆえ子供は玩具の車の世界を走らぬ 遊び場は母の子宮 日蔭のへちまの棚の下 そこで滑る ぼくはすたすた田園を出る ぼくの信条は 物は固形ですわりよくあらねばならぬと考える 立てかけられた斧へ同時に迫るぼくと一匹のとんぼの複眼 ぼくは余す所なく ランニング姿の全身を写し 段違いの虹や山嶽の氷の錐を背負う あらゆるやわらかい蛙がきらいだ 固い羽 固い雨なら両手で愛撫する 試みに一つの〔12罎→34壜〕を蹴る 人が信ぜられぬほど ぼくは恍惚として街に入る 攻撃された寺院の外側の石塀を叩く これこそ上等の遊戯だ 病院へゆく若い姙婦のあとをつける だんだん坂をのぼり石の縞目が中心へ向き 細い線を描いてゆき がまんできないすべすべの頂点で 白い腹を見せる 医者の笑う時だ 鐘が乱打される火事の夕刻 鉗子やうごく鋏が皮膚をのばし 袋の中身の頭をむか〔い→234え〕にゆく ぬるい種子のたんぽぽの周囲は 痛みをつけてむしられる 脂肪が清潔なランニングをふきつける ぼくは真の固形をみて〔あ→焦→34あ〕せる もろい下の躰の管をすすむ血の粗い無責任な軍隊を見すごす そこでぼくは街を出る 風がぼくを氷る人・滑る物に替える だからぼくはつねに笑わず さようならもしない

回復(C・12)

初出は《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕五三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ20字詰16行2段組、26行分。

らっきようを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを いまは四月 蜂の腰がうごく うず高く花粉の積まれてゆく皮膚や野に 色情の末路の月が近づく ぼくの砕けた大腿骨は永い閑暇のゆえに 血の音楽を聴き 燐質化〔(ベタ)→234し(全角アキ)〕或は精分を放電しては 黒い杖として さびれた田園風景の一齣を見せる 一つの藁の山へ挿し込まれたまま 交媾のさけびもあげず 二羽のからすを飛び立たせる たびたび姉は見舞いにきて 隣の患者の悪性の患部を讃美し ぼくの下向きの頭を叩いては 一時的にもざくろの実の爆発を誘致するのだ つねに凍る庭園を歩む 多くの鶴や看護婦のむれより ぼくは醜い女を接近させ 不粋な辞書と肉感の夢を持つ母胎を攪拌し 次にはげしい薬品の臭いを嗅ぐ たちまち再生の香油をぬられ 〔慚→234漸〕次の死がぼくを襲う 既製の衣服の観念はうばわれて 不快な動物だと 女が幼時から信じてきたらくだの形で ぼくは膝をつく 面倒はどの世界でも起る 搬び出される担架の上で 糊づけの肉と骨の摩擦がはじまる払暁だ 渇きは眼を媒介して 解けだす氷の沼から漲って来る 胎生の魚なみに尾までぬらし ぼくは水を一気に飲み干す

苦力(C・13)

初出は《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕九二〜九三ページ、本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、9ポ20行1段組、39行。本篇執筆の状況は、吉岡の詩論〈わたしの作詩法?〉に詳しい。

支那の男は走る馬の〔腹の→234(トル)〕下で眠る
瓜のかたちの小さな頭を
馬の陰茎にぴったり沿わせて
ときにはそれに吊りさがり
冬の刈られた槍ぶすまの高〔梁→234粱〕の地形を
排泄しながらのり越える
支那の男は毒の輝く涎をたらし
縄の手足で肥えた馬の胴体を結び上げ
満月にねじあやめの咲きみだれた
丘陵を去ってゆく
より大きな命運を求めて
朝がくれば川をとび越える
馬の耳の間で
支那の男は巧みに餌食する
粟の熱い粥をゆっくり匙で口へはこびこむ
世人には信じられぬ芸当だ
利害や見世物の営みでなく
それは天性の魂がもっぱら行う密儀といえる
走る馬の後肢の檻から〔(ナシ)→234たえず〕
たえず→234(トル)〕吹きだされる尾の束で
支那の男は人馬一体の汗をふく
はげしく見開かれた馬の眼の膜を通じ
赤目の小児・崩れた土の家・楊柳の緑で包まれた柩
黄色い砂の竜巻を一瞥し
支那の男は病患の歴史を憎む
馬は住みついて離れぬ主人のため走りつづけ
死にかかって跳躍を試みる
まさに飛翔する時
最後の放屁のこだま
浮ぶ馬の臀を裂く
支那の男は間髪を入れず
徒労と肉〔12慾→34欲〕の衝動をまっちさせ
背の方から妻をめとり
種族の繁栄を成就した
零細な事物と偉大な予感を
万朶の雲が産む暁
支那の男はおのれを侮蔑しつづける
禁制の首都・敵へ
陰惨な刑罰を加えに向う

聖家族(C・14)

初出は《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕二二〜二三ページ、本文新字新かな使用、9ポ16行1段組、21行。

美しい氷を刻み
八月のある夕べがえらばれる
由緒ある樅の木と蛇の家系を断つべく
微笑する母娘
母親の典雅な肌と寝間着の幕間で
一人の老いた男を絞めころす
かみ合う黄色い歯の馬の放尿の終り
母娘の心をひき裂く稲妻の下で
むらがるぼうふらの水府より
よみがえる老いた男
うしろむきの夫
大食の父親
初潮の娘はすさまじい狼の足を見せ
庭のくろいひまわりの実の粒のなかに
肉体の処女の痛みを注ぐ
すべての家財と太陽が一つの夜をうらぎる日
母親は海のそこで姦通し
若い男のたこの頭を挟みにゆく
しきりと股間に汗をながし
父親は聖なる金冠歯の口をあけ
砕けた氷山の突端をかじる

喪服(C・15)

初出は《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕八〜九ページ、本文新字新かな使用、9ポ17行1段組、29行。

ぼくが今つくりたいのは矩形の家
そこで育てあげねばならぬ円筒の死児
勝算なき戦いに遭遇すべく
仮眠の妻を起してはさいなむ
粘土の肉体を間断なく変化させるために
勃起とエーテルの退潮
湿性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる
ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい
死児の哺乳をつづける
浪費と愛をうけつけず発育しないもの
ぼくの腕力の〔123埓→埒〕外に在り
正体も見せず固くかさばる死児
それは光栄に匹敵する悲劇
ぼくの魂の沈む城の全景を占め
美しいメモリアルとして立ちつくす
他人の経営する空間を徐々に埋め
せり上る死児の円筒
そのすべすべのまわりを歩く
ぼくは父親の声も出さず
母親は食事ものぞまず横臥する
やがて円筒の死児は哭く
一家の族長として
塵とくもの巣を頭から傘のごとくかぶる時
ぼくの家系は秩序をうしなうだろうか
老いたねずみの形骸を発光させ
ぼくら両親はストーブのなかの闇に
住みつくかも知れぬ
或は
円筒の死児が喪服に覆われる時まで

美しい旅(C・16)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)五八〜五九ページ、本文旧字新かな使用、五号27字詰13行1段組、19行分。執筆は1958年。

老給仕は食器をかたづけて去る ドアの外に出たというよりむしろ夕映えの球体へ吸いとられる おしきせのズボンの青い染色をのこす 船室のぴかぴかした床の隅に 寝台の男女はさなだむしのようだ おびただしいナプキンの波 動揺のはげしさで老給仕は死ぬだろう 美しい鉱物の異邦へ旅立つべく 鍍金のはげたスプーンにまたがる 腐りだす肉や野菜の類 経木のしなやかな動作で 老給仕はぎざぎざ刻まれた空へとび移る さようなら 棍棒の群衆 袋の日常 函の海 上から見るとよく理解できる 火事のメロドラマ 雷雨の孤独な儀式の終り 老給仕は錬達した手つきで温い食事を摂る その後の昼寝が長すぎると誰がなじれよう 死んだ者たちの習慣を誰が熟知するか 老給仕が起きるはずみで金釦がちぎれ 転がる面積を探す 心ならずも復讐したのだ 海のなかで大きな音をたてる 老給仕は生涯はじめての粗相をした 藻のかげの死んだ大勢の客たちにむき うやうやしく陳謝する これからの長い夢を見るためには 違和も羞恥も忍ぶんだ 成功者として老給仕は肥え太り密石亭に入る しばらく金毛の美女をまぶしく感じる 酒樽の下に廻り込む月 ここは行儀の悪い墓場かも知れぬ

人質(C・17)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)六〇〜六二ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字)使用、五号27字詰13行1段組、28行。執筆は1958年。

建物は人の半身と共に沙の首府へ沈み
次々におどり上って斃れる
黄色い馬のたてがみの奥でだき合う半分ずつの月と太陽
それをかいま見る
世界の陸地の人の半分の怒りの眼と
余儀なく眠るあと半分の人の心
すべての女性の子宮を叩く
兵士の半分はやわらかく半分は病気で固まる
反応も示さず
耳鼻もない鳩は死ぬ
燃える秣の山と伽藍の頂で
海へとじこめられた女子供は泣きながら仰ぐ
同時に棘とばらのつるで縛られた
軍艦の下腹を見る
遂に増殖する牡〔蠣→蛎→蠣〕の重みでかたむく
波の底を這い廻る
一個の牡〔蠣→蛎→蠣〕の浮力しか持たぬ
骨の人質たち
長い年月を毎日かかさず
死者の生きのこりの兵士をはげまし大砲を打つ
氷山に少しずつひびを入れながら
夕映えのプランクトンのむれに染められた歴史と
肉体を記憶するため
世界の残りの半分の人の骨が島へ上り
焚火で暖をとる
今日それをかいま見る
世界の陸地の人の半分の怒りの眼と
余儀なく眠るあと半分の人の心

感傷(C・18)

初出は詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日)六四〜七三ページ、本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組、6節99行。吉岡は同年8月8日の日記に「〈感傷〉出来。これで詩集《僧侶》の十九篇完成」(〈断片・日記抄〉、《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一九ページ)と書いている。

鎧戸をおろす
ぼくには常人の習慣がない
精神まで鉄の板が囲いにくる
街を通るガス管工夫が偶然みて記憶する
箱のなかに匿れた一人の男
便器にまたがるぼくをあざわらう
桃をたべる少女はうしろむき
帽子をまぶかくかぶるガス管工夫の槌の一撃を憎む
少女の桃を水道で洗わせず
狭い蜜のみなもとを涸していったから
幼い袋の時代
大人の女の汗の夏を知らぬ
少女もいつかは駈けこむだろう
ぼくの箱の家
正面の法律事務所の畸型の入口の柱を抱くだろう
それまで休業だ
屋根から寝台まで縞馬を走らせ
ペンキを塗り廻る
すでに伽藍の暗さ

金魚鉢の水の上で睡蓮が咲く
悪い季候のはじまり
薄い皮の下で少女は変化している
花の植物の冠から
えびの姿態の不透明な袋に黒い汁を移しはじめる
ぼくの鼻毛の茂みを雨でぬれた鳥がとおりぬけるのはそんなとき
棚のあらゆる口の細い罎
液体を溜める闇のなかで
痒走感におののきだす
ぼくはいかなる変化
いかなる交換を待っているのか

ぼくの眠りの截面がめのうのように滑らかになる
そこに居合せたただ一人の女
喪服にいつわられた美しい肢体の女が昨日からいる
今は組みあげられた脚線として
ぼくの寛容な肉情の下に在る
朝から使役された上半身
殊に肩の裏の可憐なそばかすの星雲
恐しくぼくの頭を捉える
或る瞬間は照らす
察するところ女は人を殺してきたらしい
もし病弱な夫でなければ
じゃがいもの麻袋をかるがる担ぐ情夫
人でなければ別のもの
頭の大きなさんしょううおを刺してきたのだ

永年の経験からぼくは被告を裏切る
被告はつねに救えぬ性格をもつから
彼らはすべて罰せられるにふさわしい陳述をする
例えばぼくが家具化した法廷につれこまれ
被告として黒服の者たちにとりまかれる
 〈わたしの妻は蟻の世界へ売渡される
 溶けるもの かがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る
人々の心証を害し
それでぼくも犯罪人の両肩を見せ下獄する
ぼくの弁護人は妻子と両親のため家へ急ぐ
尻の袋にぎっしり殻粒をつめ脂がのった鶏の首をさげて雨の中へ入る
不運な者は針金で養われ暗い所にいる

女の夫は老練な海港技師
熔接工を連れて毎日海へ行く
長い年月を海の下ではたらくので
真昼の光線に当るとき
熔接工はたちまちかにの形に歩き
総身の毛を輝かせ
充分な粘力と苦味のある泡を吹きこぼす
ところきらわずに
夫は岸べで焚火をたくばかり
破船と網の破れ目から
女が現われる
すなわち技師の妻が食物をはこんできて泳ぐ
熱い砂の床は人の心を複雑な巻貝に変化させ
同時に冷えた魚を跳ねまわす
その後での三人の食事は危険だ
皿やフォークが陰気にうごく
肉類や卵は食いつくされ
野菜類はつつましくのこる
海は死んだ男でふさがれる

ぼくは睡蓮の花を再びのぞく
転換が行われず
世界の女を巻く紐のすべてが解かれていない
蛙も挟まれる
花の深所から金髪が吹きだされるのを夢みる
ぼくは自分と不幸な女を救済すべく
女の腿へ手をのべる
喪服は夜に紛れやすい形と色を持つ
あまつさえ時間がくると滑る
それから先のぼくはまじめな森番だ
くさむらのひなを育てようと決意する
水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く
法律や煤煙のとどかぬ小屋で
卑俗なあらゆる食物から死守され
ぼくだけが攻めている美しい歯の城
その他の美しい武器をうばう
落日は輝くもの
おえつするもの
女の髪の上に滝が懸けられて凍る
ぼくは冷静に法典の黄金文体をよむ
さてぼくは女には大変つくした
罪深い女は去らせよう
ガス管工夫に肖た子をつれて桃の少女が結婚を迫るのを
ぼくは久しく待つんだ

死児(C・19)

初出は《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕二八〜三八ページ、本文新字新かな(ひらがな・カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ22行1段組、Q節189行。なお、本篇執筆の状況に関しては〈詩篇〈死児〉の制作日〉を参照されたい。

J

大きなよだれかけの上に死児はいる
だれの敵でもなく
味方でもなく
死児は不老の家系をうけつぐ幽霊
もし人類が在ったとしたら人類ののろわれた記憶の荊冠
永遠の心と肉の悪臭
一度は母親の鏡と子宮に印された
美しい魂の汗の果物
だれにも奪われずに
父親と共に働き藁でつつまれる
地球の円の中の新しい歯
誠実な重みのなかの堅固な臀
しかし今日から
死児は父親の義眼のものでなく
母親の愛撫の虎でなく
死児は幼児の兄弟でなく
ぶどう菌の寺院に
この凍る世紀が鐘で召集した
新しい人格
純粋な恐怖の貢物
裁く者・裁かれる者・見る者
みごとな同一性のフィルムが回転する
死児は棺の炎の中でなく
埋葬の泥の星の下でなく
生けるわれわれを見る側にいる

K

枯木ばかりの異国で
母親は死児のからだを洗う
中世の残忍な王の命令だ
全部の骨で王宮を組上げる
ほのおの使役の終り
母親の涙の育てた土地を
馬のひずめにとじこめられて
死児のむれは去る
真昼は家来の悦ぶごうもんの時
一つの枯木に一人の母親を与える
枯木が殖えればその分だけ母親が木に吊られる
百万の枯木はよろめき百万の母を裂く
八月の空に子宮の懸崖
世界の母親のはげしい眼は見る
          山火事を
 
         同時に聞く
  それを消しに来る大洪水を〔(前行とシリゾロエ)→234(さらに全角下ゲ)〕

L

死児は偶然見つける
世界中の寝台が
行儀よく老人を一人ずつ乗せて軋むのを
ゆるんだ数々の蛇口から
回虫が老人と死にみきりをつけ
はいだしてゆく方向に
野菜と肉の積まれた
働く胃袋が透視される
ときどき鉄砲の筒先が向けられて
悲鳴も聞えた
老人の浄福を祈り
ゆっくり〔と→234(トル)〕山へ血を持ちはこび
頂から浴せる
因襲の恋人・夫婦たちの寝台に
ただ一つの理由で死児は哭く
セックスを所有しないので
回虫のごとく恥じる
いうなれば交情の暁
やわらかな絹の寝台
麦の畑の〔涼→23凉→涼〕しい蔭の場所に住めぬ
死児は老いた母親の喪服のやみで
くりかえすひとりの乱行を
あらあらしい石の発芽を
禁制の増殖 断種の光栄
できれば消滅の知識をまなぶ
いま〔(ナシ)→234は〕緑の繻子の靴に踏まれる森の季候
去勢の噴水はきらめく
かぼちゃの花ざかり
死児は世界中の死せる老人と同衾する

M

死児の発育と病気について
すべての医者は沈黙した
蜜と海綿のみなもとを〔凅→234涸〕らす獣の跳梁
母親の乳房はどこの地平〔12(ナシ)→34線〕にも見あたらぬ
不順な風土と暴力の下着にかくされて
無理にのぞけば
硫黄の苦い結晶体
それ故この時世は呪術の岩の下をさまよう
秋の果物を〔山→234河〕へ搬びすぎた
商人の老獪な算術が病気をつくる
死児の爪は外部へのびず
夢を孕む内部へうずまく
死児の病気の経過は
食物と父の怯懦の関係で
悪化の一途をたどり
最後は霧の硝煙で消える
死児は医者の記録にのこるのでなく
歴史家の墓地の菫で物語られる

N

蝋びきの世界の首府を
母親は死児を背負って巡礼する
 
 砕かれたもぐらの将軍
 首のない馬の腸のとぐろまく夜の陣地
 姦淫された少女のほそい股が見せる焼かれた屋根
 朝の沼での兵士と死んだ魚の婚礼
 軍艦は砲塔からくもの巣をかぶり
 火夫の歯や爪が刻む海へ傾く
 
死児の悦ぶ風景だ
しかし母親の愛はすばやい
死児の手にする惨劇の玩具をとりあげる
死児には正しきしつけを
もしいやがるものは罰せよ
白昼の紳士淑女の食卓へ恥部を曝せ
夜戦のすきなあらゆる国の紋章を引裂いた高みから
死児の髪を垂らし
或はつるつるの頭を露出する
辱しめよ
死んだ父・殺された同胞の肉体の辱しめと
魂の憂〔123欝→鬱〕なばらを照らしめよ
死児が苦痛のあまり汚物をながすまで
箒の黄いろい死児
大理石の死児
鉄線の黒い死児
金髪の森の死児あまたの砂の死児
そのとき
賢い母親は夏の蝉の樹木の地に
異なるエネルギーで
異なる泣き声で
同一の怒りの歴史をつくる

O

死児の好きな遊び
むらがって
珊瑚の海へ網を入れる
大砲と共に沈んで行った男〔達→234たち〕の重い〔こうがん→234睾丸〕をひびかせる
女たちの砂と闇を吸ってる肛門も色彩でかざる
死んだ者のためなら安心して仕事ができる
塩と金具の類の枷をはずし
丈夫な膠でボデーをくるみあげ
枯木の陸地で二度目の奉公をかなえさせてやるんだ
ざくざく採れる金銀の鱗
さめの歯のかみあう恍惚の日々
水の夜伽は退屈だと静かな骨はつぶやく
死児にはそれが聴える
もう一度月から網を可能なかぎり拡げよう
死んだものならなんでも収穫
母親はいやな顔を見せて手伝わず
死んだものは交換できないと
破船の家でどなりだす
死児は声が小さく主張できない
母親の目の届かぬ所に来て
凍→234氷〕ったまま横臥する
かたわらに
伝説の軌跡の海

P

母親のねむった後
死児が床を這い廻る
果ては
(ナシ)→234春の〕嵐の海を埋めつくす
死者のうわむきの顔の上で立ち上り
次から次へと
跳ね歩く死児
凌辱された姉を求めて
ただ一人の姉でなく多くの姉の
波の魂に呼ばれて
陰気な蓮華をかざして行く
腿の柱をきよめに
混血の海へ
姉が孕み
姉が産む夥しい死児の夜の祝祭
輝く王道をきりひらき
古代の未開地で
死児は見るだろう
未来の分娩図を
引き裂かれた母の稲妻
その夥しい血の闇から
次々に白髪の死児が生まれ出る

Q

死児をだいて集る母親たち
或る廃都・或る半球から
おしきせの喪服のすそをひきずって
まれには償いの犬までつれ
定員になるまで沙漠へ入ってゆく
他のおしゃべりの母親たちは
沈黙を求められて村落から海面へ移動する
次から次へ黒い帯の宗教的なながれ
隈なくこの現世を司どるために
死児が生きかえらぬようにあやす
子守唄と悪夢のくりかえしで
骨肉でどうしてこの文明の腐敗の歌を合唱できよう
とどろく雷のように
豊かな腰をよじり
最後に半数のやもめの母親たちが氷河に並ぶ
必ず一人の死児をだいてる証拠に
めいめい死児の裸の臀を叩く
そのはげしさで哭いた時
この永い報復の難儀な旅の夜も明けよう
しきつめられた喪服の世界に
ピラミッドの頂点がわずかに見える
これほど集ってはじめて
全部の母親のさかまく髪のなかに
あたらしい空が起り
実数の星座が染められる

――――――――――

詩集《僧侶》の最終形を収めた《吉岡実全詩集》は歿後刊行だが、著者の生前には前掲書のほかに、篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)、《現代日本名詩集大成11》(東京創元社、1960)、《現代詩集〔現代日本文學大系93〕》(筑摩書房、1973)に全篇が収録されている。後二者の本文の異同は〈現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと〉〈吉岡実の装丁作品(60)〉で確認いただけるので、ここでは《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》所収の本文について触れよう。刊行時期からいって、本書の底本が 詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)であることは間違いない。そこで本書をとして、冒頭の校異と同じ手順でとの校合を行ない、問題のある詩篇のみ当該箇所を掲げてコメントを付した。なお( )内の数字は、行分けの詩は何行めかを、散文詩型の詩はいくつめの詩句かを表わす。底本の概略は次のとおり。

詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958年11月20日):本文旧字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、五号27字詰13行1段組。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日):本文新字新かな(ひらがなの拗促音は並字、カタカナの拗促音は小字)使用、9ポ27字詰18行1段組。

(C・10)
  Y・Wに→・Wに(献辞)
    原版刷りで「Y」が脱落した単純誤植か。

固形(C・11)
  ときに植物の茎という茎へ剃〔刃→刀〕を当てる(2)
    誤植を正したもの。

苦力(C・13)
  黄色い砂の龍巻を一瞥し(24)
    「竜巻」とあるべきところ。

感傷(C・18)
  溶けるもの かがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る→溶けるものかがやく裸形の砂糖の袋〉と口走る(51)
    全角アキであるべきところ。

死児(C・19)
  母親の乳房はどこの地平〔(ナシ)→線〕にも見あたらぬ(75)
    以降の本文に引きつがれることになる、本書における唯一の手入れ。
  最後に半数のやもめの母親たちが氷河に竝ぶ(179)
    「並ぶ」とあるべきところ。

私の手許には本書の初版と思われる古書と、後刷りと思われる古書とが1冊ずつある。両者の外見はまったく同じで(ただし後者にが付いていた可能性もある)、奥付も同一だが、前者の奥付が裏白なのに対して、後者の奥付の裏は〔今日の詩人双書〕4冊と〔海外の詩人双書〕5冊の広告になっている。これがいちばんの違いである。本文も、よく見ると前者の誤植が後者で訂正されている(事情はむしろ逆で、誤植のある方を「初版」、訂正されている方を「後刷り」と呼んでいるのだが)。実例を《僧侶》のページで示すと、「陰惨な」の「陰」(九八ページ)と「死児は」の「死」(一一六ページ)が横に転倒していて、おそらく活字のウキのため「た」がスペース(一〇四ページ)になっている。それだけではない。九〇ページの本文組版全体(詩篇〈夏〉の前半)が約1文字分、上に上がっている(ノンブルの位置から換算して、製本上のずれではない)。それも後者では修正されている。せっかく〈夏〉を修正したのだから前掲の献辞も直せばいいようなものの、こちらはそのままである(奥付ページに「納本」の印のある国立国会図書館所蔵本〔911.56-Y929y-S〕は、誤植の状態から見て「初版」の一本だが、〈夏〉の献辞は「Y・Wに」と問題ない。ただし九〇ページの組版は1文字分強、上に上がっている)。では「初版」はどうしようもないものかというと、これがそうでもない。本文用紙は「後刷り」よりもややバルキーで、活字が適度に食いこんでいる印刷はそれなりに美しいし、ノドの開きもよい。本書が「初版」の資材で「後刷り」の本文だったらよかったのに。

《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「初版」の見開き(九〇〜九一ページ) 《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「後刷り」の見開き(九〇〜九一ページ)
《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959年8月10日)の「初版」(左)と同「後刷り」(右)の同じ見開き(九〇〜九一ページ)

本集巻末には吉岡の〈詩集・ノオト〉が収められているので、《僧侶》に触れた段を引くが、著者による解説としてこれに優るものを知らない。
「詩集『僧侶』は、一九五八年の十一月、ユリイカから四百部刊行。一九五六年から五八年までの詩十九篇を収録。統一上ポール・クレーの食卓=k(I・1)〕ライラック・ガーデン=k(I・3)〕を割愛した。ぼくにとつて記念すべき長詩僧侶=k(C・8)〕はバー・エスカルゴで飯島耕一と飲んでいる時着想し一気に書いた。死児=k(C・19)〕はぼくなりに社会に参加しようと試みた最初の作品といえる。伊達得夫のすすめがなかつたら、まだ創られなかつたろう。清岡卓行がいつか、ぼくのことを独身∞毒身∞涜神≠ニしるした。大岡信、岩田宏は雷同した。一九五九年、四十歳で結婚した」(本書、一四八ページ)。
吉岡がこのあとがき(初出は《詩学》1959年4月号〔原題《液体・静物・僧侶》〕)に詩集の解説と《鰐》の仲間たちへの挨拶を書いた当時、最新詩集が《僧侶》だったことに感慨を覚える。

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吉岡実年譜〔作品篇〕(《僧侶》制作期間)

  1956〜58年発表の詩篇のみを抜粋(〈吉岡実年譜〔作品篇〕〉の記述を一部改めた)

《吉岡實詩集》の〈未刊詩篇〉には、前掲〈詩集・ノオト〉の割愛作品のリストに追加しなければならない〈サーカス〉(I・2)を含む詩篇が3篇とも収載されている――拾遺詩集《ポール・クレーの食卓》(書肆山田、1980)にも収録。初版《僧侶》に表示された制作期間「1956〜1958」の詩篇は、〈陰謀〉(未刊詩篇・6)を除いてすべて本集で読むことができる。

●1956(昭和31)年 36〜37歳
4月 告白(C・2、16行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年4月〔3号〕)
5月 喜劇(C・1、21行分、《詩学》〔詩学社〕1956年5月号〔11巻6号〕)

7月 陰謀(未刊詩篇・6、19行分、《現代詩》〔緑書房〕1956年7月号〔3巻6号〕)
11月 (C・3、13行分、《新詩集》〔蜂の会〕1956年11月〔4号〕)
12月 仕事(C・4、20行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1956年12月〔6号〕)
この年〔執筆月不明〕 伝説(C・5、11行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、冬の絵(C・6、21行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)

●1957(昭和32)年 37〜38歳
3月 牧歌(C・7、27行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年3月〔7号〕)

4月 僧侶(C・8、9節84行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1957年4月号〔2巻4号〕)
5月 ポール・クレーの食卓(I・1、37行、《現代詩》〔緑書房〕1957年5月号〔4巻4号〕)
6月 単純(C・9、22行分、《今日》〔書肆ユリイカ〕1957年6月〔8号〕)
10月 固形(C・11、24行分、《現代詩》〔書肆パトリア〕1957年10月号〔4巻10号〕)、(C・10、32行、《季節》〔二元社〕1957年10月〔11月号・7号〕)

●1958(昭和33)年 38〜39歳
5月 回復(C・12、20行分、《詩学》〔詩学社〕1958年5月号〔13巻6号〕)

6月 苦力(C・13、39行、《現代詩》〔書肆パトリア〕1958年6月号〔5巻6号〕)
7月 死児(C・19、Q節189行、《ユリイカ》〔書肆ユリイカ〕1958年7月号〔3巻7号(22号)〕)、喪服(C・15、29行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年7月〔9号〕)、聖家族(C・14、21行、《季節》〔二元社〕1958年7月号〔11号〕)
9月 サーカス(I・2、45行、《實存主義》〔理想社〕1958年9月〔15号〕
11月 美しい旅(C・16、19行分、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、人質(C・17、28行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)、感傷(C・18、6節99行、詩集《僧侶》、書肆ユリイカ、1958年11月20日)
12月 ライラック・ガーデン(I・3、40行、《今日》〔書肆ユリイカ〕1958年12月〔10号〕)


青山政吉のこと(小林一郎、2008年10月31日〔2009年3月31日追記〕)

水彩画家の青山政吉(1920-1994)は初めての随筆集《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)でただ一箇所、吉岡実に触れている。

 満州の野戦病院で私は吉岡実というやさしい人に会った。彼は私が絵を描いていたというと、自分は詩人であったといい、それ以来とても意気投合してよく話し合った。
 やがて私は後送されて名古屋に戻り、ある時たまたま朝日ビルの書店に立ち寄り、ふと彼に本を贈ろうと思った。そこで二、三冊を買い、店員に満州の病院へ送ってほしいと言うと、戦時中でその手続きがとても面倒だと言う。するともう一人の女店員がとても好意的な態度ですぐ引き受けてくれたが、さぞ手数なことであったろう。
 それ以来、私は画集などをよく買いにその店に立ち寄ったが、そのうち彼女にデートを申し込むようになった。
 それもまた素直にハイ≠ニ返事をしてくれ、その後もあまり拒否されたことがなく、会った日にはいつも髪の乱れがなく薄化粧をしていたので、とうとう彼女と結婚をし、こんにちまでありがたく連れ添っている。
 男でも女でも相手の申し出を拒否する時は、しぜんとその縁までが消えてゆくやも知れず、そう思うとノオ≠ニいう言葉は縁切れになる言葉なのかもと思ったりする。(〈ハイ≠ニいった女〉、同書、一一五〜一一六ページ)

一方、吉岡は青山政吉について、日記でこう書いている(時系列で番号を振る)。

D 〔昭和三十四年〕十月十三日 西宮から青山政吉上京する。梅林でとんかつ。家につれてきて陽子紹介。一部屋なので駿台荘に宿をとり泊める。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一二一ページ)

E 〔昭和三十五年〕六月五日 龍安寺石庭、大徳寺大仙院の庭を見、広隆寺へ廻り弥勒菩薩と対峙する。苔寺、天龍寺、嵐山を歩いて疲れる。夜、西宮の青山政吉の家へ泊る。
〔同〕六月七日 桂離宮を観る。白い大きな障子と砂雪隠が印象的だ。大阪へ出、法善寺横丁のぬれた石仏と香煙。西宮へ戻り雅子ちゃん大作ちゃんとさようなら。夜行列車にのる。(同前、一二四ページ)

青山は幼名・雅美から政吉に改名しているから、日記の「青山雅美」に注目すると、

@ 〔一九四六年〕三月三十一日(日曜) 午後、日高君と上野の日本美術展を観に行く。日本画の奇麗すぎるのに驚く。音信不通の青山雅美の絵を見つける。事務所で住所を聞いた。(〈日記 一九四六年〉、《るしおる》6号、1990、三三ページ)

C 〔昭和二十四年〕十月十一日 中川紀元氏をたずねて上野へゆく。偶然、二紀会入選の中に青山雅美の絵を発見し、事務所で住所を聞く。満洲の軍事病院で仲よく暮した一カ月の生活が思い出される。柳絮とぶ春を。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

青山の随筆と同じことが書かれているが、二人が軍事病院にいた理由は出てこない。さらに《土方巽頌》(筑摩書房、1987)の「京都へ「バルチュス展」を、土方巽と観に行った頃から、大規模な「鉄斎展」が催されると、西宮在住の旧い友人から聞いていた」(同書、一九四ページ)の旧友は青山に違いない。このとき吉岡は、講演旅行から帰ったばかりの土方を誘わずに「私はひとりでも京都へ行くことにきめる」(同前、一九五ページ)と記しているだけで、青山といっしょに富岡鉄斎展を観たかどうかはわからない。私が青山政吉(雅美)に注目するのは、吉岡が《静物》をまとめるに至る時期にその存在が大きかったのではないかと考えるからである。一体吉岡はその詩の形成にあたって多くの絵画(もしくは造型)作品から啓示を受けているが、他方で画家の存在も無視できない。のち《静物》を書きおろした時期に吉田健男と同居していたことは吉岡も触れているが、青山の存在を作品の生成と関連させて書いたことはない。日記Cのすぐ前には次の記載がある。

A 〔昭和二十四年〕八月一日 或る場所にある卵ほどさびしいものはないような気がする。これから出来るかぎり〈卵〉を主題にした詩篇を書いてみたいと思う。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1968、一一六ページ)

B 〔同〕八月十二日 Mからポール・クレーの絵のある〈みづゑ〉を借りる。原始の素朴な夢と淋しさの底から滲みでる抒情。冷めたい知性を包む幻想の交響曲。仕事のあいま、またねどこの中でポール・クレーの絵をみたり、評伝をよむ。クレーのような詩も書きたいと思った。(同前)

こうした関心を抱いていた当時、仕事の関係でだろうか、吉岡は「中川紀元氏をたずねて上野へゆく」。二紀会は中川が熊谷守一たちと結成した団体だから、たまたまその展覧会で「青山雅美の絵を発見し」たのだろう。戦争が終わって4年。吉岡はすでに、東洋堂で幸田成友の訳書や柳田國男《分類農村語彙》、谷内六郎の長篇漫画の編集を担当していた。生活はそれなりに安定して、詩作再開の意欲が昂まっていた時期である。同年春、椿作二郎・田尻春夢・池田行宇らとともにした梅の瑞泉寺への吟行を最後に、親しい俳句仲間とも訣れ(このころ佐藤春陵はどうしていたのだろう?)、今後は詩を書いていきたいと決意している。誰一人詩を語らう友もない状態で詩作を試みた作品の題名は、古風にも〈寒燈〉。吉岡はできたばかりの詩篇の写しを京都(もしくは西宮)の青山雅美に送っている。戦時下の満洲で互いに画家と詩人と名乗りあって以来の旧友に。

〈寒燈〉(未発表詩篇):11行(手入れにより10行)。末尾に「〈二四、九、二十〉」、丸中数字で「28」(別に薄く丸中数字で「45」)、さらに「(雅美へ二四、十、二十送る)」、丸中数字で「十五」とあり、1949年9月20日脱稿と見られる。詩句「黄なびた蛙のあしはたれさがり」が〈風景〉(B・10)に流用されている。詩篇全体に大きく「×」が付されている。
〈ぽーる・くれーの歌〈又は雪のカンバス〉〉(未発表詩篇):20行。末尾に「〈二四、九、二三〉」、丸中数字で「29」(別に薄く丸中数字で「46」)、さらに丸中数字で「十六」とある。1949年9月23日脱稿と見られる。

――おそらく昭和24(1949)年の春に吉岡が気持も新たに詩を書きはじめてから半年、@、A、…と番号を付けた29篇が誕生していた。その後のある時点(《静物》編集の前段階か)で取捨選択が行なわれた結果、上の2篇を含む十六篇が採られ、13篇が捨てられた。〈寒燈〉は採られた十六篇のひとつだが、その後(おそらく最晩年に)、作品としては抹消する意志が示された。にもかかわらず、詩稿そのものは遺された! あたかも《静物》に始まる戦後吉岡実詩の開闢を記念するかのように。あるいは「(雅美へ二四、十、二十送る)」とあるメモゆえに。――と私は想像する。
《毎日が遠足です》の仕様は一九三×一四八ミリメートル・二九二ページ(口絵に原画一葉貼込)・上製継表紙(平・背とも布)・機械函。限定500部。写真を見ればわかるとおり、本書が吉岡の《薬玉》(書肆山田、1983)を踏まえていることは――とりわけ函の貼題簽と継表紙において――明らかである。《薬玉》を贈られたに違いない青山の、戦友・吉岡に対する追悼の意であろうか。

青山政吉《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)の函と表紙 吉岡実詩集《薬玉》(書肆山田、1983)の函と表紙
青山政吉《毎日が遠足です》(青山政吉、1991年10月1日)(左)と吉岡実《薬玉》(書肆山田、1983)(右)の函と表紙

〔2009年3月31日追記〕
本稿をお読みいただいた青山政吉のご子息大作氏から、昭和24(1949)年当時の政吉の居住地についてメールをちょうだいした。現在、最も詳細な〈青山政吉年譜〉には「1948年(昭和23年)28歳 京都市立絵画専門学校を卒業/1950年(昭和25年)30歳 兵庫県鳴尾村立(現西宮市立)鳴尾北小学校美術教員となる」(青山政吉作品集《万葉百景》、青山大作、〔2000〕、一〇八ページ)とあって、昭和24年の秋どこに住んでいたか手掛かりになる記載はない。大作氏は、当時政吉はすでに結婚していて、長女雅子も誕生しており、京都東山にあった生家の天ぷら料亭「梅月」近くの泉湧寺に下宿していたのではないか、と推測している。吉岡実は〈好きなもの数かず〉に「京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ」(筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号、1968年7月31日)と記したように、その中世文化を好んでいたから、京都にあった画家青山雅美に新作の詩稿を送ることはささやかな喜びだっただろう。


吉岡実の書(小林一郎、2008年9月30日)

《現代詩読本――特装版 吉岡実》(思潮社、1991)の目次は別丁観音折りの中面だが、その外面は吉岡実の肖像と筆跡の写真で構成されている。筆跡には毛筆による〈吉岡実の書〉が3点含まれていて、同書にはそれらのほか口絵に1点、本文中に1点の計5点、吉岡の書の写真が掲載されている。それらに番号を付して文字に起こしてみる(改行は/で表示した)。

  1. 水中の泡のなかで/桃がゆっくり回転する/そのうしろを走る/マラソン選手/吉岡実
  2. 石上栽花後/生涯自是春/実
  3. 神も不在の時/いきているものの影もなく/死の臭いものぼらぬ/深い虚脱の夏の正午/密集した圏内から/雲のごときものを引き裂き/粘質のものを氾濫させ/森閑とした場所に/うまれたものがある/ひとつの生を暗示したものがある/塵と光りにみがかれた/一個の卵が大地を占めている/吉岡実
  4. 或る時/わたしは帰ってくるだろう/やせて雨にぬれた/犬をつれて/他の人にもしその/犬の烈しい存在/深い精神が/見えなかったら/その犬の口をのぞけ/狂気の歯と/凍る涎の輝く/吉岡実
  5. 大雨の薬の水の鯰かな/耕衣句  実

このうち吉岡実の詩篇は、1が〈桃――或はヴィクトリー〉(E・8)の冒頭、3が〈卵〉(B・7)の全文、4が〈犬の肖像〉(B・16)第1節の全文で、これらは改行箇所こそ定稿よりも多いものの(行の途中で折り返すことを避けたためか)、詩句に異同はなく、自作の詩を毛筆で浄書した恰好だ。2と5は自作でないが、2については後述する。5に関しては、永田耕衣が〈吉岡さんの書――追悼にかえて〉(初出は《琴座》1990年7月号)で次のように書いている。

 掲上の一句《大雨の薬の水の鯰かな》は、昭和六十二年四月に沖積舎から発行の句集、『葱室』に収めている、私の《鯰》の句句のなかでも、超ユーモラスな或る品格を神妙に具えた一句である。同年六月十日に、兵庫県民会館で催うされた《米寿永田耕衣の日》は、大野一雄翁の舞踏《睡蓮》を賜わって、参会者一同を幽玄の境に落涙的沈黙を誘った稀有の印象は忘れ難い。そうした《有時》に、私は掲上の吉岡実さんの揮毫を賜わったのである。一枚漉き手漉和紙全紙31センチ×43センチ大の耳附の風光に、この詩人の根源的な親切心を噛みしめながら、私はこの祝意に涙したのであった。〔……〕
 ところで掲上の吉岡さんの書だが、巧拙を超越した、ひたすら厳粛素朴な、何という清浄無垢さであろう。只一言で、吉岡さんの《人柄》を機していうならば、《律義》の二字しか、他に適切な言葉は見つからないのだ。私はこの一葉を慌[あわ]てて取り出して、今まで時どき眺めてきた額縁に、真紅の民芸紙をマットに納め、書斎の私の稿業用の机の真向の壁に掲げた。(前掲書、二五七ページ)

《現代詩読本》の二五八ページには5が天地70×左右50ミリメートルの写真で掲げられているから、これを上記寸法に拡大して耕衣がしたように額装すれば、吉岡実の書の雰囲気を味わうことはできるだろう。しかし、私がここで重視したいのは耕衣による〈追記〉のCの一節である。
「このさいこの日記の処々で出会う注目すべき部分がある。それはこの詩人が、この時代に、先ず《書塾》に入り助手的な仕事に就いていたことである。塾生は元より少年少女で、彼らの習字を見て佳作にマルを附けてやったりして、彼らに親しまれて行ったことなど。而うして詩人自身も手習や臨書などを修しながら、月刊書道誌「手習」に書字を投じて《まだ二級で、仲々一級に昇格しない》と記している処が面白く読めた。その前に《習字に没頭す》という短章が見あたったりする」(同前、二五九ページ)。
耕衣が吉岡の書に触れる以上、《うまやはし日記》(書肆山田、1990)に言及するのは必然だが、耕衣の指摘どおり、吉岡の書の骨法はこの書塾での助手時代に培われたものと思しい(本稿末尾に《うまやはし日記》における書に関する記述を摘して、若干の註を付けた)。
さて、2の「石上栽花後/生涯自是春」である。これは「石の上に花を栽えて後、生涯自ずからこれ春」という禅語で、司馬遼太郎(1923-96)も好んで揮毫した(《週刊朝日》1999年12月15日増刊号、《司馬遼太郎からの手紙――『街道をゆく』の友人たちへ》、朝日新聞社、〈巻頭グラビア〉〔一三ページ〕参照)。司馬の書をインターネットで検索してみると、おあつらえむきに〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉に「司馬遼太郎書額/石上栽花後…/一面/入札最低価格: 15」として次の画像が掲載されていた。せっかくだから、吉岡実の書と並べてみよう。

司馬遼太郎書額〔出典:〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉〕 吉岡実書〔出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991〕
司馬遼太郎書額〔出典:〈七夕大古書入札会2008 明治古典会〉〕(左)と吉岡実書〔出典:《現代詩読本――特装版 吉岡実》、思潮社、1991〕(右)

双方ともいつ書かれたのかわからないが、あたかもどちらかがどちらかを見て書いたかのように似ている(とりわけ「栽」の字)。それとも、同じ手本を臨書した結果だろうか。吉岡の書きぶりは、3・4・5とそれほど違っていないのに対して、司馬の方は、石川九楊《現代作家100人の字〔新潮文庫〕》(新潮社、1998)五一ページに収載のユーモラスな「君子有酒」とはずいぶん違って見える。その「酒」とこの「涯」のさんずいはほとんど同じだが、「石」の第一画は「ペン書きに馴染みきっている」(同書、五〇ページ)手つきが懸命に書の姿を仮構したがために、ふだんの揮毫から離れてしまったようだ。一見すると司馬の「陽性の書」(同書、四九ページ)に見えないのは、文言が禅語とあって、普段よりも襟を正して筆を執ったことによるのか。ところで、「石上栽花後…」を含む上掲の吉岡の書にはどれも印が捺されていない。吉岡自身は篆刻を試みなかったかもしれないが、雅印を所有していなかったはずはないのに。《昏睡季節》や《液体》の奥付に捺された「吉岡實」の白文印(検印というよりも落款だ)が戦火で失われたとしても、森田誠吾は吉岡に自刻の印を贈ったと〈敦の周辺〉(《中島敦〔文春文庫〕》、文藝春秋、1995、一八〇ページ参照)に書いているし、吉岡に雅印を献じた詩人も多いはずだ。吉岡は《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)でも篆刻はもちろん、書についてほとんど語っていない。強いて挙げれば、以下の9篇が書への言及の見られる文章と言えようか。

そこで、《吉岡実未刊行散文集》から当該箇所を引いて、書に対する吉岡の考えを概観してみよう(引用を最小限にするため、前後の文章を割愛したものがあるが、引用文中で省略した場合のみ〔……〕と中略であることを表示した)。

(1)銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》163号(1963年5月1日)
やっと春らしくなりました。お元気で書作の仕事に精進されていることと察します。いつもいつも耕衣の書が欲しいと思っていましたがお願いするのもあつかましいと思ってがまんしていました。書の展覧会を催すことは「琴座」で知っていましたが、頒けていただけないだろうとあきらめていたところ昨日後援会員になれば書作品が手に入るとのこと早速申込みました。本当なら書作展に参り心ゆくまでに墨蹟をじかに見たいのですが仕事のため行けません。すばらしい会でありますように。

(2)銀椀鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》166号(1963年8月1日)
 雨もひとやすみ、ここ二、三日夏らしくなりました。先週の日曜日、寝床のなかで、貴重な書作品拝受しました。すばらしい墨蹟、近づいて見、遠ざかって見てたのしんでおります。適当な大きさなのも、狭い部屋なのでとても具合がよいのです。只今、風塵にさらしたくないので、飾棚の中に蔵しています。耕衣さんの本意にそむく行為とは知りながら。返事がおくれたことをおわびします。
六月十七日夜
 追伸。
 会、さぞかし御盛会だったのでしょう。参れなかったのを残念に思います。さて最近、楠本憲吉さんから、排衣さんの
 百姓に今夜も桃の花ざかり
の短冊いただきました。まだお礼を申上げてないので、今夜にも手紙を書きます。

(3)好きなもの数かず 筑摩書房労組機関紙《わたしたちのしんぶん》90号(1968年7月31日)〈私の好きなもの〉
 ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろく、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。〔……〕墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。〔……〕つもる雪。

(4)日記抄――耕衣展に関する七章 《琴座》235号(1969年11月1日)
六月十三日 紀伊国屋サロンで、渡米前のいそがしい草野心平氏と会う。耕衣展のためのすいせん者になって頂くべく。資料として句集、書の写真をみせる。〈金剛〉の二字をみて、これは本物だ、いいものを見せてくれた――承諾を得る。ほっとして白十字でコーヒーをのむ。夕五時。
七月十八日 第一ホテルで耕衣さんと会う。新橋でつきそいのお孫さんと別れ、北浦和の海上宅へゆく。白隠、蒼海、文三橋の書など見せていただく。そうめんと鶏肉のひるめし。耕衣さんは朝鮮の素朴な花の絵に声をあげる。奥さんのお点前の茶を喫して一刻、伝説的な黄山谷の一幅を拝見。その前にひざをつき耕衣、小生ともに呆然、恍惚となる。蘇峰遺愛の神品という。心清韻。雅臣氏の自動車で神田へ戻る。八木一夫の湯呑をみやげに。

(5)青葉台書簡――永田耕衣宛 《琴座》300号(1975年11月10日)
さて、小生の勝手な「手紙と句抄」喜んで頂けて光栄です。先日、また渡辺一考君が現われ、「不生」の額を持ってきてくれました。杉の黒塗の美しいその額に、早速耕衣書を入れ、玄関に懸けましたら、いままで飾ってあった、アバティの色彩銅版画と趣きが一変して、厳しい雰囲気になりました。

(6)愛語鈔――永田耕衣宛書簡 《琴座》351号(1980年7月1日)
 傘寿の会に参加できてよかったと思います[。]心のこもった素晴しい一夕でした。それに、書画展も感銘しました。神戸という土地にも親しみを覚え、また参りたくなりました。出来たら、この秋にでも、耕衣さんのお宅に参り、鴉か鯰の絵を手にしたいものです。

(7)兜子追悼 《渦》1981年6・7月号(1981年6月28日)
 兜子と二度目に会ったのは、句集『歳華集』の出版記念会の時であった。〔……〕わずかなひととき、彼の「書」がところどころに飾られた、ロビーのような処で、書に就て語り合ったくらいだった。
 昨年の春、永田耕衣傘寿の会が神戸の六甲荘で催された。二次会は、三宮のどん底という店で、百鬼夜行的な夜だった。私がかつて田荷軒で観た「金剛」の大字が懸っているという、バーらんぶるへ、五、六人の酔漢と夜の街をさまよいつつ行った。そこに、したたか酔った兜子がいた。これが三度目の出合いであり、最後であった。「金剛」の二字は、私の垂涎するものではなかった。
 〔……〕
 二、三年前に、手紙と半紙より少し大き目の和紙に、染筆したものを貰った。「大雷雨鬱王と会ふあさの夢」の一句であった。

(8)アンケート「そして、8月1日の……」 《麒麟》4号(1983年10月20日)〈同日異録B〉
永田耕衣の「白桃図」を、居間の壁に掛ける。それまでは、この七月に急逝した、わが友高柳重信を悼み「弟よ/相模は/海と/著莪の花」の染筆を掲げてあった。恵幻子よ、山川蝉夫よ、やすらかに成仏せよ。

(9)年譜 《現代の詩人1 吉岡実》(1984年1月20日、中央公論社刊)
 昭和七年 一九三二年 十三歳 
本所高等小学校に入学。東駒形の二軒長屋から厩橋の四軒長屋へ移る。二階に先住の佐藤樹光(書家油桃子)の影響で、文学に親しむ。
 昭和十四年 一九三九年 二十歳 
仕事に疑問をもち、南山堂を退社。夢香洲書塾(佐藤宅)へ仮寓し、子供たちに習字を教える。本所区役所で徴兵検査を受ける。
 昭和五十五年 一九八〇年 六十一歳 
夏、〔……〕三越本店で、良寛展を観る。天上大風。
 昭和五十八年 一九八三年 六十四歳 
初夏、東京国立博物館で「弘法大師と密教美術展」を観る。八大童子立像(金剛峯寺)の六躯に魅せられる。

(10)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》397号(1984年9月1日)
この度の田荷軒訪問からだいぶ日が立ち、いまごろお礼を申し上げるのも、気がひけます。どうかお許し下さい。土方巽さんも念願を果して、喜んでおりました。〔……〕本当は、耕衣さんとゆっくりお話がしたかったのですが、土方さんが若い友人数人を、宿に待たせていたものですから。いつもながらあの書斎はくつろぎます。玄関の「花紅」の二字は、素晴しいと思いました。

(11)永田耕衣書画集《錯》愛語集 《琴座》417号(1986年7月1日)原題〈永田耕衣書画集・錯 愛語集〈続〉〉
このたび、美事な『永田耕衣書画集・錯』が出来ましたことを、お祝い申上げます。先ずなによりも驚いたことは、小生所蔵の「不生」が最初に掲載されていたからです。光栄といっては妙ですが、喜んでいます。「金剛」の名品二点がいまだ耕衣様の手元にあるのを知り、安心いたしました。作品と所蔵者を結びつけるたのしみ、それと選ばれた耕衣様のご苦心を感じたりしております。当然ながら、所蔵者不明で、数々の秀作がもれているのではないでしょうか。昔、田荷軒に懸っていた、巨大な赤牛、あれがないのは残念です。小生が一番に心惹かれたのは、「羽痛女神像」です。大きさがわかりませんが、天地いっぱいに存在しているように見えます。中村苑子さん秘蔵というのも、めでたいことです。本当にくり返し見てたのしんでおります。

(12)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》422号(1987年1月1日)
このたびはお手紙と耕衣短冊を拝受して感激いたしました。亡き奥様の忌も明けられたとのこと、またなんと美しいご戒名を贈られたことでしょうか。最高のご供養だと思いました。さて、頂いた短冊には、不滅の名句「コーヒ店永遠に在り秋の雨」が染筆されており、喫茶店好きの小生には何よりのものです。かつての傘寿の会の折に頂いた短冊の筆勢が、一休的であるならば、これには白隠の風韻を感じます。早速に、李朝石仏の脇に置いて、日々眺めております。本当にありがとう存じます。

(13)ダガバジジンギヂさん、さようなら 《ユリイカ》1987年7月号(1987年7月1日)〈追悼=高橋新吉〉
 昭和四十七年の冬、おそらく初めてのことだと思われる高橋新吉書画展が日本橋の柳画廊で催されています。請われて、会田綱雄と一緒に、私の拙い色紙も讃助出品いたしました。その折り水墨画の「秋刀魚」を頒けて貰ったのですが、それは奥様の愛着ふかい作品だと後で知りました。

(14)青葉台つうしん――永田耕衣宛書簡 《琴座》428号(1987年7月1日)
お手紙によると、小生の稚拙な筆になる「葱室十一句」を、喜んで頂きうれしく思います。そのうえ、立派な額に入れられ、田荷軒の一隅に、飾られたとのこと、面映ゆいばかりです。拝受いたしました、古代黄土顔料で彩られた可憐な仏さま。小生にはなぜか、唐子のように見えます。むかし人様から贈られた、古代裂を入れた額にぴったり収って、李朝石仏のわきに鎮座しております。本当にありがとうございます。早いもので、「永田耕衣の日」から、丁度一ケ月になりますね。もうお疲れもとれたことと思います。当夜、耕衣独演と大野一雄独舞が、白眉でした。

吉岡実の未刊の散文に永田耕衣宛ての書簡が多いためばかりではなかろうが、耕衣(1900-97)や高柳重信(1923-83)、赤尾兜子(1925-81)といった同時代の俳人の書への言及が大半なのに驚かされる。ほかには空海〔弘法大師〕(774-835)、黄庭堅〔黄山谷〕(1045-1105)、一休(1394-1481)、文彭〔文三橋〕(1497-1573)、白隠(1685-1768)、良寛(1758-1831)、副島種臣〔副島蒼海〕(1828-1905)、高橋新吉(1901-87)、会田綱雄(1914-90)が登場する。また、上掲(14)と耕衣の〈吉岡さんの書〉を対比させてみると興味深い。(14)と同じ号には吉岡の選句〈耕衣*葱室 十一句〉が活字で掲載されていて、第四句が「大雨の薬の水の鯰かな」であり、第八句が「狼有一また出て来うぞ桐の花」だからだ。戦後前衛書家の井上有一(1916-85)を悼んだ耕衣の句を、吉岡はどんな手で書いたのか。いま私の手許には金子晉編による永田耕衣書画作品集《泥》(永田耕衣の会、1999)がある。「〔……〕今回、耕衣生誕百年を記念する意味で、前書画集「錯」のほとんどの作品を再録し、それ以後の作品と初期習作時代の作品も加え、耕衣書画歴をほぼ網羅できる形で編集した」(同書、二四八ページ)と編者が〈後記〉に書くように、《泥》は永田耕衣全書画集の趣をもっている(ちなみに、耕衣のほとんどの書画には「田荷軒」の朱文印が捺されている)。《私のうしろを犬が歩いていた》(書肆山田、1996)に〈白桃図〉が載っているように、吉岡実所蔵の作品も本書に含まれているのだろうが、ここは心静かにページを繰るにしくはない。
吉岡実は書の個展を開いたこともなく、その書が広く知られているともいいがたい(インターネットで検索しても、自作句の色紙「冬の日の凝れば/無為なる蛇の貌」が森井書店から出品されている程度だ)。だが、私がいちばん吉岡の「書」を感じるのは、その装丁においてである。石川九楊は「〔書の〕主体は、書いた文字(墨跡[すみあと])の側にではなく、墨跡[すみあと]によって姿を変えられた紙、つまりは余白の側にあり、その墨跡と余白との境界である「際[きわ]」が、文字通り「際立つ」からである。〔……〕書物が環境にさらされる「際」が、表紙でありカバーであり造本である。その意味では装幀もまた書物における一種の「書」であると言えるのである」(《書を学ぶ――技法と実践〔ちくま新書〕》、筑摩書房、1997年4月20日、一五六ページ)と喝破したが、この「際」と書物の関係は、とりわけ吉岡装丁において当てはまるように思われる。「際立ち」の有無が、吉岡実装丁を凡百の吉岡風装丁から分かっているのだ。吉岡の装丁と書籍の新聞広告「三八」の関連を指摘した臼田捷治は、吉岡の書について次のように書いている。
「吉岡が揮毫した筆跡を見ると、まさに少年が書いたような律儀な楷書で書かれている(ついでながら、吉岡は十九歳のころ、ある塾の手伝いで子どもたちに習字を教えていた)。書道史的にみれば、楷書の完成期である、初唐の王朝趣味たっぷりのけれん味あるそれではなく、それ以前の書体としての成長期にあたる時代の健康的なかたちを彷彿させるものである。筆跡ほど書き手の人となりを正直に映し出すのものはない。その筆跡と同様に、吉岡の装幀は折り目正しい「楷書の作法」に貫かれているのだ」(《装幀時代》、晶文社、1999年10月5日、七五ページ)。
臼田さんは書を通じて吉岡実の「装幀術」(同前)を語っているわけだが、私はこれに加えて「書と俳句」の存在を強調したいと思う。王羲之(307?-365?)ふうの楷書の筆跡を超えて、「書くこと=創ること」という視点を吉岡が獲得したであろうことを。吉岡は今日でいう中学生のころ、のちの「書家」佐藤春陵によって文学に開眼し、奉公先の南山堂を退店してからは、1年4ヵ月ほど佐藤の夢香洲書塾(むこうじましょじゅく、と読むのだろう)を手伝い、田尻春夢や佐藤らとともに句作に励んだ。一方、短歌はまったくの独学である。ことほどさように、吉岡の「書」は「俳句」とともにあった。吉岡実の表現行為を「書=俳句」と「詩(短歌)」と「装丁」の三位一体としてとらえなおすことによって、今までの「詩」と「装丁」の二項対立からは見えなかったものが見えてこないだろうか。

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《うまやはし日記》における書に関する記述(抄)

■昭和13年(1938)

9月5日【月】 〔【 】内の曜日は評者による補記〕
今日から佐藤樹光さんの家に身を寄せる。〔……〕気ままに勉強しながら、書塾を手伝うことになった。

11月14日【月】
塾に来る女の子に、初めのころは「お兄さん」と言われた。男の子にはうさんくさそうに思われた。やがて習字に朱筆を入れ、甘く朱丸をつけてやると、「先生」と呼ぶようになった。午後から夕方までに、二百人位来るようだ。

■昭和14年(1939)

4月18日(火曜)
一日中、課題の半紙六字の清書を書く。

5月2日【火】
虞世南を臨書。

5月10日【水】
夕方、春陵さん(樹光)は相沢春洋先生のところへ。〔……〕夜、褚遂良を臨書。

5月18日【木】
欧陽詢を臨書。

5月31日【水】
夜、習字に没頭。

6月22日【木】
夕方まで子供たちの習字をみる。〔……〕夜、「九成宮醴泉銘」を臨書する。

7月14日【金】
朝、亀の湯から戻り、臨書にはげむ。

8月7日【月】
「東邦書策」に、わが作品が掲出されている。雅号「白苔」となっていた。

8月25日【金】
夜遅く、蚊帳に入って寝ながら、春陵さんと話し合う。いずれも偏屈同士ゆえ、この家を出たほうがよいだろう。一種の居候なのだから。友情を大切にしようと思う。

11月1日【水】
夜、生徒の月謝袋に受領印を押すが、すぐ疲れた。

11月2日【木】
夕刻、月刊書道誌「手習」届く。まだ二級で、仲々一級に昇格しない。

12月19日(火曜)
今夜は第二回白鵶〔ア〕句会。先生と習字教場の板の間を掃除し、夕食をすませ、出かける。

12月27日【水】
〔依田〕栄子さんから、本格的に書道にはげみ、お習字の先生になったらと、言われた。

12月31日【日】
今日かぎりで、夢香洲書塾を出ることに決めた。突然のことで、父はめずらしく怒り、母まで同調した。兄は何も言わなかった。春陵さんに対して、わが家のみんなが悪感情をいだいてはつらい。ゆえに一切、ふたりの間の精神的なゆきちがいを、話してはいないのだ。子供の頃からの永い交流である。身辺を整理している頃、春陵先生は新年を迎える準備に余念がなかった。

■昭和15年(1940)

1月18日【木】
午後二時ごろ、二階でノートに短歌を書いていると、母が春陵さんの言伝。餅菓子の伊勢屋の子供が死んだので、手伝いに行く。今日一日、生徒の習字の添削をして欲しいとのこと。夕五時過ぎまでに終る。少し休み、盛岡へ帰る徳松さんを送って、上野駅まで行く。

1月21日(日曜)
早稲田の全線座で「少年の町」を見る。近くの依田昌矩・栄子夫妻をたずねた。書道、俳句の仲間なので、話題はつきない。

1月24日【水】
夜、春陵先生と昭和女子商業学校へ行く。第三回「白鵶〔ア〕句会」のつどい。

2月3日【土】
十一時ごろ久しぶりで、夢香洲書塾をたずね、春陵さんと火鉢にあたり楽しく、俳句、短歌の話。午後から神田の事務所へ行く。西村さんと挨拶状の封筒の宛名書きに没頭する。

2月6日【火】
西村、小林両氏も出ず、一日中、封筒の宛名書き。

《うまやはし日記》における書に関する記述(抄) 註

佐藤樹光〔春陵〕(さとう じゅこう〔しゅんりょう〕) 吉岡は大岡信との対話〈卵形の世界から〉(《ユリイカ》1973年9月号)で次のように語っている。佐藤氏は吉岡より一回り年長のようだが、生年等は未詳。

吉岡 〔……〕ぼくは、佐藤春陵という書家の影響で文学をはじめたわけだ。彼は盛岡の貧しい農家の人で、どっちかっていうと左翼思想の持主だったように思う。うちの二階でほそぼそと筆耕をやってたわけ、書道を勉強しながらね。これはまた不思議な縁でね。長い間うちは東駒形の二軒長屋に住んでたんだが、差配がその二軒をつぶして大きな家をつくりたい、うちと入れ替ってくれといってきたわけだよ。ただ、二階に佐藤という人を下宿させているが、できたらお宅でもそのまま置いてやってくれという条件があったわけ。それで、当時うちは親子三人だから階下二間あれば、まあ大体住めるんで、承知したんだ。その家が厩橋の三軒長屋で、ぼくはそこから出征し、父母はそこで死んだ。懐しい家だ。その佐藤春陵という人の部屋へ、ぼくは少年時代しょっちゅう出入りしていた。彼は文学青年だから、よく本を読んでくれた。それがゴーリキーの『どん底』や『母』なんかで、いまでも印象に残っている。
大岡 十三歳ぐらいのときね。彼は何歳ぐらいかな。
吉岡 いま六十五、六の人だと思う。
大岡 じゃ、もう三十近かったわけだ。
吉岡 その人の影響で文学に目醒めて、それから南山堂へいって、たまたまそういう出版社にいたために本をやみくもに読んだ。だから、ぼくには誰も師匠ってのはないわけだ。(一四六〜一四七ページ)

虞世南(ぐ せいなん、558-638) 初唐の書家。書〈孔子廟堂碑〉。

相沢春洋(あいざわ しゅんよう、明治29〔1896〕-昭和38〔1963〕) 神奈川県横須賀生。名は茂、別号に二水・天心・酔硯がある。大正2〔1913〕年、中村春堂に師事。同5〔1916〕年、早稲田大学卒業。書道研究二水会を主宰し、雑誌《手習》を発行した。泰東書道院理事審査員。戦後、日本書道美術院の創立に参画し理事審査員として同院の発展に寄与した。日展に書道が参加するとともに審査員も数回務めた。「明治以後の古典復帰を唱える書壇の中で春洋はわが国上代から近世に至る広範な領域にわたる学書に及び、書のほか、大和絵や絵巻、さらに文房四宝など博識をもって聞こえ、漢字かなの各体を巧みにこなす和様能書家として、銘記すべき存在である」(古谷稔)。5月10日の様子は、春洋が《手習》に発表した雑記に記されているので引用する。ここには「例の人々」とあるだけで佐藤春陵の名は見えないが、同5月3日に登場する。

○十日 五時半着。一時間程寝て稽古に取かかる、世話になつた人々に礼状を書く、楽石斎から硯が沢山届く、夜は例の人々集まり関戸古今や古筆の話に実物の有難さを語り十一時を過ぐ。(相沢春洋《春洋雑記〔第2巻〕》、相沢春洋先生遺業顕彰会、〔1985〕、一四五ページ)
○三日 春陵君秀衡文箱を呉れる、盛岡地方の古いのを頼んだのだが至難な話、有れば国宝級の存在である、美しく新らしい箱が金色に脇床に光る、〔……〕(同前、一四三ページ)

《春洋雑記〔全4巻〕》は昭和60〔1985〕年が春洋の二十三回忌に当たることから、相沢春洋先生遺業顕彰会が合冊・刊行したもの。原本のフォトコピーを袋綴じ製本しただけあって判読に苦労するが、本書から佐藤春陵の事績を明らかにするための手掛かりが得られるかもしれない。

褚遂良(ちょ すいりょう、596-658) 初唐の書家。作〈雁塔聖教序〉。

欧陽詢(おう ようじゅん、557-641) 初唐の書家。書〈九成宮醴泉銘〉。

九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい) 楷書。唐の貞観6〔632〕年の建碑。太宗の勅旨によって魏徴が撰文し、欧陽詢が書いた。「楷法の極則」を伝える傑作。24行・各行50字。陝西省麟游県に現存する。日本では昭和から小中学校の教科書の手本に取り入れられ、後世に多大な影響を与えた。

東邦書策(とうほうしょさく) 書家・篆刻家の佐藤研石(明治39〔1906〕年-平成4〔1992〕年)が編集し、自身が主宰する筆華會(仙台市東五番丁一一番地)が発行した月刊書道雑誌。遺されているのは昭和11〔1936〕年の第3巻から昭和15〔1940〕年の第7巻までで、最初の部分が欠けている。研石は福島県岩城郡赤井村生まれ。本名は林兵衛、号は鵞照・研石・中虚庵。東北大学に書記として勤務した。大正14〔1925〕年、仙台へ転居、師の高橋天華(明治4〔1871〕年-昭和8〔1933〕年)が亡くなった翌年、筆華會を主宰し、主幹として《東邦書策》を編集・発行した。
《東邦書策》昭和14〔1939〕年7月号(第6巻第7号)には、〈第五拾六回競書成績〉の「規定」四級に(地名なしで)白苔の名前がある。筆華會同人・及川華谷による同号「随意」四級の審査評に「○白苔 散漫」(二〇ページ)とあり、作品は掲出されていない。翌8月号(第6巻第8号)には、〈規定入選〉に「禅房花木深〔常建の五言律詩〈破山寺後禅院〉の第四句〕/四 白苔生」(九ページ、下の写真参照)が掲出されており、吉岡が日記に書いたのはこのことに違いない(それはそうと「白苔」は誰が付けた雅号なのだろう)。同号〈第五拾七回競書成績〉の「規定」および「随意」四級にそれぞれ(地名なしで)白苔とあり、「規定」四級の及川華谷の審査評に「○白苔 大変良くなって来た」(一八ページ)と見え、吉岡の精進がうかがえる。なお、同号「規定」推薦・特選・一級の審査評は相沢春洋(筆華會同人には名を連ねていない)が書いており、吉岡は佐藤春陵とその師・相沢春洋のつながりで研石の《東邦書策》の清書添削を受けたものか。だとすれば、吉岡に白苔と名付けたのは春洋だとは考えられないだろうか。

《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の表紙〔モノクロコピー〕 《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の吉岡実の書のページ〔モノクロコピー〕 《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の吉岡実の書のアップ〔モノクロコピー〕
《東邦書策》(筆華會、昭和14〔1939〕年8月号)の表紙(左)と同誌掲載の吉岡実の書〔最下列の右から二つめ〕のページ(中)とそのアップ(右)〔いずれもモノクロコピー〕

手習(てならい) 相沢春洋の書道研究雑誌。月刊。大正14〔1925〕年に創刊した個人雑誌《春洋》(東京、二水会)を昭和5〔1930〕年に《手習》と改題。昭和18〔1943〕年に戦時統制を受け、その後一時休刊したが、昭和38〔1963〕年に歿するまで疎開先の栃木県鹿沼市で発行を続けた。

挨拶状の封筒の宛名書き 西村書店(社長は戦後、吉岡が勤務した香柏書房を興すことになる西村知章)創業の挨拶状であるからには、当然墨書だろう。――評者の両親はともに昭和初年の生まれだが、改まった書状は毛筆で書いた。勤め先(父は鉄道省のち国鉄、母は新潟・佐渡の村役場)でも字が書けるということで重宝された。


現代日本名詩集大成版《僧侶》本文のこと(小林一郎、2008年8月31日)

吉岡実詩集《僧侶》は1958年11月20日に書肆ユリイカから限定400部の単行本として出版されたあと、1年を経ずして篠田一士編集・解説《吉岡實詩集〔今日の詩人双書5〕》(書肆ユリイカ、1959)に全篇が収録されることで広く読まれた(種村季弘はたしか本書で《静物》を諳じるまで読んだ)。《僧侶》はその翌1960年、東京創元社による「明治・大正・昭和戦後詩集」の叢書《現代日本名詩集大成》の第11巻に全篇収録されて、金井美恵子のような年若い読者も獲得したことは〈吉岡実の〈小伝〉〉に書いた。同文ではあえて触れなかったが、現代日本名詩集大成版《僧侶》の本文には少なからぬ問題があるので、ここではそれを指摘しよう。詩篇最終ページの〈死児〉本文のあとに、一行アキで底本に関する次の記述がある。

 *『僧侶』は一九五八年十一月二十日、書肆ユリイカ発行に拠った。(同書、三三二ページ)

初版《僧侶》と現代日本名詩集大成版の本文を校合した結果を以下に――初版の「もしじぶんの蛇腹が暗の裡から充分のび」(〈単純〉C・9)が同書の三一八ページ上段で「もしじぶんの腹が暗の裡から充分のび」となっている状態を次のように略記して――掲げる。

  1. もしじぶんの〔蛇←ナシ〕腹が暗の裡から充分のび(〈単純〉C・9、三一八・上)
  2. 冬の刈られた槍ぶすまの高〔粱←梁〕の地形を(〈苦力〉C・13、三二〇・下)
  3. 老いたねずみの形骸を発〔光←作〕させ(〈喪服〉C・15、三二三・上)
  4. 建物は〔人の←ナシ〕半身と共に沙の首府へ沈み(〈人質〉C・17、三二三・下)
  5. 軍〔艦←鑑〕の下腹を見る(同前、三二四・上)
  6. 世界の陸地の〔人の←ナシ〕半分の怒りの眼と(同前、三二四・下)
  7. 少女の桃を水道で洗わ〔せず←す〕(〈感傷〉C・18、同前)
  8. いかなる交換を待つている〔の←ナシ〕か(同前、三二五・下)
  9. ときどき鉄〔砲←鉋〕の筒先が向けられて(〈死児〉C・19、三二九・上)
  10. 軍〔艦←鑑〕は砲塔からくもの巣をかぶり(同前、三三〇・上)
  11. 或る廃都〔・←全角アキ〕或る半球から(同前、三三二・上)

これらのほかにも、散文詩型の〈美しい旅〉(C・16)の全角アキがベタになっているところが一箇所、〈死児〉の字下ゲが二字不足しているところが二箇所あるが、上掲の11を含めて不問に付すとしても、1・3・4・6・7・8は通読してただちに誤植とはわからないだけに、吉岡実による手入れとも思われかねず、問題である。いったいなぜこのようなことが起きたのか。本集の原稿がどのようなものであったか不明だが、《僧侶》の単行本そのものでなかったことは確かだろう。《僧侶》の原物でなかったのなら原稿はどのような形態だったのか、あれこれ想像するのだがよくわからない。1980年代の初め、私が小さな出版社で編集の見習いを始めたころ、事務所ではまだ青焼き――青焼き用紙に原紙を密着させて機械のローラー部に通すと感光して線や画が青く浮きでるあの「青写真」――で原稿の複写をとっていた。むろん費用が安かったからだが、使用する薬品の臭いに閉口したものである。青焼きは今日のフォトコピー(当時は「ゼロックス」と呼ぶ御仁もいた)のような反射光ではなく透過光を使うから、本などの冊子は複写できない。それはともかく、原稿が初版を書き写した文書だったと仮定しよう(初版は旧漢字で組まれているが、本書では新漢字になっており、漢字を新字で統一した手書きの原稿が作成された可能性は否定できない)。
活版印刷では文選担当者が活字を一文字一文字拾うため、形のよく似た別の漢字を誤って選んでしまうことがある。それが一文字誤植の主な原因だ。本書奥付には「印刷所 金羊社」とあり、現在はオフセット印刷中心の同社も、当時の書籍印刷の大半がそうだったように活版が常態で、組版作業も平準化されていたはずだ。出版社の校正担当者が原稿と照らし合わせて校正紙に赤字を記入するわけだが、1・3・4・6・7・8のような誤りは、入稿原稿が初版の原物かその複写であるかぎり、通常の校正をしていれば起こりえない。吉岡実の詩の場合、その特異なシンタックスゆえ、原稿の段階で写しまちがえると(誤植が詩集の後半、いな末尾の数篇にかたまっているのは、書写や校正をした人間の集中力が落ちてきた結果ではないか)、その誤記が素読み段階での疑問出しで検討・解決されることはまずないだろう。そうしたことを考えあわせると、吉岡は現代日本名詩集大成版の著者校正を(書きおろしの〈小伝〉を除いて)おそらくしていなかったのではあるまいか。叢書への初版《僧侶》の全篇収録という画期的な企てが、上記のような瑕疵を伴なう結果に終わったことは、まことに残念だと言わざるをえない。
《現代日本名詩集大成11》は1960年9月10日に東京創元社から初版が発行されたあと、東京創元新社から重版が出ている(東京創元社のサイトに掲載されている〈東京創元社|年譜〉には「1961年(昭和36年)9月、東京創元社倒産」、「1962年(昭和37年)1月18日、東京創元新社として再スタート」とある)。手許の東京創元新社版の一本は、初版の貼函が機械函に変わっている1965年4月30日発行の「4版」だが(初版から通算した「4刷本」だろう)、上で指摘した問題の箇所はすべて初版と同一で、テキストは不備なままである。未見の2刷本・3刷本の版元が東京創元社/東京創元新社のいずれであっても、《僧侶》の本文が初版と同一であろうことは想像に難くない。


吉岡実と本郷・湯島――〈吉岡実〉を歩く(小林一郎、2008年7月31日)

吉岡実はしばしば曾遊の地を実際に歩いたあと、それを随想に書いている。今回は〈本郷龍岡町界隈〉と〈湯島切通坂〉をテキストに、本郷と湯島を探訪してみよう。いずれも《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)に収められた本文を引き、主要な事項にはリンクを張って註や写真を付す。まず〈本郷龍岡町界隈〉。初出は《旅》1978年12月号〈特集・東京――その魅力を再発見する〉の〈私だけの東京 MY TOKYO STORY〉中の一篇。

本郷龍岡町界隈|吉岡実

 秋のある日の午後、私は地下鉄の湯島で降り、切通坂をのぼった。シンスケという飲屋が今も同じ処にあって、なつかしい。昔――といっても、私が高等小学校を卒業して、本郷龍岡町にあった医学書の南山堂に奉公に行った、昭和九年ごろには、まだ坂の下に一人二人の立ちん坊がいて、荷車のあとを押していたものだ。白堊のマンションが建っている辺りは、岩崎邸の石塀が続いていた。風情のないホテルの角を曲って、私は湯島天神をお参りした。梅の花の咲く頃は、人でにぎやかだが、ふだんは淋しい。やがて南山堂の前に来ていた。旧友の二、三人はたしかにいるはずだが、尋ねることはやめて、隣の麟祥院の境内に入った。主人や上役に叱られた悲しい時など、私はよく大きなクスノキの樹の下に立ったものだった。
 臨済宗天沢[てんたく]山麟祥院は、春日の局の墓所として世に知られている。私は四十年ぶりで、人気のない墓地を歩き、局の墓を探したが一寸見つからなかった。木立の奥のほうで仕事をしている石屋さんに、教わってやっとわかった。住み込みで四年間も近くにいながら、私は一度もお参りをしてないことを知った。
 春日の局の墓は立派というよりも、私には異様に思われた。一種の五重塔をかたどったものだろうか、大きな基石の上に八角の台があって、つぎの蓮台に球体がのり、またその上の蓮台に男根のような石が立っているのだった。暮れ初めた空の下で、それをしばらく眺めて門を出た。通りをへだてた明日香という店に入ってコーヒーを飲んだ。店内は李朝の焼物の皿や壺がびっしりと積まれ、墨つぼ、机、箪笥などの木工品が置かれていた。倉庫のなかにいるような奇妙な雰囲気があった。他に客も少ししかいないので、私は奉公時代のことを、とりとめもなく想い出したりした。

 南山堂の出版物のなかでも、呉健・坂本恒雄共著の《内科書》全三巻本は、とりわけ名著とされていた。それだけに新学説をとり入れ、絶えず改訂していた。私は使い走りとして、しばしば校正ゲラを持って、帝大医学部の呉内科へ行ったものだ。それを受取ったり、赤字のゲラを返してくれる、無口で粗野にさえ見える助教授クラスの男がいた。よくいえばなりふりかまわぬ学究タイプというのだろうか。或る時、その人が試験管やフラスコなどの器がいっぱい置かれた、洗場へ悠然と小便するのを見て、私は驚いた。だがまた人間味あふれる姿に心打たれた。その人が後年の冲中重雄博士である。

 若い男ばかり三十人ほどが、一種の寄宿生活をしている店では、監視役として、退役少佐の伴さんという老人をやとっていた。毎日夕暮れに出勤してくるので、私たちは晩[、]さんと陰口を叩いた。首も腰も曲った生気のない人で、いつも着物をきていた。夜、仕事が終れば一応自由な時間を持てたが、外出簿に行き先と帰店時間を記入しなければ、遊びにも出られなかった。伴さんがそれを管理していた。
 私はよく不忍の池のほとりや上野広小路へ行った。そぞろ歩きの人たちで、賑やかな夜店をのぞき歩くのは楽しい。帰りには黒門町近くの芭蕉館という喫茶で、お茶をのみながら備えつけの俳句雑誌を読んだりした。
 暗い切通坂を上りきると、すきやきの江知勝がある。ここでは毎晩のように、帝大、一高の先生や学生たちが放歌高吟していた。奉公人たちには縁のない世界だった。私は店に戻り、帰店時間を書き入れて、寝たものである。
 本郷龍岡町という地名は、今はない。(同書、三八〜四〇ページ)

続いて、上掲文の4年後に湯島を描いた〈湯島切通坂〉。初出は《美しい日本 22 文学の背景》(世界文化社、1982年〔月日記載なし〕)の〈〈北海道・東北・関東・中部〉漂泊のたましい〉中の一篇。

湯島切通坂|吉岡実

 私は晩春の夕方ちかく、湯島天神をたずねた。いつもは、切通坂を上るのだが、その日は男坂をのぼった。たしかこの辺りに、晩年の久保田万太郎が住んでいたと、聞く。坂とはいっても、三十八段の石段である。二、三人の子供が遊んでいた。

  梅咲くや湯島の社頭春浅し 虚子

「男坂」の由来を書いた標示板の末尾に、この一句が掲げてあった。梅の花の頃は、見物の人で賑やかであるが、今は境内に人影もなかった。社前の金網の囲いに、もろもろの祈願をこめた、夥しい絵馬が懸っていた。

 〽〔歌記号〕湯島通れば 思い出す
  お蔦主税の 心意気
  知るや白梅 玉垣に
  残る二人の 影法師

 有名な「湯島の白梅」の第一節である。この歌謡曲は、泉鏡花の『婦系図』が映画化された時の主題歌であった。私はとくに鏡花の熱心な読者ではないので、『高野聖』とか『白鷺』ぐらいしか読んでいない。だから、『婦系図』といえば、芝居や映画で見た「湯島の境内」の一場面しか、心にうかばない。しかし、「湯島」という場所は、私にとって、印象の深い土地なのだった。歌の文句ではないが「湯島通れば思い出す」ことがある。

 昭和九年の春、私は高等小学校を卒業するとすぐ、本郷龍岡町に在った、医学書肆N堂へ奉公に行った。店で働く者は、お仕着せの着物に前掛け姿なのでいささか私は驚いた。「小僧さん」という言葉が、まだ生きている時代だった。私は毎日のように、自転車で、お使いや本の配達のため、切通坂をのぼり降りした。またあるときは夜も遅く、数人の朋輩と荷車に発送物を積んで、急勾配の坂を下って、上野駅へ行った。帰りは空になった荷台に交代に寝て、冬空にまたたく星を仰ぎつつ、暗い切通坂をのぼった。そんなとき、私は里ごころを、覚えたものである。
 もう一つ淡い想い出がある。三、四年の単調な店員生活に倦んだころ、一人の少女と出会った。当時の人気小説だった、石坂洋次郎『若い人』の江波恵子のように、「小悪魔」の妖しさとあどけなさをひめている。他に思いを寄せる者もいるようだったが、少女は私にも好意を示した。
 それは、湯島神社の春の祭礼の夜だった。境内から参道まで、屋台が並び、参詣客が溢れていた。しんこ細工、綿飴、山吹鉄砲、鯛焼、おでん、どんどん焼(お好み焼)、金魚すくい、それらはいずれも、縁日にかかせないものだ。白い琺瑯の洗面器に、樟脳をつけた舟がしずかに走りまわっている、淋しい一隅もあった。人混みのなかに立って、お神楽の舞台を観ている、少女とつれの青年の姿を、私は見てしまった。着物を着た少女は大人びて、とくに美しかった。

 私は境内を出て、暮れなずむ切通坂を降りた。参集殿の石垣の下に、石碑が新しく建っているのに気づいた。

  二晩おきに、
  夜の一時頃に切通の坂を上りしも――
  勤めなればかな。

 石川啄木『悲しき玩具』の一首である。説明文によると――当時、啄木は本郷弓町の喜之床(現・新井理髪店)の二階に間借していた。そして一家五人を養うために、朝日新聞に校正係として勤務し、二晩おきに夜勤もした。――二年前に建てたとある。すでに、「女坂」ののぼり口の門は閉ざされていた。私は上野広小路まで歩き、池之端蓮玉庵へ寄った。森鴎外の『雁』のなかに、しばしば出てくる蕎麦屋である。江戸末期頃からの店であるらしい。すぐ近くに、蓮の多い不忍池がある。(前掲書、二六八〜二七一ページ)

本稿を書くにあたって二度、本郷・湯島を歩いた。最初は湯島駅で下車して、春日通りの南側を本郷三丁目駅(大江戸線)へと切通坂を登った。二度目は本郷三丁目駅(丸ノ内線)で下車して、春日通りの北側を歩いて切通坂を下り、向きを変えて無縁坂を下り、吉岡実の足跡をたどった。
上掲の註で引いた司馬遼太郎《本郷界隈――街道をゆく 37〔朝日文庫〕》(朝日新聞社、1996年7月1日)は、本郷や湯島を散策するのに必携の一冊である。文京区の地図があればなお可だ。

小野桂編《湯島一丁目と附近の今昔誌》(湯島一丁目町会、1935)に投げ込まれていた〈文京区略図〉の本郷・湯島周辺
小野桂編《湯島一丁目と附近の今昔誌》(〔東京市本郷区〕湯島一丁目町会、1935)に投げ込まれていた〈文京区略図〉の本郷・湯島周辺〔刊記はないが、練馬区という記載があるから1947年以降の作成か〕

今日、吉岡実と本郷を結びつけているのは、地下鉄の都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された「詩の壁」である(アンソロジーのタイトルは“CROSSING HEARTS”)。2000年12月の大江戸線開通時の新聞記事によれば、地下1階改札口コンコース正面に設置されているレリーフは、縦約2メートル×横約10メートル。現代詩人48人の詩をエッチングした幅約9センチメートルの細長いアルミ板を16枚張ってある。アンソロジーは小林康夫・東京大学教授の発案により建築家の大野秀敏らがデザインしたもので、詩の選考委員は小林康夫と新井豊美・佐藤一郎・野沢啓・野村喜和夫・守中高明の6人。吉岡は上から4枚めに、「◎らっきようを噛る それがぼくの好みの時だ 病棟の毛布の深いひだに挟まれ ぼくは忍耐づよく待つ 治癒でなく死でなく 物の消耗の輝きを いまは四月 蜂の腰がうごく/吉岡実「回復」('58)」と、詩集《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)から〈回復〉(C・12)冒頭の8詩句が掲げられている。そもそも現代詩に石造りの詩碑など不似合いだが、今のところ「詩の壁」が吉岡実詩唯一のモニュメントである。

都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された現代詩48作品 都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された吉岡実詩篇〈回復〉の一部
都営大江戸線・本郷三丁目駅の壁面に展示された現代詩48作品(左)とその吉岡実詩篇〈回復〉の一部(右)


吉岡実とつげ義春(小林一郎、2008年6月30日)

吉岡実は随想〈画家・片山健のこと〉(初出は《文學界》1979年9月号)を次のように始めている。「十年ほど前、私はアングラ芸術の世界に溺れていた。いわゆる暗黒舞踏の始祖土方巽や両性具有の笠井叡の独自な創造の舞台に心うばわれていたし、また河原乞食を自称する紅テントの独裁者唐十郎の芝居の極彩色の哄笑の世界をかいま見ていた。また異才つげ義春の〈ねじ式〉などの漫画や、林静一の抒情画に注目していたものだ。そのような時、私は一人の画家の作品を知ったのである。幻燈社刊の画集《美しい日々》の片山健であった」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一六二ページ)。
吉岡は《土方巽頌》(筑摩書房、1987)では日記を録する形でつげ義春との出会いを書いている。「〈日記〉 一九七〇年九月三十日/ノアノアで金井美恵子の夕べ。はじめは笠井叡とかけあいの朗読。四谷シモンの泣かせる唄。市松人形のような可憐な美恵子の踊りは、黒塗りの下駄を口にくわえたラストが印象的だ。太宗寺わきのユニコーンで祝杯。天澤退二郎、笠井夫妻、嵐山光三郎そして、「ねじ式」の漫画家つげ義春と初めて会う。やきそば、妙め豆腐でジンフィーズ一杯。十時半散会」(〈25 黒塗りの下駄〉、四三ページ)。
のちに《神秘的な時代の詩》としてまとめられる詩を書きついでいた1960年代末、吉岡はつげの漫画、とりわけ〈ねじ式〉から鮮烈な印象を受けたと思しい。唐十郎や天澤退二郎にはつげ義春論があるから、〈ねじ式〉の評判はこうした友人たちからも伝わっただろうが(吉岡は面談の折、「どんな本を読んでるの?」と訊くのを常とした)、白土三平の《カムイ伝》を白石かずこの娘に贈っていたというから、〈ねじ式〉を初出の《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)で読んでいてもおかしくない。また、そのころ筑摩書房では鶴見俊輔・佐藤忠男・北杜夫編〈現代漫画〔第1期〕〉のシリーズが刊行されていて、第12巻《つげ義春集》(1970年2月25日)も身近にあったはずだから、われわれは《神秘的な時代の詩》と当時のつげ漫画を同時代の作品として受容していいだろう。
〈つげ義春ビブリオグラフィー〉に依って〈ねじ式〉のあらすじを記せば、「海辺に泳ぎに来てメメクラゲに腕を噛まれた異常な顔付きの少年は、医者をさがして、夢魔の世界を彷徨う。そこは、茅葺きが並ぶ漁村の中であり、工場わきであり、線路上である。その間、スパナをもつ中年男、蒸気機関車を運転するキツネ面の少年、金太郎飴をもつ老婆らに会い不条理に満ちた会話を交す。ようやく婦人科の女医にめぐり会い、フトンの中で○×方式を応用したシリツが行われる。手術に成功した少年の左腕には、血管をつなぐネジがつけられたままである」(つげ義春・権藤晋《つげ義春漫画術〔上〕》、ワイズ出版、1993年9月9日、二八九ページ)となる。
ここから直ちに想い起こされるのは〈崑崙〉(F・8)や〈神秘的な時代の詩〉(F・11)の詩行である。私はこれらの詩の評釈をしたが、その一番の魅力は(謎と言っても同じことだが)、評釈ではうまく掬いとることのできない行から行への「わたり」とでも言うべきある種の呼吸であり、《神秘的な時代の詩》のそれは、吉岡自身のほかのどの時代の作品よりも〈ねじ式〉との類縁を感じさせる。松岡正剛はつげを「画面ごとのトビがうまい」と評したが(〈松岡正剛の千夜千冊『ねじ式・紅い花』つげ義春〉)、1960年代末の吉岡は詩句ごとのトビが冴えわたっている、と言いたい。

《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)の表紙〔出典:ブログ〈COMとガロから〉〕
《ガロ》増刊号〈つげ義春特集〉(1968年6月)の表紙〔出典:ブログ〈COMとガロから〉


吉岡実と土方巽(小林一郎、2008年5月31日〔2008年7月31日追記〕)

稲田奈緒美《土方巽 絶後の身体》(日本放送出版協会、2008年2月25日)が出た。600ページになんなんとする、現時点で最も精細な土方巽の評伝である。雄篇と呼ぶにふさわしい渾身の作だ。吉岡実は「〔一九六七年〕二月、加藤郁乎の詩集『形而情學』が室生犀星賞を受賞し、祝う会が開かれた。その席には多くの詩人と共に土方も招かれ、土方と詩人の吉岡実は出会い、その後、接近してゆく」(本書、二三三ページ)で初めて本文に登場する。以下、おもに《土方巽頌――〈日記〉と〈引用〉に依る》(筑摩書房、1987)からの引用の形で、本書には吉岡の証言が多数登場する。本文の記述はほとんど間然するところのない《土方巽 絶後の身体》だが、惜しむらくはこの種の書籍に必要不可欠な人名索引を欠く。そこで「吉岡実」の項だけだが、自作したので以下に掲げる(本来は人名索引として拾わないが、《土方巽頌》の出典表示があるページは、「吉岡」の名がなくても「《土方巽頌》からの引用」と記した)。

吉岡実
5, 233, 235-236, 238-239, 258, 271-272, 295-296, 308, (309-310:《土方巽頌》からの引用), 315, 343, (344:《土方巽頌》からの引用), 353, 356, 388, 401, 405, 415, 419, 423-426, 438, 471, 473, 482-483, 512-514, 516-518, 522-523, 531-532, 535-536, 548-549, (550:《土方巽頌》からの引用), 555-557, 566, 569, (570:《土方巽頌》からの引用), 571, (572-573:《土方巽頌》からの引用), 574-576

巻末には6ページにわたって〈土方巽略年譜〉が掲載されている。本書読了後に《土方巽頌》を読みかえしたので、吉岡が観た土方作品を同年譜から引きうつして、〔 〕内に《土方巽頌》記載の年月日を付した(曜日は評者による)。

  1. 《アルトー館第二回公演》〈ゲスラー・テル群論〉に出演〔1967年4月2日(日)〕
  2. ガルメラ商会謹製《高井富子舞踏公演》〈形而情學〉を演出・出演〔1967年7月3日(月)〕
  3. ガルメラ商会謹製《石井満隆DANCE EXPERIENCEの会》〈舞踏ジュネ〉を演出・振付・出演〔1967年8月28日(月)〕
  4. 《高井富子舞踏公演》〈まんだら屋敷〉を演出・振付・出演〔1968年9月28日(土)〕
  5. 《土方巽舞踏公演》〈土方巽と日本人――肉体の叛乱〉を演出・振付・出演〔1968年10月10日(木)〕
  6. 《燔犧大踏鑑第二次暗黒舞踏派結束記念公演・四季のための二十七晩》〈疱瘡譚〉〈すさめ玉〉〔1972年10月31日(火)〕〈碍子考〉〔11月7日(火)〕〈なだれ飴〉〔11月13日(月)〕〈ギバサン〉〔11月16日(木)〕を作・演出・振付・出演(出演は〈なだれ飴〉を除く)
  7. 《燔犧大踏鑑公演〔踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間〕》〈静かな家 前編〔1973年9月2日(日)〕・後編〔9月15日(土)〕〉を作・演出・振付・出演
  8. 《大駱駝艦・天賦典式》で麿赤兒作・演出〈陽物神譚〉に特別出演。舞台出演の最後となる〔1973年10月3日(水)〕
  9. 《アスベスト館続館びらき・白桃房舞踏公演》〈サイレン鮭〉を作・演出・振付〔1974年11月28日(木)〕
  10. 《アスベスト館続々館びらき・土方巽燔犧大踏鑑・白桃房舞踏公演》〈ラプソディー・イン「二品屋」〉を作・演出・振付〔1975年2月1日(土)〕
  11. 《アスベスト館公演・燔犧大踏鑑》作品Y7〜11〈バッケ先生の恋人[3/23-30]〉〈彼女らを起すなかれ[5/24-31]〉〈小日傘[7/25-31]〉〈嘘つく盲目の少女[9/24-30]〉〈暗黒版かぐや姫[12/10-17]〉を作・演出・振付〔1975年3月〜12月なれど、いずれも月日の記載なし〕
  12. 《暗黒舞踏派結成二〇周年記念連続公演・燔犧大踏鑑》作品Y14〜15〈ひとがた[6/10-23]〉〔1976年6月なれど、日付の記載なし〕〈正面の衣裳――少年と少女のための闇の手本〉を作・演出・振付
  13. 《暗黒舞踏派結成二〇周年記念連続公演・アスベスト館封印記念公演・燔犧大踏鑑》作品Y16〈鯨線上の奥方〉を作・演出・振付〔1976年12月15日(水)〕
  14. 《大野一雄舞踏公演》〈ラ・アルヘンチーナ頌〉を演出〔1977年11月1日(火)〕
  15. 《大野一雄舞踏公演》〈わたしのお母さん〉を演出〔1981年1月23日(金)〕
  16. 《土方巽暗黒舞踏》「映像構成と談話による」を構成〔1983年1月27日(木)〕
  17. 《フック・オフ88――景色へ1瓲の髪型》を構成。〈スペインに桜〉〔1983年4月22日(金)〕〈planB 寺模写〉〈非常に急速な吸気性ブロマイド〉〔4月27日(水)〕の三部作を作・演出・振付
  18. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画一〉を作・演出・振付〔1985年3月31日(日)〕
  19. 《アスベスト館開封記念公演》'85作品Y1〈親しみへの奥の手〉を作・演出・振付〔1985年5月26日(日)〕
  20. 《アスベスト館売却成立記念公演》土方巽作品Y88〈油面のダリヤ〉を作・演出・振付〔1985年9月22日(日)〕
  21. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画三〉を作・演出・振付〔1985年9月30日(月)〕
  22. 《スタジオ200舞踏講座》〈東北歌舞伎計画四〉を作・演出・振付。遺作となる〔1985年12月22日(日)〕

本文には公演期間が記されているので、吉岡の観覧が初日なのか楽日なのかなどと見ていくと、興趣は尽きない。本書にはこれら土方作品の講評が記されており、吉岡の《土方巽頌》と対照して読むと意味深い。一例を挙げよう。上記7の《燔犧大踏鑑公演〔踊り子フーピーと西武劇場のための十五日間〕》〈静かな家〉について、稲田氏と吉岡はそれぞれこう書く。

〈静かな家〉は、その内容が《四季のための二十七晩》から多くのシーンを借りて再構成したような作品であったことから、これまであまり評価されてこなかった。しかし、〈疱瘡譚〉と同様に土方のからだの動きそのものに注目することで、土方が《四季のための二十七晩》以来続けている新たな身体への試みを理解することができるだろう。(本書、四一二ページ)

〔……〕「静かな家」後篇を観る。三時間近く、緊張をしいられる舞台だった。――あらゆる芸術家にはかつての自己の作品を、引用し、変形し、増殖してゆくという、営為がある。この作品にもそれがあるように思われた。(《土方巽頌》、七一〜七二ページ)

1962年生まれの稲田氏は、土方巽の舞台を観ていない。次善の策として、当たり得るあらゆる映像資料を渉猟して土方巽の身体に迫ろうとする稲田氏の批評の根底には、踊る者の自恃がある。「かつて六〇年代の土方は、澁澤龍彦らからフランスの異端文学や思想を吸収し、瀧口修造らからシュルレアリスムの方法を参照し、あるいは同時代の空気からマルクス主義的思想も通り抜け、日本の西欧近代化へのアンチテーゼを力強く、暴力的に体現した」(本書、五五三ページ)から「身体を思考し、語ることと、踊り、上演することの間には、深い断絶がある」(本書、五五四ページ)までのふたつの段落、700字弱こそ本書の白眉であり、土方の身体の到達点を指摘するとともにその限界を剔抉している。だがこの一節は、不世出の舞踏家の評伝に仕組まれた怖ろしい時限装置ではないか。はたして、土方の身体は空前だったのか、それとも絶後だったのか。自らも踊る舞踊研究者による本書は、吉岡実の頌が同時代の文学者による、土方の舞台の客席からの記録、土方の身体を外側から観た評伝であるのと、まことにもって鮮やかな対照をなしている。

《土方巽 絶後の身体》には、巻末の〈主要参考文献〉に挙げられていない資料からもふんだんに引用がちりばめられていて、吉岡実詩のスルスと想われる土方巽のことば――澁澤龍彦によるインタヴュー〈肉体の闇をむしる……〉(《展望》1968年7月号)――も登場する。ちなみに、本書には吉岡実詩への言及はあっても、詩句の引用はない。

●真綿でフクフクくるまれた姉の足をたどって(〈聖あんま語彙篇〉G・8)……要するに真綿でくるんだような、ふくふくした舞踏というのが日本舞踊ですからね。(本書、二六七ページ。前掲誌、一〇四ページ)

以下は吉岡実と土方巽の著述についてである。いくつかはすでに記したことがあるが、ここでまとめて《土方巽頌》の誤記・誤植を校閲・校訂しておこう。表示は、誤→正(ページ数・行数)。

  1. インディアン・ペーパー→インディア・ペーパー(七・1)
  2. 『イェスタデイ』→『イエスタデイ』(一〇・2)
  3. 「由井正雪」→「由比正雪」(一七・2)
  4. 瑳珴美智子→瑳峨三智子(四四・3)
  5. 小林瑳珴→小林嵯峨(五三・1、五五・9、五九・10、一一〇・4)
  6. 「美人の病気」→「美人と病気」(八二・9)
  7. ことはできない→ことができない(一一一・13)
  8. 港が見える丘公園→港の見える丘公園(一一二・1、6)
  9. 日本舞踏家→日本舞踊家(一三〇・5)
  10. サービスの女性たちを気を配ってくれて→サービスの女性たちが気を配ってくれて(一五七・5)〔文意から〕
  11. 益田勝美→益田勝実(一六六・7)
  12. 「ユリイカ」〔……〕一九八五年三月号→一九八六年三月号(二四三・17)

吉岡実が《土方巽頌》で引用した諸家(50音順に、芦川羊子、天澤退二郎、飯島耕一、池田龍雄、池田満寿夫、市川雅、巖谷國士、宇野邦一、大内田圭弥、大岡信、大野一雄、大野慶人、笠井叡、加藤郁乎、唐十郎、國吉和子、郡司正勝、合田成男、木幡和枝、澁澤龍彦、清水晃、白石かずこ、鈴木一民、鈴木志郎康、高橋睦郎、瀧口修造、田中一光、田中泯、谷川晃一、種村季弘、鶴岡善久、出口裕弘、長尾一雄、永田耕衣、中西夏之、中村宏、中村文昭、ニーチェ、羽永光利、埴谷雄高、土方巽、古沢俊美、細江英公、松山俊太郎、麿赤児、三島由紀夫、水谷勇夫、三好豊一郎、元藤Y子、矢川澄子、八木忠栄、吉増剛造、吉村益信、ほか)の文章は題名や出典が書かれていないため、上記の2と9以外、原典に当たって校合できていない。他日を期したい。
なお〈49 「黄泉比良坂」〉に笠井叡舞踏団の〈黄泉比良坂〉公演チラシから引用されている「作者不詳」の歌は、山口王仁三郎、大正6年の作〈大本神歌〉だろう。
今回、《土方巽頌》に引かれた土方の文章の出典を調べているうちに、面白いことに気がついた。吉岡が題辞に掲げ、同書の帯文にも採られて有名になった「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」(同書、〔二ページ〕)と同一の章句が土方の文章中に見当たらないのである。近似したものなら、ふたつある。

いのちがけで突っ立っている死体は私達のもので、彼方なるものは肉体の中にある。(〈肉体に眺められた肉体学〉、土方巽《美貌の青空》、筑摩書房、1987年1月21日、六八ページ。初出は1969年)

踊りとは命掛けで突っ立った死体であると定義してもよいものである。(〈人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。〉、同前、八七ページ。初出は〈風化考〉(廣末保編《伝統と創造〔伝統と現代12〕》、學藝書林、1971)、のち1975年に〈人を泣かせるようなからだの入れ換えが、私達の先祖から伝わっている。〉と改題して再掲〔《美貌の青空》の〈初出および若干の註〉では後者を初出としている〕)

市川雅は土方巽を論じた〈燔犠大踏鑑〉で「土方がかつて「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」といったことを思い出さずにはいられない」(《舞踏のコスモロジー》、勁草書房、1983年7月5日、一七三ページ。初出は1973年)と書いている。洋書の構成を踏襲した《土方巽頌》の執筆中、題辞に掲げるための土方の舞踏に関する決定的な文言を探していた吉岡が、これを市川文に見出して孫引きしたのではないか、というのが私の推測である。

〔追記〕
吉岡実が土方巽の〈病める舞姫〉の雑誌連載を切り抜いて、二穴で綴じて簡素な冊子にしていたことは以前にも書いた(おそらく吉岡に手製本の趣味はなかったろう)。私は〈病める舞姫〉の初出はコピーしか手許にないため、閲覧に不便だった。いい機会なので、坂井えり《デジタル技術と手製本》(印刷学会出版部、2007)を参考にしながら、そのコピーを折本に仕立ててみた。

土方巽〈病める舞姫〉の雑誌連載(《新劇》1977年4月号〜1978年3月号〔1977年11月号と1978年2月号は休載〕)のコピーを小林一郎が折本に仕立てたもの 土方巽《病める舞姫》(白水社、1983)の献呈入り署名本
土方巽〈病める舞姫〉の雑誌連載(《新劇》1977年4月号〜1978年3月号〔1977年11月号と1978年2月号は休載〕)のコピーを小林一郎が折本に仕立てたもの(左)と土方巽《病める舞姫》(白水社、1983)の献呈入り著者署名本〔Yahoo!オークションの画像〕(右)

〔2008年7月31日追記〕
〈吉岡実と土方巽〉をお読みいただいた真島大栄さんからメールをちょうだいした。真島さんは土方巽が亡くなる2年前ころからアスベスト館の舞踏講習会に参加していた、土方最後の弟子である。

「東北歌舞伎計画の4」のラストシーンは薬玉を割って終了しました。(2日あった公演の一日目は和栗〔由紀夫〕さんが、紐を引いても薬玉が割れず、げんこで叩いて薬玉は割れました)/土方さんが亡くなったあと、吉岡さんが「薬玉」という詩集を発表していたことを知り、あれは、「静かな家」と題名はつかなかったけれども。題名が冠されていたら「薬玉」という名になった舞台だったんだ、いつか、読んでみたいと思っていました。

さきごろ真島さんが高井富子氏から貰った蔵書のなかの一冊《季刊地下演劇》創刊号〈特集・反劇場〉(グロオバル社、1969年5月)に〈殺人を演出する〉という土方巽の談話(質問者・前田律子)が掲載されていて、その土方発言にある「〔……〕私の舞踏の基本形の中には「舞踏は命がけでつっ立っている死体だ」っていう宣言がありますから」(同誌、六四ページ)という一節が「舞踏とは命がけで突っ立った死体である――土方巽」のスルスではないかとのご指摘をいただいた。さっそく真島さんから送られたコピーを読んでみると、土方のこの宣言が上掲市川文(初出は1973年8月15日、アスベスト館発行の新聞《燔犠大踏鑑》だそうだ)に引かれて定着し、それ(ら)が吉岡実の目にとまったことは疑いないように思われる。土方はこの舞踏のテーゼを、執筆こそしなかったものの、自身の口から発していたのである。ところで、興味深いのはこれだけではなかった。この談話のおしまいで、自分を何者だと思うかと問われて、土方は答えている。

土方 やっぱり情ない男、淋しくて。だから私、欲しい物は必ず手に入れますから。必ず手に入れているし、誤った事がなかった。ですから私、非常にオリジナルな仕事、その内容よりもその人がどういう環境でそれを書いたかっていうことを見ますよ。
 私の親しい尊敬している詩人に吉岡実という男がいてあなたはどういう時に詩書くのって聞いたら、女房が買物に行った留守に書くっていうんですよ。奥さんが帰ってきて「できた」って入ってくるとね「できたよ」。そういう風にスッと顔を合わせる。そのスペース、環境。ですから音楽なら音楽を入れる器、芝居なら芝居を入れる器、全部その肉体のような気がするんですね。〔……〕(同誌、六八ページ)

詩作について、かつて吉岡実は土方巽にこのように語っていたのだ。


吉岡実編集の谷内六郎漫画(小林一郎、2008年4月30日)

吉岡実は戦後間もなく谷内六郎(1921-81)の漫画を編集して出版しているが、今日までその詳細がわからなかった。両者の証言をもとに、谷内漫画刊行の経緯をたどってみよう。

まず、吉岡が谷内のことを〈断片・日記抄〉に書いた。――
昭和二十二年〕九月十二日 漫画家の谷内六郎君と急に親しくなる。彼に、私の詩集《液体》を貸してやったら、今日返しにきて、とても感動したという。(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一〇九ページ)

それを読んだ大岡信に問われて、吉岡は答えている。――
大岡 谷内六郎さんの名も日記にぽこっと出てくるね。
吉岡 谷内六郎との出合いはこういうこと。隆文堂〔東洋堂(吉岡が1946年10月から1951年に筑摩書房に入社するまで勤務した)の別名の出版社で、牛窪忠装丁の吉屋信子《女の階級》(三版:1948年7月30日)などを出版〕は小説をやってたけど漫画もやろうじゃないかということになったんだ。それで漫画家を探したわけだ。で、たまたま共同通信かどっかで出した谷内六郎の『シンジツイチロウ』という漫画を見たらとても素晴しいんだな。この漫画家を探そうってんで、谷内六郎を下馬かどっかの家へ訪ねていった。彼はその頃喘息病みでゼイゼイしてたように思う。無名の六郎さんと出合ったのはその時だよ。
大岡 谷内さんが週刊新潮の表紙を描く、ああいうふうになるずっと前でしょ。
吉岡 ずっと前。ほとんど一部にしか知られない漫画家だったんじゃないか。ただ、すごくナイーブないい漫画を描いてたから、それを見当つけて、で六郎さんのとこに会いにいって頼んで、おそらく二冊つくったように記憶してる。それで六郎さんとはその後も親しかったんだけど、結局、隆文堂もつぶれかかって、辞めて筑摩へいくことになって、それで六郎さんとの縁が切れてっちゃうわけね。(《ユリイカ》1973年9月号、一五〇〜一五一ページ)

《ユリイカ》の同じ号(吉岡実特集)に寄せた谷内六郎の〈吉岡さんの眼〉にはこうある。――
 大きい眼、ずんと底知れない思いを沈めたとでもいうような眼、〔……〕しかしわざわざぼくの描いたマンガをていねいに見てくれた。/〔……〕/たわいもないマンガだったかもしれないがそれをわざわざ紹介して本にしてくれるまでにめんどうをみてくれた吉岡さんです。/〔……〕ぼくは発作の病床でくりかえし吉岡さんのくれた詩集を読みかえしました。/それはたいへん高い、感性にひびく心の詩でありました。/〔……〕/吉岡さんが銀座で「まあ、おあがりなさい」言葉少なく御馳走してくれたレストランとあの吉岡さんの大きな眼、何を見つめるのか解からない、ぼくには解らない眼は、やさしい[、、、、]と同時にいつもおそれ[、、、]がぼくの心にありました。/でも此頃になってその吉岡さんの何か深い水圧のようなものに耐えて思考し続け、「言葉を磨く」西洋の昔の錬金術師にも似ている生き方と、その大きな眼の秀才的な解らない光が、何んとなく解って来たように思いますが、これはぼくの独断的な吉岡さんの像です。〔……〕(同誌、八六ページ)

谷内はさらに翌翌年、〈わたしの絵の世界〉でこう書いている。――
戦後一番先に単行本を出しました。昭和二十一年頃に何冊か子供向けの本を出版してくれる人がいまして出しましたが、それらの本を出版してくれた人は今は偉い人です。/いずれも終戦の焼あとで、浮浪の児などが愛読してくれましたので本望であります。(谷内六郎画集《遠い日の絵本》、新潮社、1975年5月15日、一一六〜一一七ページ)

吉岡発言の『シンジツイチロウ』は、谷内と大竹貞雄の共著、表紙の書名が《英語入ローマ字漫画 SHINJITSU ICHIRO KUN[シンジツイチロークン]》(民報社、1947年7月5日)を指すのだろう。同書は今や稀覯本で、谷内自身が〈週刊新潮掲示板〉で「戦後の焼けあとで、浮浪の児[こ]たちも読んだ、ぼくのかげのベストセラー『シンジツイチロークン』英文入りローマ字マンガ単行本と、『笛吹き小次郎』の単行本をお持ちの方、お譲り下さい。いずれも昭和二十一年ごろ、発行したものです。戦後の焼けあとにできてきたバラック建ての店で留守番をして、電気パン焼器でパンなど焼きながら書いたマンガです。もちろんそのころは、マンガの原稿料では食べられませんでしたから、バラックの商店のチラシ――お菓子とか、アンミツとか、氷などの広告――の仕事をしながらかいたものでした」(《週刊新潮》1975年10月2日号、一二四ページ)と依頼しているくらいだ。《シンジツイチロークン》の書影は《谷内六郎 昭和の想い出〔とんぼの本〕》(新潮社、2006)に見える。同書の〈略年譜〉には「昭和21年(24-25)/激しかった喘息が快方へ。「民報」紙に4コマ漫画「真実一郎君」を連載」、「昭和23年(26-27)/漫画本『笛吹き小次郎』『魔の地中城』をマンガの友社より刊行」(同書、一二五ページ)とあるが、戦後間もなく隆文堂から出た(?)吉岡実編集の肝心の2冊は、その書名さえわからない。それとも、《マンガ 笛吹き小次郎》と《大冒険マンガ 魔の地中城》がそれなのか。谷内の年譜や書誌をいくら眺めていても埒が明かないので、原物を見るに如くはないとNDL-OPACで検索すると、《魔の地中城》が上野の国際子ども図書館に所蔵されていた。なお、上掲文では2冊とも発行所が「マンガの友社」とされているが、図録《占領下の子ども文化〈1945〜1949〉》(ニチマイ、2001)によれば、《笛吹き小次郎》の発行所は「漫画の友社」とある。

谷内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の表紙 谷内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の中面 谷内六郎《大冒険マンガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)の奥付
谷内六郎《マンガ 笛吹き小次郎》(漫画の友社、1948年1月10日)の表紙(左)と同・中面(中)〔画像の出典はいずれも早稲田大学「占領下の子ども文化〈1945〜1949〉展」実施委員会編《占領下の子ども文化〈1945〜1949〉――メリーランド大学所蔵・プランゲ文庫「村上コレクション」に探る》(ニチマイ、2001年5月12日)、一三四ページ〕と谷内六郎《大冒険マンガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)の奥付〔モノクロコピー〕(右)

《笛吹き小次郎》で特徴的なのが、コマ番号の書きぶりである。谷内には1941年(吉岡の詩集《液体》と同時期!)制作の〈ハマベノコ〉というカラー14ページ、55コマの漫画があって(《谷内六郎展覧会 別巻 夢〔新潮文庫〕》、新潮社、1982、所収)、このコマ番号がほとんど同じなのである(《魔の地中城》にはない)。自身の手製本と思しい〈ハマベノコ〉の表紙には「ハマベノコ/昭和十六年作」と記入され、「日米戦争のはじまる/ハワイ会戦の頃/の習作絵本」と後年の追記(?)がある。商業出版の《笛吹き小次郎》と《魔の地中城》が「マンガ」であるのに対して、〈ハマベノコ〉が「絵本」を主張しているのは、谷内が制作の内発性を重視したためだろう。
国際子ども図書館には漫画の友社の刊行物が1冊所蔵されている。立塚茂夫《ぼおけんまんが キロちゃんの冒険》(1948年8月20日)がそれで、内容・表現とも谷内漫画の足元にも及ばない。次に、そしておそらく最後に、谷内六郎の《大冒険マンガ 魔の地中城》(マンガの友社、1948年10月10日)がくる。同書は全96ページ、2色刷を効果的に使用した少年向けのストーリーの一方で、宿痾からくる鬱屈を地中城城主「ドルセリン博士」の悪行に託した、谷内漫画の傑作である(前掲《昭和の想い出》には、タイトルを《ドルセリン》と変えて谷内が手製のジャケットをかけた一本が掲載されている)。編集者・吉岡実も、谷内六郎の《魔の地中城》を得て本望だったに違いない。
上(右)の画像ではわかりにくいが、左端に「発行所 マンガの友社/東京都中央区木挽町/中央工業ビル隆文堂内」とあって、同年8月から10月の間に隆文堂(住所は吉岡が勤めていた東洋堂と同じ)の別会社が「漫画の友社」から「マンガの友社」に表示を変更したと思しい。《キロちゃんの冒険》と《魔の地中城》の奥付には、ともに「納本」「23.11.20」とスタンプが捺してある(前者は発行後3ヵ月、後者は1ヵ月強、経過している)。この印がどの機関のものか判断する材料が今の私にはないが、吉岡の〈断片・日記抄〉の1948年12月10日「GHQの納本係に呼びつけられる。発行後かなりたって納本したので、まずかった。その本を明朝までに全部数揃えぬと、相当の処分にするとおどかされる」(《吉岡実詩集〔現代詩文庫14〕》、思潮社、1968、一一二ページ)という記述と照らし合わせると、興味深いものがある。


吉田健男の装丁作品(小林一郎、2008年3月31日)

〈吉岡実と吉田健男〉で吉田健男の挿絵や装丁を紹介したが、その後に知りえた作品を含む一覧を刊行順に掲げる。(末尾の*印は口絵や挿絵を、無印はカットを含む装丁作品を表わす)

  1. 羽田書店編集部編《ふしぎなごてん――世界のお話〔こども絵文庫23〕》(羽田書店、1950年12月20日)*
  2. 高藤武馬《ことばの学校〔小学生全集16〕》(筑摩書房、1951年12月25日)*
  3. 丸山薫《新しい詩の本〔小学生全集17〕》(筑摩書房、1952年1月31日)*
  4. アンナ・ルイズ・ストロング、山本譲二訳《中国人は中国を征服する》(筑摩書房、1952年12月10日)
  5. 萬澤遼《パ−ル街の少年たち〔中学生全集93〕》(筑摩書房、1953年3月25日)*
  6. 小山清《落穂拾ひ》(筑摩書房、1953年6月10日)
  7. 武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)
  8. 椎名麟三《愛と死の谷間》(筑摩書房、1953年9月30日)
  9. きだ・みのる《霧の部落》(筑摩書房、1953年9月30日)
  10. 大原武夫《花の魔術師〔小学生全集46〕》(筑摩書房、1954年1月5日) *
  11. 田宮虎彦《卯の花くたし》(筑摩書房、1954年2月15日)
  12. 椎名麟三《自由の彼方で》(大日本雄弁会講談社、1954年3月10日)
  13. 井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)
  14. 小山清《小さな町》(筑摩書房、1954年4月15日)
  15. 武田繁太郎《風潮》(筑摩書房、1954年6月30日)
  16. 中野重治《むらぎも》(大日本雄弁会講談社、1954年8月30日)
  17. 丸岡明《家なき子〔小学生全集54〕》(筑摩書房、1954年8月31日)*

吉岡実の文章にあるように、吉田健男は1954年の夏もしくは秋に年上の女性と心中したから、同年の作品の多さには痛ましいものを感じる。吉田はこれらの書籍の装丁や挿絵を制作しながら、遠からぬ日の自身の死を想っていたのではなかろうかと。一方、上掲一覧と同じ1950年(装丁に限れば1952年)から1954年にかけての吉岡の装丁作品は、わずかに次の2点である。

  1. グレアム・グリーン、丸谷才一訳《不良少年》(筑摩書房、1952年5月20日)
  2. 塩田良平・和田芳恵編《一葉全集〔全7巻〕》(筑摩書房、1953年8月10日〜1956年6月20日)

もっとも吉岡は筑摩書房の社員だったから、自社の出版物にはクレジットされていない(上記2点にも装丁者として名前は挙がっていない)。したがって、上記以外にもこの時期の装丁が存在する可能性は捨てきれないが、吉田健男の装丁に匹敵する点数はないと思われる。むしろそうした案件が発生したときはなるべく吉田に依頼して、おそらくフリーランスだった吉田健男の名前をできるだけクレジットしたのではないか。その後、吉田は講談社や朝日新聞社といった、筑摩書房以外の版元の出版物も手がけていったわけで、吉岡も「装丁家・吉田健男」の誕生を喜んだに違いない。では吉岡実は当時なにをしていたのか。後の《静物》(私家版、1955)の詩稿を書きつづっていたのである。吉岡の〈和田芳恵追想〉(初出は《新潮》1978年7月号)はこう始まっている。
「私は昭和二十六年に、筑摩書房に入って、新企画の《小学生全集》を、先輩の一人と担当した。準備期間であり、時間に余裕があったため、図書目録をつくることを命ぜられた。たまたまその出来あがりがよかったので、初の個人全集《一葉全集》の内容見本をつくるように言われた。/私はその時、はじめて和田芳恵なる人と出会ったのだ。いきが合ったせいか、内容見本も当時としては立派なものが出来た。装幀造本まで、私は手がけるようになってしまった。いくたびかお茶をのみ、雑談したりして、親しくなって、一葉研究の他に、《作家たち》と《十和田湖》《離愁記》などの小説を書いていることを知った。/和田芳恵は早くから、私のなかに、夢想する魂と職人気質が共存する、奇妙な男と思っていたらしい。そのころ、私は麻布豊岡町の下宿で、ひそかに詩を書いていた。私のデビュー作ともいうべき、詩集《静物》はそこで生まれた」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一七五〜一七六ページ)。
当時の吉岡は《小学生全集》の挿絵を吉田健男たちに依頼し、和田芳恵と《一葉全集》の内容見本を作成し、同全集の装丁造本を担当しつつ、吉田と同居中の下宿でひとり詩を書いていた。唐突なようだが、私は吉岡実が吉田健男の装丁を見ることから装丁を始めたのではないかと想像する。吉岡の戦前の2冊、詩歌集《昏睡季節》(草蝉舎、1940)と詩集《液体》(同、1941)は、著者が自作の詩のノートの表紙に筆で書名を清書したような、書道の延長といった感がぬぐえない。それは書名が書き文字であることとは無関係である。各要素の綜合的な布置をいっているのだ。

武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男〕 井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男、題字:高橋錦吉〕
武田泰淳《愛と誓ひ》(筑摩書房、1953年7月5日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男〕(左)と井上靖《昨日と明日の間》(朝日新聞社、1954年4月10日)の本扉とジャケット〔装丁:吉田健男、題字:高橋錦吉〕(右)

武田泰淳《愛と誓ひ》と井上靖《昨日と明日の間》の表紙〔装丁:吉田健男〕
武田泰淳《愛と誓ひ》と井上靖《昨日と明日の間》の表紙〔装丁:吉田健男〕

ここに吉田健男装丁の2冊がある。武田泰淳の短篇小説集《愛と誓ひ》と井上靖の長篇小説《昨日と明日の間》である。両者の仕様を簡単な表にまとめる。

書名 判型 製本 ページ数 ジャケット 表紙 本扉 定価
愛と誓ひ 四六判 上製・紙装・丸背 三一四ページ 4/0色 1色 2/0色 290円
昨日と明日の間 四六判 上製・紙装・丸背 四一四ページ 4/0色 2色 2/0色 320円

今日の文芸書とほとんど変わらない体裁である。私は〈吉岡実と吉田健男〉で「印刷物の仕事に携わって四、五年。吉田健男は自身の装丁スタイルの完成を見るまえに逝ったものと思しい」と書いたが、その記述を改めなければならない。少なくともこの2冊は、絵を良くする装丁家による見事な仕事である。吉岡は画家の優れた装丁を見て、技癢を感じなかっただろうか。白地に文字とカットを配した吉田の表紙は、吉岡実装丁の骨法とあまりによく似ている。吉田の自死を最後の踏切り板のようにして《静物》の詩篇を書きあげた吉岡は、真鍋博の細密な卵の絵を得て、詩集をひとつのまったき造型作品につくりあげた(吉岡実は《静物》を吉田健男の絵で飾りたかったのではあるまいか)。詩人としての、そして装丁家としての吉岡実の淵源に、吉田健男の存在とその作品が触れている。絵を描かず、描き文字を使用せず、気心の知れた描き手のカットと明朝活字だけで函やジャケット・表紙・本扉を構成する吉岡実装丁が、おそらくこの時期に胚胎したものと思われる。


吉岡実とエズラ・パウンド(小林一郎、2008年2月29日)

吉岡実は〈曙〉(H・8、初出は1976年11月)の末尾に「注 引用句は主に、エズラ・パウンド(新倉俊一訳)、飯島耕一の章句を借用した」と書いている。同詩篇の引用句を以下に掲げる(行頭の数字はライナー)。

01 「火の消えたような
02           褐色の肉類」

07 「下手な韻文はくりかえし
08 てはいけない」

11 「ピアノ教師のように
12             女生徒のうしろへ廻る」

14 「遠すぎて聞えてこない夜鶯の声」

19 「一枚の紙をいまも深くのぞきこむ
20 習性を失っていない」

22 「ジャスパー・ジョーンズの作品にはいつも
23 ある殺人 ある殺戮の
24 翌朝の感じがある」

30 「現在の肉食哺乳動物とはかなり異る」

35 「大きな蚕を一匹
36          漆喰の壁から抽き出す」

43 「ことばは美徳を鼓吹する
44 と同時に悪徳も鼓吹する」

46 「雨乞いをする人々の
47             消炭のような顔」

56 「素材は木と金属」

64 「池の水面は
65        錫箔でなければならない」

注の「パウンド」は新倉俊一訳《エズラ・パウンド詩集》(角川書店、1976年9月30日)だろうから、上掲の引用句を同書に探ってみる。

淡い雲のヴェールを顔にまとって
    流れに漂う木の葉のように恐るべきキュテーラ
火の消えたような蒼白な瞳

ボッティチェリやセライオたちが知っていて
      ヴェラスケスも決して疑わなかったものが
悉くレンブラントの褐色の肉や
      ルーベンスとヨルダンスのなまの肉に失われてしまった(同書、三〇〇ページ)

冒頭に対応するこれは、パウンドの代表作《詩篇[キャントーズ]》〔第八十篇抄〕の二詩節で、吉岡は〈曙〉全66行をドライブするにあたって、見事な抄出をしている。

 抽象をおそれること。よい散文ですでにやられていることを下手な韻文でくりかえしてはいけない。(同書、三四九ページ)

これは詩論〈イマジズム〉中の〈言語〉の一節。字句を修正して、リフレイン(吉岡自身、ほとんど用いなかった)を禁じる内容に変えてある。また11の「ピアノ教師のように」は、同じ三四九ページの「または、普通のピアノの教師が音楽の技巧についやすのと少なくとも同じ程度の努力を詩の技巧に払わないでも、専門家の気に入ることがあなたがたにできると思わないこと」に拠るか。

音。遠すぎてきこえないナイチンゲールの声みたいに。(同書、一四六ページ)

吉岡が《詩篇〔第二十篇〕》のnightingale(小夜啼鳥[サヨナキドリ]、学名:Luscinia megarhynchos)を「夜鶯」と変更したのは、人名ととられるのを避けた措置だろう。ここまでは順調だったが、私の調べ方が悪いのか19以降の出典がわからない。それらのすべてが飯島耕一の章句だとは思えないのだが。むしろ意外だったのは、別の詩篇〈この世の夏〉(H・24、初出は1979年8月)に「パウンド(新倉俊一訳)の章句」が借用されていることだ。こちらの詩には注が付されていないのだ。

01 「孔子は歩いて杉林に入り」……孔子は歩いて/宗廟のわきを抜け/杉林に入り/川下をつたわってそとに出た(《詩篇〔第十三篇〕》、同書、一二〇ページ)

04 「美人が月に向っている」

07 「あんずの花は
08 東から西へと咲きほころぶ」……「杏の花は/東から西へと咲きほころぶ/わたしはそれが散らないようにつとめた」(《詩篇〔第十三篇〕》、同書、一二五ページ)

13 「わびしい屋根に猫がうずくまる」……わびしい屋根に猫がうずくまり(《詩篇〔第三十九篇〕》、同書、一六四ページ)

15 「この夏もある海岸で
16 黄色い海水着をきる
17 娘」

19 「暗がりのなかで
20 金色は光りをあつめる」……「暗がりのなかで金色は/光りをあつめる」……(《詩篇〔第十七篇〕》、同書、一四一ページ)

吉岡はパウンドの《詩篇》から都合6行を拉し来って、全20行の詩篇を生みだしたのである。〈この世の夏〉は吉岡実による、引用の巨匠エズラ・パウンドへの頌歌とみるべきだろう。
吉岡 ぼくの中でも、補足は自分で作って自分で括弧にいれると、リアリティが出るなと思っちゃう。全部が人の言葉とは限ってないわけ。作り変えもあるし……。で、この行とこの行をつなぐには引用をいれないと、という感じで、自分で作った引用をいれざるを得なくなってきているのね。〔……〕自分で敢て自分の詩句を括弧にいれるとリアリティを感じられるという錯覚を作っているわけだ」(金井美恵子との対談〈一回性の言葉〉、《現代詩手帖》1980年10月号、九六ページ)。
吉岡実詩においては引用符のある詩句でも他者の章句の借用とは限らず、吉岡が自身の文言を引用符で括ってリアリティを追求している場合があるから、出典探しも一筋縄ではいかない。


吉岡実と三好豊一郎(小林一郎、2008年1月31日)

三好豊一郎(1920-92)は〈吉岡実の詩〉(《葡萄》18号の随筆〈私の好きな詩〉、1960年6月)で、冒頭に〈苦力〉(C・13)を引いてこう書いている。

 彼の詩が私にショックを与えたのは、彼の詩的本能の強靭な根強さが、私の詩的本能に強く訴えたからで、その強靭な詩的本能によって捉えられた言語が、実存の様相の、ゆるぎない表現となって開示しているからである。ここには知的遊戯の空虚な審美性は毫もない。彼の言語がゆるぎない表現となって迫るのは、彼のモティフの把握の強固さによるので、それはモダニズムの知的衣装の審美性によるものではない。彼の知性は、横溢する言語を詩的言語に錬成させ、定着させ、一篇の詩として規整する働きにおいてある。(同誌、二〇ページ)。

これは三好が《僧侶》を読んで(おそらく著者から贈られて)、吉岡と一度ゆっくり話をしたあとで書いたものだが、もしかすると吉岡の〈わたしの作詩法?〉(1967年発表)は三好のこの文章を踏まえて書かれたのかもしれない。上掲引用は結論の部分だが、その前に次の一節があるからだ。

 吉岡の詩が、モダニストの影響から出発しながら、無内容な知的遊戯におちいらなかったのは、ポエジイを詩的本能の深いところで捉えていたからで、彼が詩を説明したり、詩について語るのをためらうのは、彼の詩的本能が、詩を語るには詩作品以外にないということ、詩の発想衝動が知性の光のとどかないところに根ざすことを知っており、言いかえれば、理論よりメチエを信頼せざるを得ないことを悟っているからである。/彼が「半具象」と言ったり、「同時に複数の視線を所有する」と言うのも、これは彼の詩学理論というより、彼がみずからのメチエに対する自覚から発した彼独自の方法論なのである。(同前)

「半具象」はその後も三好が吉岡実詩を論じる際のキーワードとなるが、三好が吉岡の話をこのように要約したことで、逆に吉岡は自身の発言を再確認して、のちに〈わたしの作詩法?〉を執筆したのではないか。ちなみに、この〈吉岡実の詩〉は吉岡家のスクラップブックに貼ってあった資料で、これを読んだ吉岡が自ら保存したことの意味は大きい。
吉岡には《三好豊一郎詩集 1946〜1971》(サンリオ、1975年2月15日)の栞〈人と作品〉に寄せた〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉という随想がある。話の都合上、本文(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、一九九〜二〇二ページ)の段落に番号を振って説明するが、これはどう見ても吉岡と三島由紀夫のニアミスを書いた文章で(D〜E)、三好豊一郎についてのもの(B、H)とは思えない(三人の背後に黒マントの怪人のように立ちはだかるのが、土方巽である)。こんな我儘が通用するのも吉岡が三好と親しかったからで、それは最後の段落を読めばわかる。一方、吉岡が三好の詩に触れた〈感想〉(《現代詩手帖》1979年2月号〈第九回高見順賞発表〉)には、「鮎川信夫〔《宿恋行》〕、安西均〔《金閣》〕とはまた別種の、成熟した詩境へ到達した、三好豊一郎《林中感懐》も、忘れてはならない詩集だと、私は思っている」(同誌、一六〇ページ)とある。

(小遣いをはたいてスウェン・ヘディンを買った)
ロプ・ノール
はるかに聴く流沙の鼓動
幻の水の生命[いのち]……

〈水の追憶〉から

《林中感懐》(小沢書店、1978年5月30日)の〈水の追憶〉の一節は、吉岡の長篇詩〈波よ永遠に止れ〉を思わせる。

犀|三好豊一郎

博物館のつめたいガラスのむこうで
あの小さな青銅の犀は
二千年の沈黙を消化して
いかにも充実してみえたが しょせん
なま身の肉体のあずかり知りえぬ尺度なら
三千年でも五万年でも同じじゃないか――

妖しい夢の胎内から辛うじて這いだして
ほっとして 聴くともなく私は聴く
夜ふけのビルの屋上で吠えている犬の声を
コンクリートの断崖の
あちらの端へゆき
こちらの端へきて
身をのりだして闇の縫目を噛み裂くように
吠えているのだろう
(「生」とはひっきょうにそれ以上の何であるのか)
いつまでもいつまでも狂ったように吠えている
この生きて痩せた犬は……

〈犀〉のあとに三好の第一詩集《囚人》(岩谷書店、1949)の巻頭詩篇〈囚人〉や吉岡の〈犬の肖像〉(B・16)を引く必要はあるまい。北村太郎は「ただ、〔《僧侶》の〕言葉の使いかたやリズムということになると、〔……〕とくに三好の詩をそうとう詳しく読んでるんじゃないかなという気がしましたね」(《現代詩手帖》1978年10月号、一〇四ページ)と、吉岡詩と三好詩の類縁を指摘しているが、三好豊一郎の存在が吉岡実詩と関わってくるのは、吉岡が土方巽の三好論〈内臓の人〉(《三好豊一郎詩集〔現代詩文庫〕》、思潮社、1970)の章句を引用して、〈聖あんま語彙篇〉(G・8)を執筆したときに始まる(題辞の〈馬を鋸で挽きたくなる〉は、土方巽の原文では「私は三好さんを見る度に、馬を鋸で引きたくなる」である)。土方は三好を「文章道の師」(《土方巽頌》、筑摩書房、1987、一五四ページ)と仰ぎ、その後も長篇の散文〈病める舞姫〉(《新劇》連載、1977-78)を書いたから、吉岡の「引用詩」に三好の章句が直接見えなくても、その存在は無視しえない。それだけに、吉岡が三好豊一郎の文業について多くを語らなかったのは残念である。吉岡と三好の交遊は吉岡の死まで続き、ときに西脇順三郎や土方巽を交えたそれは、《土方巽頌》に詳しい(前掲〈奇妙な日のこと――三好豊一郎〉は、同書では〈20 スペースカプセルの夕べ――奇妙な日のこと〉と改題されている)。


吉岡実と映画(1)(小林一郎、2007年12月31日)

吉岡実は談話〈純粋と混沌〉(《映画芸術》1969年3月号の〈今月の作家論〉欄)で、「大和屋竺と新しい作家たち」(談話の副題)について縦横に語っている。吉岡の映画論としても珍しい内容だが、ところどころに自身の詩作についての言及があり、私にとってはむしろそれが貴重である。そうした観点から談話の抜き書きをしてみよう(本文の誤植は訂正した)。

 もともと、ぼくという人間は批評という鋭い分析でものを見ません。楽しみで見ちゃうとか、漠とした自分にもたらすものがあるかという気持ちで見ちゃう。

解らないからいいということはないんだけれど、解らないものを作るという人は好きなんです。人間の考え方の中で解らないのを作る人というのは凄いことで、ぼくも誰にも解らない詩を、記号でなくて、平凡な言語で作りたい。でも解ってしまうわけね、また解られてしまうわけね。映画だと、ある点解らないものを作れるんじゃないかという気がする。

 ぼくは、今の新しい映画作家というのは知らないけれど、たとえば詩を作る場合、ぼくの場合は先が解らない。創りつつ書きつつまた創りつつ、どこで完結するのかな、ああ、ここで≠ニなるわけですが、映画の場合はシナリオという言語で一応の構図というか、進行指示がある。その上で創りつつ新しい発想なり、イメージを増殖させうるのではないかな。

自分では新しがりをいっていても、映画ではあまり古臭いのは嫌だが、もう少し時間をうまく流して欲しいと思う。感興をバサバサ切られて複雑な思考を織り込まれると困ってしまうことがある。止めて鑑賞できない世界だから。

とにかくわれわれのような小市民的人間は、ある程度女性のああゆうエロチックなものを撮ろうとしている人間に共感を受ける。まじめな考え方と不道徳な考えが一緒に入っている。若松作品でいえば、評判になった「犯された白衣」より「性の放浪」の方が好きだ。山谷初男のすばらしかったこと! てらわない場面の作り方。ありうることなんですよ。芸術づいた設定をしていないんだな。していなくて、しかも深みがある。

発表されたというものは、詩に関していうと、自分でも解らないものがあるんですが、誰かぼくを補足してよくみてくれる人がいるのではないかとよく思う。映画だってそうだと思う。自分にだって解らないところがある、それを大事にしていくんでしょう。そういうふうにして作者は自信をもっていき、芸術作品はすべて救済されて、よくなっていく。(《映画芸術》1969年3月号、九二〜九三ページ)

最後からふたつめを読めばわかるように、吉岡はこの談話で随想〈ロマン・ポルノ映画雑感〉(初出は《季刊リュミエール》1号、1985年9月)の〈1 「胎児が密猟する時」〉に相当する内容を中心に語っている。ときに、この随想で言及されている映画は全部で20本。これらの秀作を掬いあげるために、吉岡はいったい何本のロマン・ポルノ映画を観たのだろうか。(*印は談話でも言及した作品)

1 「胎児が密猟する時」

  1. 若松孝二「胎児が密猟する時」*
  2. 大和屋竺「裏切りの季節」*
  3. 沢田幸弘「セックス・ハンター 濡れた標的」
  4. 小林悟「肉体の市場」*
  5. 大和屋竺「荒野のダッチワイフ」*
  6. 若松孝二「犯された白衣」*

2 「性盗ねずみ小僧」・「色情姉妹」

  1. 曾根中生「性盗ねずみ小僧」(小川節子)
  2. 藤井克彦「白い女郎花」(片桐夕子)
  3. 西村昭五郎「団地妻 昼下りの情事」(白川和子)
  4. 小沼勝「花と蛇」(谷ナオミ)
  5. 白鳥信一「赤線本牧チャブヤの女」(ひろみ麻耶)
  6. 根岸吉太郎「キャバレー日記」
  7. 曾根中生「色情姉妹」(二條朱美・続圭子)

3 「一条さゆり・濡れた欲情」

  1. 神代辰巳「一条さゆり 濡れた欲情」(一条さゆり・伊佐山ひろ子)
  2. 村川透「白い指の戯れ」(伊佐山ひろ子)
  3. 神代辰巳「四畳半襖の裏張り」(宮下順子・江角英明)

4 「人妻集団暴行致死事件」

  1. 田中登「人妻集団暴行致死事件」(室田日出男・黒沢のり子)
  2. 田中登「牝猫たちの夜」(原英美)
  3. 田中登「夜汽車の女」(田中真理)
  4. 田中登「(秘)[マルヒ]女郎責め地獄」(中川梨絵)

吉岡が談話で言及している作品のうち、随想から作成した上記リストにない6作を次に掲げる。

以上の26作品のなかで私が観たのは、わずかに若松孝二の《胎児が密猟する時》(若松プロダクション、1966年7月)だけだ(しかも1990年に大陸書房から出た〈成人映画傑作全集〉というビデオで)。もっともこれらの映画の公開当時はまだ小中学生で、映画館で観られるはずもなかったが。 吉岡は〈1 「胎児が密猟する時」〉で次のように書いている。

ただその頃、「ピンク映画」の範疇に入らない、二つの作品を、私は場末のピンク映画館で観ている。それは、若松孝二の「胎児が密猟する時」であり、大和屋竺の「裏切りの季節」である。とくに、「胎児」には衝撃を受けたものだった。山谷初男の扮する「男」が「女」を裸にして、ベッドだったか、床へじかに縛りつける。そして、ひたすら「女」の肉体を、鞭(ベルト?)で叩きつづけるのだ。この非日常的な行為がきわめて、緩慢であるため、時間は止り、女の悲鳴が狭い空間を歪曲化する。射精もなければ、受胎も拒まれた、影の映像の世界。「胎児が密猟する時」は、一寸、類をみない作品である。「男」が山谷和男だと、あとで判ったが、「女」に扮したのはいかなる女優か、いまだ知らない。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五一ページ)

前掲ビデオのパッケージには、この女「ユカ」は志摩みはるとある。志摩は《日本映画データベース》に拠れば、大和屋竺の《裏切りの季節》(若松プロダクション、1966年12月)にも出演している。


吉岡実と西脇順三郎(小林一郎、2007年11月30日)

西脇順三郎の詩と散文の選集《西脇順三郎コレクション〔全6巻〕》(慶應義塾大学出版会)が2007年の6月から11月にかけて刊行された(最終巻の随筆集には「回想の西脇順三郎」として吉岡実の〈西脇順三郎アラベスク〔(追悼)〕〉が収録されている)。かつての選集《西脇順三郎 詩と詩論〔全6巻〕》(筑摩書房、1975)が詩集(たとえば《禮記》と《壤歌》)とほぼ同時期の詩論(たとえば《詩學》)をひとつの巻にまとめていたのに対し、新倉俊一編になる今回のそれは詩集(2巻)・翻訳詩集・評論集(2巻)・随筆集と、ジャンル別に西脇の文業を精選した内容となっている。
吉岡が西脇をどう見ていたかは〈西脇順三郎アラベスク〉――《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988)や《吉岡実散文抄〔詩の森文庫〕》(思潮社、2006)で全篇を読める――が雄弁に語っており、ここで喋喋する必要はなかろう。念のために付言すれば、〈弟子〉(《神秘的な時代の詩》)、〈夏の宴〉(《夏の宴》)、〈哀歌〉(《薬玉》)、〈永遠の昼寝〉(未刊詩篇)の4詩篇が西脇に捧げられている(吉岡詩の引用章句に登場する西脇文の出典探索は今後の課題としたい)。
一方、西脇が吉岡をどう見ていたかはわかりにくい。少なくとも詩人・吉岡実に触れた単独の文章はないようだ(西脇の詩篇に《鹿門》所収の〈ヨシキリ〉があるが、《吉岡実参考文献目録》には西脇が吉岡について書いた文献として記載していない)。そこで二次資料を用いざるをえないのだが、以下に《定本 西脇順三郎全集〔第12巻〕》(筑摩書房、1994年11月20日)の鍵谷幸信〈西脇順三郎年譜〉(「昭和五十八年(一九八三)」以降は新倉俊一〈年譜補遺〉)から、吉岡が登場する項を煩を厭わず引いてみる(なお吉岡と同格扱いの他の人名は割愛した)。
ちなみに西脇の年譜に関して、吉岡は自筆年譜「昭和五十七年 一九八二年 六十三歳」の項に「晩秋、神田のラドリオで、会田綱雄、鍵谷幸信、新倉俊一、江森国友らと集まり、「西脇順三郎年譜」の確認をする」(《吉岡実〔現代の詩人1〕》、中央公論社、1984、二三六ページ)と書いており、西脇歿後も《西脇順三郎全集》と関わりが深かったことをうかがわせる。

昭和四十二年(一九六七) 七十四歳
 十二月七日、瀧口修造を囲む会に出席(原宿檻の中)。この会の帰路、吉岡実〔……〕を自宅に招き、痛飲快談する。

昭和四十三年(一九六八) 七十五歳
 三月十四日、〔……〕この頃毎週一回筑摩書房を訪ね、〔……〕吉岡実〔……〕と神保町界隈を飲み歩く。

昭和四十四年(一九六九) 七十六歳
 三月二十六日、筑摩書房『西脇順三郎全集』の刊行決定し、銀座「大隈」にて〔……〕吉岡実〔……〕と編集打合せの会をもつ。

昭和四十五年(一九七〇) 七十七歳
 三月十八日、神田「鳥初」にて全集打合せの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 三月二十八日、赤坂「銀閣」にて、全集打合せの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。

昭和四十六年(一九七一) 七十八歳
 三月三日、『西脇順三郎全集』第一巻完成、神田亀半にて祝賀会、〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 四月八日、〔……〕吉岡実〔……〕と百草園に遊ぶ。
 五月二十六日、〔……〕吉岡実〔……〕と鎌倉に遊び、高見順夫人と懇談。

昭和四十七年(一九七二) 七十九歳
 八月、「無限」二十九号、西脇順三郎特集号を刊行(作品「桂樹切断」を寄稿。〈献詩〉〔……〕吉岡実〔詩は〈弟子〉(F・15)〕〔……〕)。

昭和四十八年(一九七三) 八十歳
 二月二十日、全集完結祝賀会を原宿福禄寿にて行う。〔……〕吉岡実〔……〕出席。

昭和四十九年(一九七四) 八十一歳
 四月十一日、浅草伝法院にて順三郎作、龍虎の墨絵二幅を展覧し、遊ぶ。〔……〕吉岡実〔……〕参加。

昭和五十年(一九七五) 八十二歳
 六月十七日、右『詩と詩論』〔筑摩書房版『西脇順三郎 詩と詩論』全六巻〕刊行の会が銀座第二浜作で開かれる。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 『同〔西脇順三郎 詩と詩論〕O』十月三十一日 四五五頁 詩『鹿門』『未刊詩篇』、詩論『未刊エッセイ』抄、『剃刀と林檎』抄。年譜鍵谷幸信。付録吉岡実「西脇順三郎アラベスク」

昭和五十二年(一九七七) 八十四歳
 十二月二十七日、渋谷「駒形どぜう」で〔……〕吉岡実〔……〕と忘年会。

昭和五十四年(一九七九) 八十六歳
 六月、詩集『人類』を刊行。順三郎は吉岡実に向って「これがぼくの最後の詩集です」と語った。
 六月十九日、詩集『人類』の見本出来、吉岡実〔……〕と代々木八幡橘寿司で慰労会を開く。
 六月二十九日、渋谷「駒形どぜう」で『人類』の出版祝い。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 十月、吉岡実『夏の宴』の装画を描く。〔詩〈夏の宴〉(H・20)を収載〕
 『人類』刊 六月二十日 筑摩書房 二一・五cm×一四・五cm 二九七頁 箱入 限定千二百部 定価四五〇〇円 付録パンフレット 〔……〕吉岡実「《人類》出現」〔……〕
 『宝石の眠り』刊 十一月三十日 花曜社 一九・三cm×一二・八cm 箱入 著者挿画一葉 一〇二頁 装幀吉岡実 定価二七〇〇円
 「現代詩読本9 西脇順三郎」(思潮社)を刊行(〔……〕吉岡実「西脇順三郎アラベスク」〔……〕)。

昭和五十六年(一九八一) 八十八歳
 一月二十日、『定本西脇順三郎全詩集』刊行。自宅で誕生祝いの会を開く。〔……〕吉岡実〔……〕出席。
 十一月九日から三十日まで赤坂の草月美術館で「西脇順三郎の絵画」と題して展覧会開かれる。〔……〕九日夜、〔……〕吉岡実夫妻〔……〕順一、緑夫妻の招きで西脇家に行き、遅くまで談笑。順一が「父は下へ降りてきて皆さんにご挨拶すべきだ」といい、二階から順三郎が降りてくるも、体に震えがきて直ちに横臥。

昭和五十七年(一九八二) 八十九歳
 没後雑誌追悼特集及び関係記事は左記の通りである。
 「現代詩手帖」七月号(〔……〕座談会「比類ない詩的存在」吉岡実〔……〕)
 「ユリイカ」七月号(〔……〕吉岡実「哀歌」〔(J・13)〕〔……〕)
 ほかに追悼文の掲載されたもの以下のとおり。
 〔……〕吉岡実「西脇順三郎アラベスク〔(追悼)〕」(「新潮」八月号)

昭和六十三年(一九八八)
 六月十日、赤坂の草月会館にて「西脇順三郎を偲ぶ会」を六時より開催。発起人は〔……〕吉岡実。

平成元年(一九八九)
 三月三十一日、西脇展〔後出〕オープニングには〔……〕吉岡実その他多数が出席した。
 四月一日から五月十四日まで、新潟市美術館で「永遠の旅人西脇順三郎 詩・絵画・その周辺」展を開催。入場者一〇四一〇人。展覧会カタログ発行。内容は、〔……〕(献詩・献辞)〔……〕吉岡実〔詩は〈永遠の昼寝〉(未刊詩篇)〕〔……〕

平成二年(一九九〇)
 五月三十一日、吉岡実死去。

西脇順三郎年譜では、吉岡が筑摩の社員として装丁を手がけた西脇全集や《人類》関連の記載が多いことに気がつく。吉岡が随想に記した事柄も数多い(事情はむしろ逆で、年譜編纂者が吉岡文から採録した可能性が高い)。なお吉岡には〈西脇順三郎アラベスク〉以外に、《「死児」という絵〔増補版〕》所収の〈日記抄〉、〈読書遍歴〉、〈『プロヷ〔ワに濁点〕ンス随筆』のこと〉、〈出会い〉、〈奇妙な日のこと〉、〈孤独の歌〉、〈二つの詩集のはざまで〉、〈遥かなる歌〉、〈高柳重信断想〉、〈白秋をめぐる断章〉、〈くすだま〉(以上、発表順)に西脇または西脇詩への言及がある。
一方、詩人としては西脇順三郎特集号や追悼号への寄稿が目につく。最初の問に戻り、西脇順三郎にとっての吉岡実を考えるに、「詩を解する」筑摩書房の編集者・装丁家、というのがいちばん近かったのではあるまいか。函と表紙に西脇の装画をあしらった《ムーンドロップ》を出したあとの吉岡に尊敬する詩人について訊く機会があったが、予想に反して誰の名前も出てこなかった。西脇順三郎は? と水を向けると、西脇に限らずどんな詩人の影響(とたぶん言ったはずだ)も振りすてて進んでいく、という気概を顕わにされた。そのとき吉岡の脳裡には《失われた時》とも《壤歌》とも異なる、自身の「長篇詩」――それは土方巽の死を悼んだ〈聖あんま断腸詩篇〉(K・12)の手法を大大的に展開したものになったはずだ――の予感が渦巻いていなかっただろうか。


随想〈学舎喪失〉のこと(小林一郎、2007年10月31日)

吉岡実の随想〈学舎喪失〉は《文學界》1985年9月号の〈私の風景〉という連続企画コラムに発表された(吉岡の回は18字×23行×3段、すなわち1242字の本文スペース)。のちに《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988、二七一〜二七二ページ)に収められる際、ほぼ三分の二の800字強に縮められた。吉岡の随想では珍しいケースと言える。定稿末尾の自作短歌「白鷺の一声啼きてよぎりゆく薄暮の橋に灯のとぼりたる」のまえにあった二文「小学四年生の頃、ドッジボールのやりすぎから、私は肋膜炎になった。駒形どぜうの近くの実費診療所へ通うために、この橋をしばしば往復したものだった。」が削られたのは、短歌を引きたてるための措置と思われる。驚くべきは、続く3段めの文章全体が削除されたことだ。

 この一首は、二十歳ごろ詠んだもので、「駒形橋暮吟」と詞書がある。
 私は久しぶりで、駒形堂にお参りして、浅草へ行った。祭礼とか物日だと賑やかだが、普段は淋しい。雷門の入口の右角に、アオノという玩具店がある。幼い頃、両親につれられての観音様参りの帰りに、きまってこの店の前で、おもちゃをせがんで、泣いたものだ。浅草は家から歩いて二十分たらずの距離なので、少年時代はよく独りで、遊びに来たものだった。映画街の雑踏をよそに、藤棚のある瓢箪池には、鯉、緋鯉が泳いでいた。
 昭和六年に、松屋デパートが開店すると、下町の悪童たちはこぞって、集まったものだった。スポーツランドが出来、ローラースケート場さえ備えていた。
 客もなく、ひっそりした書籍売場のガラスケースの中に、外国の写真集が飾られ、開かれた頁に、若い女の裸体が眺められ、私はしばらく釘付けになってしまった。(《文學界》1985年9月号、二九六ページ)

ここをカットしたことで文意が通りにくくなったのだろう、「小学四年生の頃、〔……〕」のひとつまえの文は「〔いつもなら、→トル〕まっすぐ浅草へ行〔くのだが→かず〕、脇道をして、駒形橋をわた〔った→り、駒形堂にお参りをした〕。」と手が入れられた。興味深いのは、子供のころの記述が《うまやはし日記》(書肆山田、1990)の昭和13(1938)年9月2日にほとんど同じ形で見えることだ(初出は《現代詩手帖》1980年10月号だが、初出および初収録の〔増補版〕では9月1日のことになっている)。〔増補版〕では〈うまやはし日記〉を優先して、初出〈学舎喪失〉の記述を嫌ったか。

 浅草を歩く。てんぷらの三定の隣りの玩具屋には、おもちゃが溢れている。子供のころこの店の前で、ゼンマイ仕掛の昆虫や刀を欲しがって、父母を困らせたものだ。ひょうたん池の樹の下で、鯉や緋鯉の遊泳を見た。(《「死児」という絵〔増補版〕》(筑摩書房、1988、二五一ページ)

吉岡実は1919年、東京市本所区中之郷業平町(現在の東京都墨田区業平2丁目か)に生まれ、4歳のとき、この地で関東大震災に遭遇した。震災後に転居した本所区東駒形の二軒長屋から、明徳尋常小学校(明治8(1875)年開校)卒業後、本所区厩橋2-13(同・墨田区本所2-18あるいは2-19、詩歌集《昏睡季節》や詩集《液体》の発行所・草蝉舎の所在地)の四軒長屋へ移り、22歳のときにこの家から出征した。
「少年時代を過した二軒長屋の辺りは、家並が変ってはっきりしない。Y新聞販売店になっている処のように思われた。」のY新聞が読売新聞なら、執筆当時の業平販売所、本所販売所(いずれも墨田区業平3-10-12)に思えるが、前述の東駒形ではなく、場所を特定できない。吉岡実の少年時代を随想〈私の生まれた土地〉や〈あさくさの祭り〉で偲んだあとは、厩橋を散策するに如くはない。


吉岡実の愛唱歌(小林一郎、2007年9月30日)

太田大八のエッセイ〈カメレオンの眼〉の一節に「怪談話に目を見開いて真剣に聞き感心するのも吉岡だった。芸者ワルツは傑作であると激賞したり、一つ覚えの八百屋お七を悲鳴に近い声で歌ったりしていた」(《ユリイカ》1973年9月号、八七ページ)とある。2005年の11月、太田大八さん・十四子さん夫妻にお目にかかったときに、〈芸者ワルツ〉と〈八百屋お七〉について訊いてみた。なにせ私の生まれた昭和30年前後のことなので、かいもく見当がつかないのだ。
まず〈芸者ワルツ〉は、西條八十作詞・古賀政男作曲の〈ゲイシャ・ワルツ〉(1952年5月31日録音・8月1日発売)だと判明した。神楽坂はん子(1931-95)をスターダムにのしあげた歌、お座敷歌謡の白眉だと、同曲を収めた最近のCDのライナーノーツにはある。

あなたのリードで 島田もゆれる/チークダンスの なやましさ/みだれる裾[すそ]も はずかしうれし/芸者ワルツは 思い出ワルツ

空には三日月 お座敷帰り/恋に重たい 舞扇[まいおうぎ]/逢わなきゃよかった 今夜のあなた/これが苦労の はじめでしょうか

あなたのお顔を 見たうれしさに/呑んだら酔ったわ 踊ったわ/今夜はせめて 介抱してね/どうせ一緒にゃ くらせぬ身体[からだ]

気強くあきらめ 帰した夜は/更けて涙の 通り雨/遠く泣いてる 新内流[しんないなが]し/恋の辛さが 身にしみるのよ

(《西條八十全集〔第9巻〕》、国書刊行会、1996年4月30日、三二八〜三二九ページ)

同じ1952年に大ヒットしていた江利チエミ(1937-82)の〈テネシー・ワルツ〉に対抗して作られた曲だというが、企画物であることを感じさせないなかなかの佳曲である。


神楽坂はん子〈ゲイシャ・ワルツ〉(コロンビア、1952)
出典:http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r39585774

一方〈八百屋お七〉は、太田さんから教えていただいた「元から先まで毛が生えた/玉蜀黍を売る八百屋」という歌詞を手掛かりに、インターネットで検索してみた。口承の唄らしく、定稿はないようだ。なぎら健壱のLP《春歌》(カレードスコープ、1974)所収の〈八百屋お七〉からの転載を引く。

ところは駒込吉祥寺 離れ書院の奥座敷 ころは元禄徳川の井原西鶴その人の 十人女のその中で 淫乱狂女と唄われし 八百屋お七の物語 お七の好きな長なすび 元から先まで毛のはえた とうもろこしを売る八百屋 いっそ八百屋が焼けたなら いとしこいしの吉さんと おへそ合わせもできように それが女の浅はかさ 一把のワラに火をつけて パッと燃え出す火事の元 人知るまいと思うたに 天知る地知る人の知る 隣のとなりのそのとなり となりのババァーに見つかって 告訴せられて捕縛さる 一段上には御奉行様 一段下がってお七殿 もみじのような手をついて 申し上げます御奉行様 私の生まれたその年は ひのえひのとしひのえうま 七月七日の七夕で それでお七と申します 十四といえば助かるを十五と言ったばかりに 百日百夜は牢の中 百日百夜があけたなら 裸の馬に乗せられて 泣く泣く渡るは日本橋 吉原女郎衆の言うことにゃ あれが八百屋の色女 目もとぱっちり色白で 腰もとすんなり柳腰 女の私がほれるさえ 吉さんほれるは無理もない 人里離れた坊主さえ もくぎょのワレメで思い出す 南洋の土人の娘さえ バナナの皮むきゃ気分出す まして我々凡人はセンズリかくのも無理はない てなてな恋の物語 昭和の御代まで名を残す 八百屋お七の物語

太田大八の(ということは吉岡実の)口ずさんだ節も、なぎら健壱の曲も聴いていないのでなんとも言えないが、ふたつは同じではあるまいか(なぎらさんの著書の印象から、そう思う)。
吉岡の結婚披露宴で、筑摩書房の編集者が吉岡に〈八百屋お七〉を歌うよう囃したが、太田さんとともに吉岡の親代わりを務めた十四子さんは「結婚式で歌う唄じゃないから」と止めたそうだ。〈八百屋お七〉は、同僚も認める吉岡の十八番だったのである。

〔付記〕
江戸川乱歩の短篇〈押絵と旅する男〉に、浅草の十二階を背景にして「覗きからくり」が登場する。このからくり屋の夫婦が嗄れ声を合わせて、鞭で拍子を取りながら歌っている〈八百屋お七〉が「からくり節」だ。往時のからくり節を知る人によれば、古風な哀愁を帯びた口調で、会社の宴会などで余興に披露する者もいたという。落語〈くしゃみ講釈〉には、男が「胡椒=小姓」を想いだすために覗きからくりを真似る場面がでてくるが、そこでからくり節(?)を聴くことができる。


吉岡実と《アラビアンナイト》(小林一郎、2007年8月31日)

吉岡実は《アラビアンナイト》、《千夜一夜物語》について二度書いている。まずは詩的散文〈突堤にて〉(初出は《現代詩》1962年1月号)の一節。

 Dは食事を待っていてくれた。甘鯛の煮付に、又あわびとさざえで、がっかりした。Dの仕事は順調にいっているらしく、ビールを二、三本のんだ。机がわりの膳の上に五、六枚仕上った挿絵が置かれていた。その物語はアラビアンナイトだが、子供用の雑誌にしては、大変エロチックな挿絵だった。これで大丈夫、とおるのかなと思った。Dにいわせれば、今までに幾回か手がけたので、少し冒険したかったらしい。私は絵であれ、写真であれ女の裸体を見ると刺激されるのだ。友人の描いた子供のための挿絵でもう胸があつくなり、寝ぐるしくさえなっていた。(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、四九〜五〇ページ)

そして、随想〈読書遍歴〉(初出は《週刊読書人》1968年4月8日)における小学校時代の想い出。

 まとまって長いものを読んだのは、中央公論社版の『千夜一夜物語』位だろう。×××があって、恐しくエロチックな描写に大変興奮したように思う。(同前、五六ページ)

《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》でも書いたように、この中央公論社版の書名は《千夜一夜物語》ではなく《千夜一夜》で、吉岡は記憶に頼って随想を執筆したのであろう。訳者による〈序〉(訳者代表は大宅壮一だが、執筆者名はない)にこうある。
「日本でも、明治八年に永峰秀樹といふ人の訳で、「開巻驚奇、暴夜物語」と題して紹介されて以来、十指にあまる訳本が刊行されてゐるが、すべて前記の不完全な抄訳本〔レイン版など〕を更に抄訳したものである。最近出たものゝ中では、「世界童話大系」中の日夏耿之介氏訳及び国民文庫刊行会発行の森田草平氏訳が、質量共に断然すぐれてはゐるが、いづれも前記レイン版によつたものであり、従つてレイン版の短所の大部分を踏襲してゐるのは己〔ママ〕むを得ない」(《千夜一夜〔第1巻〕》、中央公論社、1929年12月25日、〔前付〕三ページ)。
当の日夏耿之介は《千夜一夜》月報の第1号(同前)に寄せた〈全世界一大奇書〉で

 今頃アラビヤンナイトでもあるまいといふ猪尾助子もあるだらうが、「新しく」て「進歩し」た「実証」世界にも、夢の論理と幻境倫理とが必ずあつて、服飾だけ代りあひまして同じマヂツクワンドを白日のもとに振るのである。むしろ畏怖に耐へたるこの夢幻境の殿堂生活の名残りの怡び去りやらず、年を経て予〔わたくし〕も自らバアトン完訳を志したが、その方は世累にわづらはされて果さず仕舞ひ、恰もその時さる本屋の求めに応じてレイン本を全訳して僅かに欲求の一部を慰めた事もある。

と書いて、中央公論社版《千夜一夜》が底本としたバートン版に敬意を表している。
国民文庫刊行会版の森田草平訳《千一夜物語〔全4巻〕》は未見だが、1927年にアルスから刊行された同じ訳者による書きおろし《アラビヤ夜話〔日本児童文庫〕》(1982年に名著普及会から復刻版が出ている)の〈例言〉に曰く、本書は国民文庫刊行会版から子供向けの8篇を選んで(第9篇〈アリ・ババ〉はバートン版による)、なるべくわかりやすい文体に書きなおしたもので、子供にふさわしくない、いかがわしいところは改作してある。類書とは異なり、日本人の私が選択して、日本の児童のために書きなおしたものである、云云。本書に収めるのは、以下の9篇である。〈ユーナン王と学者ヅーバンの話〉〈ハサンと馬丁の話〉〈若い獅子と大工の話〉〈アラ・エ・ディーンの話〉〈ひょうきん者ハサンの話〉〈賢婦ヅムルッドの話〉〈馬どろぼう〉〈エス・シンヂバードの航海譚〉〈アリ・ババと四十人の盗賊〉。この森田草平《アラビヤ夜話》を現代かなづかいに改めて、改題した《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955)の表紙絵・口絵・挿絵を担当しているのが、前掲〈突堤にて〉の「D」こと太田大八である(《吉岡実言及書名・作品名索引〔解題付〕》参照)。

森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の表紙〔装丁:庫田x〕 森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の口絵:太田大八 森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の挿絵:太田大八
森田草平《アラビアンナイト〔小学生全集63〕》(筑摩書房、1955年2月5日)の表紙(左)〔装丁:庫田叕〕、口絵(中)と挿絵(右)〔絵はいずれも太田大八〕

冒頭に引いた文章を読みかえすまでもなく、吉岡が《アラビアンナイト》にエロチックなものを結びつけていることは見やすい。せっかくだから、中央公論社版巻頭の〈シャーリアール王兄弟の話〉の一節を引いてみよう(原文の総ルビは煩瑣につき省いた)。

 そんなわけで、翌朝兄王の狩猟に出かけるのを見送つたシャー・ザマーンは居間を出て、遊園を眼下に瞰下す格子窓の前へ坐つた。そして、人知れず妻の裏切を悲しみ歎きながら悩む胸から火のやうな吐息を吐いてゐた。おゝその時! 外濠に通ずる秘密の地下道の扉がパツと開かれ中から現れて来たのは、二十人の奴隷に侍かれた凄いほど美しい兄王の妃であつた。美と優婉と均整と難のない愛らしさの化身ともいふべき王妃は、冷いやりとした空気を慕ひ求めながら、羚羊のやうな蓮歩を運んで来た。そこでシャー・ザマーンは窓から身を退き、向ふから見えないうやうに用心しながら、一行の様子を覗き見してゐた。一同は覗いてゐるものがゐやうなどゝは夢にも思はず、その格子窓のすぐ下を通つて、庭の大きい池の真中に設へられた噴水の側までいくと、みんな一斉に着物を脱いだ。おゝ、そのうちの十人は後宮の婦人たちで、他の十人は男の白人奴隷ではないか。それから男と女が銘々一人づゝ組になつて分れた。たゞ一人取残された王妃は、「わたしのとこへおいで、サイード様!」と大声で叫んだ。すると、一人の穢らしいが身体の逞しい黒人が、白眼をむき出した眼をギロギロさせながら、樹立の中から飛出して来た。なんといふ無気味な光景だらう。そして黒人は傍若無人に王妃の方に近づき×××××××××××両手を投げかけたが、××××××××××××××××。と見るうちに、黒人は×××××××××××、ボタン孔がボタンに纏ひつくやうに、からみ合つて地面の上に倒れた。十人の奴隷もみなそれに倣つて××××××××、×××××、××××××、×××××××、××××××いつ果つべしとも見えなかつた。日が暮れかゝる頃になつて、男の奴隷はやうやく女たちから離れた。例の黒人も王妃の側から退いた。奴隷達はもとの女装に還り、女たちもみな着物を着た。たゞ黒人だけはそのまゝ樹立の奥深く姿を消してしまつた。それから一同は宮殿の中にはいり、地下道の扉は元のやうに閉された。(《千夜一夜〔第1巻〕》、中央公論社、1929年12月25日、五〜六ページ)

伏字に関して、訳者は前掲〈序〉で「所々に出て来る男女間の露骨な描写は、〔……〕現行検閲制度を考慮して、幾らか遠慮したり、表現をやはらげたりしたところもあるといふことを諒承して頂きたい」(〔前付〕五ページ)とエクスキューズをしている。上掲引用文の伏字と同じ箇所を、後年の大場正史訳《バートン版 千夜一夜物語〔第1巻〕》(筑摩書房・ちくま文庫、2003年10月8日)から引くが、私に言わせれば「ボタン」の喩の方がよほどハイテンションだ。

くだんの黒人は大胆不敵にも妃に近づいて、腕をその首にまきつけた。妃も同じように男をひしとばかりかきいだいた。つぎに、男は荒々しく接吻[くちづけ]し、まるでボタン孔[あな]がボタンをしめるように、自分の脚を相手の脚にからみつけ、地上におし倒して、女を楽しんだ。/ほかの奴隷たちも女どもを相手に同じまねをし、だれも彼も淫欲を満たした。接吻し、抱擁し、交会[とぼ]し、ふざけあいなどして、いつはてるともみえなかったが〔……〕(同書、四八ページ)

吉岡実の詩に《アラビアンナイト》ふうと言うか中近東ふうな場面が顕著なのは、なんといっても長篇詩〈波よ永遠に止れ〉(初出は《ユリイカ》1960年6月号)だが、忘れられないのが〈老人頌〉(初出は《批評》1959年5月〔春季・2号〕)である。詩集《紡錘形》(草蝉舎、1962)の冒頭を飾った〈老人頌〉の終わり三分の一ほどを引こう。――省略した部分には「裂かれぬ魚の腹はたえず発光し/たえず収縮し/そのうえ恐しく圧力を加えて/エロチックであり」という詩句も見える。

〔……〕
老人は回想する
正確にいうならば創造するのだ
胃袋と膀胱のために
交代のない沙漠の夜を
はいえなや禿鷹の啼きごえを
星と沙の対等の市を
そして小舎の炎の中心に坐り
王者の心臓の器で
豪奢な血を沸騰させようとする
むなしく伏せられた
笊のごとき存在
みごとな裸の踊子も現われぬ
不安な毛の世界で
床屋の主人が剃刀をひらめかせ
老人の大頭を剃りあげる
石膏のつめたさ
美しい死者として
幼児とペリカンの守護神として
他人には邪魔にならぬ所へ移される

吉岡実詩に特徴的なエロチックな側面は、《僧侶》(書肆ユリイカ、1958)以降とりわけ顕著になってくる。〈ポルノ小説雑感〉に見える昭和20年代後半の「ポルノ小説」「に類する外国文学」(《「死児」という絵〔増補版〕》、筑摩書房、1988、三五五ページ)の受容とともに、若年からの《アラビアンナイト》、《千夜一夜物語》の影響も無視できないように思える。


リュシアン・クートーと二篇の吉岡実詩(小林一郎、2007年7月31日)

フランスの画家リュシアン・クートー(1904〜77)の絵が吉岡実の詩2篇と関わっていることについて書く。以前〈吉岡実詩集《静物》稿本〉で触れたが、書きおろしの詩集《静物》(私家版、1955)に収められた詩篇〈風景〉(B・10)は、印刷用原稿=稿本の段階では目次・本文とも〈クートーの風景〉という題名だった。〈クートーの風景〉が校正のある時点で〈風景〉に変わったわけだが、吉岡はいつ、いかなる理由で改題したのだろうか。なにはともあれ〈風景〉を読んでみよう。

風景|吉岡実

緑の樹は
すみずみまで
けものの歯の中から
船や海岸や館の庭まで繁りつくす
ついには棘ばかりのバラの蔓は
石の出窓をのりこえ
女の奥ふかくの卵型の殻のふちまで
とりかこみそっと支える
それは泛かんでしまった
発端のない世界の変りはてたすがた
注ぐ雨にかたむく世界
稲妻の光にひととき映されて
台所をこのんで歩く鶏たち
パン職人の旺盛なる欲情の手にいっぱい
黄なびた蛙の脚はたれさがり
それへ近づく
非常に静かになった空
緑の弱々しく洩れてくる
落日の地方
ブリキ製の亀の手足や
首のひとゆれが見える町の家の灯
母親が現われる
器の中に食物が捧げられ
いちじくの葉に
美しくわれだす露が示される
黄色に枯れてゆく
事物や風景の下で
家族は団欒する

萩原朔太郎詩を彷彿させる一節もあるが、〈風景〉という題で充分通用する。これが〈クートーの風景〉だと、先行するなにか(それがなんであるかを問わない)を詩のなかの「風景」がなぞったように映る。いずれも行頭に置かれた「緑の」「黄なびた」「緑の」「黄色に」といった限定が具体的な典拠を想像させるだけでなく、〈クートーの風景〉の樹、けもの、バラの蔓、鶏たち、蛙、亀、いちじくなどの動植物が、それこそ絵に描いたように収まってしまって、吉岡実詩ならではのドライブ感に欠ける憾みが残る。後年、吉岡が金井美恵子に「だから、意識的に卵の詩を書く場合は卵が何回か出るけど、多くの詩の場合は、「薔薇」なら「薔薇」でもいいや、それが一度出たらもう出てこないはず」(《現代詩手帖》1980年10月号、九八ページ)と語ったことが思い出される。このように、〈風景〉が〈クートーの風景〉だと詩の印象が微妙に変わってくるが、それは、21世紀の現在の読者よりもこの詩が発表された半世紀前の読者のほうが強かったのではあるまいか。今日、ほとんど忘れられた感のある画家クートーだが、手近な美術辞典ではこう紹介されている。

クートー ルシアン Lucien Coutaud(1904〜)〔仏・画〕ガール県メーヌに家具職人の子として生る。ニームの美術学校に学んだ後、パリに出て二、三の研究所に通う。一九二八年頃より作品を発表し出したが、その後イタリアに遊び、初期ルネッサンス、特にピエロ・デラ・フランチェスカに感動したと伝えられる。帰仏後はシュールレアリスムの作品を発表しているが、四二年来は主としてサロン・ドオトンヌ及びテュイルリーに出品、四五年にはサロン・ド・メエの設立に参加した。その独特の、針と刺を想わせるような線と形の組合わせによる人体からは、一種の悲哀の情と夢幻が不思議な現実感となって、われわれに迫ってくる。最近の彼はタピストリーの下絵、建築装飾、バレエの装置など、装飾美術の方面にも、その多才ぶりを発揮している。現在、フランスの中堅作家中、最も注目される一人である。(嘉門〔安雄〕)(今泉篤男・山田智三郎編《西洋美術辞典》、東京堂、1954年11月30日、一九八〜一九九ページ)

クートー、リュシアン Lucien Coutaud 1904.12.13―  フランスの画家。ガール県メーヌに生れた。初期にはシュルレアリスム風の作品を描いているが、運動には参加しなかった。1943年のサロン・ド・メーの設立者の一人。とげの生えたような四肢をもつ切れ切れの人体が現代の荒野を歩む主題を多く描く。特異な装飾性をおびた幻想的画風でデザイン、插絵、建築装飾、舞台美術でも活躍。代表作に『緑のスカート』(1945、パリ、国立近代美術館)がある。(《新潮 世界美術辞典》、新潮社、1985年2月20日、四二八ページ)

クートー Lucien COUTAUD
1904〜77. フランス
南仏メーヌに家具職人の子として生まれる。ニーム美術学校、次いでパリ美術工芸学校に学ぶ '28この頃より作品を発表。その後イタリアに遊学、初期ルネッサンスに感銘したといわれる。帰仏後シュールレアリスムの異色作家として知られる '42〜主として、サロン・ドートンヌとサロン・デ・チュイルリーに出品 '45サロン・ド・メの設立に参画。以来常任委員 '64〜パリ美術学校版画科主任教授を務めた。油彩画の他、版画はもちろん、壁画、タピストリー、建築装飾、オペラの舞台デザインなど装飾美術にも多才ぶりを発揮 '67パリ市絵画大賞 他受賞多数/カラーエッチング、ビュラン、ドライポイント、アクアチントなどを駆使し約一〇〇種の銅版画を制作。(室伏哲郎《版画事典》、東京書籍、1985年9月18日、八三八ページ)

吉岡実が《静物》を構成する詩篇を書きついでいた1950年代前半、リュシアン・クートーはわが国美術界で注目されていた、おそらく現在では想像できないくらいに。
クートーの作品がわが国に本格的に紹介されたのは、《みづゑ》558号(1952年2月)の6点の図版とふたつの文章が最初のようだ(〈画家クートと詩〈模写〉の初出〉に図版のコピーを掲げてあるのでご覧いただきたい)。同誌掲載の和田定夫〈リュシアン・クートオ〉と荻須高徳による画家のアトリエ訪問記はともに単行本《フランスの若き画家達》に収録、二人の共著として同年6月に刊行されている(口絵にカラー1点とモノクロ2点のクートー作品を掲載)。和田は本文で「リュシアン・クートオの芸術も亦私には中世紀、わけてもゴシックの芸術と近似しているように思われてならない」(《フランスの若き画家達》、美術出版社、1952年6月20日、四一ページ)――「近代のスフィンクスは形而上の野の中を散歩する」(同前、四三ページ)と書いている。
翌1953年1月には初の個展が神奈川県立近代美術館で開かれ、4ページのリーフレットながら目録も刊行された(吉岡が同展を観た記録はないが、観ていなければおかしい)。この個展を受けて、《みづゑ》570号(1953年2月)には29点の図版とともに(うち2点はカラー)、土方定一の〈リュシアン・クートーについて〉が掲載された(同文は《ヨーロッパの現代美術》、毎日新聞社、1953年7月20日に収録)。「リュシアン・クートーのあのvacuum〔真空〕の画面はどうであろうか。この門をひとたびくぐって、月光のように透明で幽暗な照明を浴びたすべてのものは、音という音を奪われ、白日夢のように、クートーの世界の形と象徴とに変形されてしまう」(同書、一六〇ページ)。
同年同月の《美術手帖》はクートーの図版を17点掲げ(うち2点はカラー)、瀧口修造が〈クトオ偶感〉で「おそらくクトオはフロイドの世紀の古風で優雅な寓意画家ということになるのではなかろうか」(同誌、1953年2月号、一〇ページ)と書き、末松正樹が〈地平線の神秘――リュシアン・クトー展の印象〉で「幻想の世界をあれほどリアルに表現するためには、こうしたリアリズムの基盤と優れた造型力がなければならないので、彼の鋭いデッサン、線やフォルムのきびしさ、構成の密度は高く評価されねばなりません」(同前、一五ページ)と書いた。
さらに翌翌1954年には、美術全集に絵画作品が掲載された。《世界美術全集 27〔西洋二十世紀K〕》(平凡社、1954年6月30日)の1点(図版解説は吉川逸治)と、座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日)の8点がそれである。吉岡が〈〔クートーの〕風景〉を書くにあたって参照したのは、この大判(B4の天地切り)の《現代世界美術全集〔第9巻〕》だったと思われる。その理由は追って述べるが、まずは本書の紹介を簡単にしておこう。《現代世界美術全集》は梅原龍三郎・志賀直哉・福島繁太郎・武者小路実篤・安井曾太郎といった重鎮が監修者に名を連ねているが、本巻を実際にまとめたのは、以下に収録画家とともに掲げる( )内の解説執筆者たちだろう。
グロメール(大久保泰)/タンギー(田近憲三)/クートー(徳大寺公英)/ピニョン(富永惣一)/マルシャン(嘉門安雄)/ロルジュ(和田定夫)/マネシエ(植村鷹千代)/ミノー(益田義信)/ビュッフェ(福島繁太郎)/クラーヴェ(宮田重雄)
10人集のなかにあって、その作風をひとことでいえば「神経質なダリ」とでも呼ぶべきクートーは、異色の画家という印象が強い。収録されたクートー作品の図版は以下のとおりである(ローマ数字の番号は引用者が付けたもの)。
原色版(カラー)
 J〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951
 K〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952
グラヴィア(モノクロ)
 L〈ラインの想い出―Souvenir rhenan〉1930
 M〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944
 N〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945
 O〈想い出―Souvenir〉1949
 P〈右手に灰色の男が現われる―A droite, l'homme gris fonce parait〉1952
 Q〈海岸のエロティコマジー―Plage de l'Eroticomagie〉1954
この図版は、前掲《みづゑ》や《美術手帖》、掲載文を収録した単行本に添えられたどのクートーの図版よりも、吉岡の〈〔クートーの〕風景〉の詩句と連動しているようにみえる(資料として〈主要媒体に掲載されたクートー作品の図版一覧〉を末尾に掲げた)。
まずカラーの2点のうちKは「緑の樹は/すみずみまで/けものの歯の中から/船や海岸や館の庭まで繁りつくす」、Jは「ついには棘ばかりのバラの蔓は/石の出窓をのりこえ/女の奥ふかくの卵型の殻のふちまで/とりかこみそっと支える/それは泛かんでしまった/発端のない世界の変りはてたすがた」という、詩篇の冒頭部分に対応する。

リュシアン・クートー〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951 リュシアン・クートー〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952
J〈トリアノンの娘たち―Les desmoiselles Trianon〉1951(左)とK〈若いロアルアルブル―Jeunes loirarbres〉1952(右)
出典:座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日、図版5〜6)

一方、モノクロ6点のうち、Mは「非常に静かになった空/緑の弱々しく洩れてくる/落日の地方」に、Nは「稲妻の光にひととき映されて/台所をこのんで歩く鶏たち/パン職人の旺盛なる欲情の手にいっぱい/黄なびた蛙の脚はたれさがり」に、Pは「母親が現われる」に、Qは「事物や風景の下で/家族は団欒する」に対応するように見えなくもない。――などと遠回しに言うのも、モノクロ図版のクートー作品になにが描かれているか判別しにくいのに加えて、吉岡の詩句が常にも増して意味をたどりにくいからである。
NおよびPは、画題と吉岡の詩句が呼応している点に注目したい。これは、のちのスタンチッチの画題と〈死児〉(C・19)の関係を先取りしていよう。これらの図版と詩行が完全にマッチしなくても、クートー作品と吉岡詩を詩画集のように観て、読む自由は今日のわれわれに残されている。

リュシアン・クートー〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944 リュシアン・クートー〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945
M〈緑の広場と青い雲―Trois nuages bleus sur la place verte〉1944(左)とN〈夜のパン運び―Porteuse du pain dans la nuit〉1945(右)
出典:座右宝刊行会編《現代世界美術全集〔第9巻〕》(河出書房、1954年8月25日、図版15〜16)

――本全集の装丁は原弘。特筆に価する造本設計・レイアウトも原(のディレクション)だろう。〈解説〉以下の本文はスミと紫の2色刷りで、同じスミと紫(ノンブルのみ)による印刷の《静かな家》(思潮社、1967)のスルスのひとつか。――